シャン・ド・マルス駅行の切符二枚 - 1/3

 巨大な都市を錯綜する鉄道は今日も人を乗せ、都市の隅から隅へ彼らを運ぶ。そしてまた新たな乗客を乗せる。その鉄道の要駅ともなると、つまるところそれは人体で言う心臓で、これから出発する者や到着した者でごった返していた。
 アルヴィットの玉座ともいえるその腕は頼りなく揺れ、彼はその座り心地の悪さに悪態を吐きたくなる。
「ごめんねアルヴィット」
 長くほっそりした腕の持ち主、エヴァンジェリンが小さな君主に申し訳なさそうな顔を向けた。
「わたしこんなに混んでるなんて思わなかったから」
 エヴァンジェリンは自身に向けて遠慮なく突撃してくる膨らんだジゴ袖を、輪骨の入ったドレスの裾を、鋭いシルクハットのつばを、ステッキの軌跡を避ける。
 エヴァンジェリンは右腕の中のアルヴィットを内に抱え込み、そうした不意の外敵から守る。彼は胸に顔を押し付けられる度に眉を顰めたが、エヴァンジェリンが自分を慮ってくれている事は知っているので悪い気はしない。
「みんなシャン・ド・マルス駅に行くのよ」
 改札を出ようとするエヴァンジェリンを、展覧会場に向かう列車に我先にと乗り込もうとする紳士淑女の大群が押し返してくる。これではまるでファランクスに一人で立ち向かう蟻だ。
「わたし博覧会には全然興味ないのに」
 だから通してよ、と、エヴァンジェリンは誰に聞かせるでもなく言いながらファランクス部隊をかき分ける。
 それが嘘だというのはアルヴィットにはお見通しだった。何せエヴァンジェリンは人並み以上に好奇心旺盛な妙齢の女なのだ。彼女はアルヴィットが賑やかな場所や人の多い所を好まないのを知って遠慮しているのだろう。
「みんな暇なのね」
 エヴァンジェリンはアルヴィットの頭の上で柔らかく苦笑した。
「わたしとあなたはいつだって忙しいのに」そこまで言うと、エヴァンジェリンの声のトーンが一段明るくなった。「でもこれって良い事ね」
 良くはない。貧乏暇なしと先人は言っているのだ。
 エヴァンジェリンの持ち前の楽観的な言動に触れる度に、アルヴィットの見せかけの悲嘆主義に包まれた皮肉っぽさが発揮される。自分でも辟易する難儀な癖であった。
「そのお陰でわたし達……」
 エヴァンジェリンが左手に提げた大きなトランクが誰かの身体とぶつかり、その口を大きく開けて中身を吐き出した。アルヴィットを守る事でトランクにまで気を配る事がおろそかになっていたのだろう。
「ごめんなさいわたし……」
 小さく短い悲鳴を上げた後、エヴァンジェリンはトランクで殴りつけてしまった男を見上げて謝った。
「いやお気になさらず」
 男はハットを押さえて人の良さそうな笑みを浮かべた。
「私が悪いんですよ。あなたのトランクを蹴ってしまったから」
 手伝いましょう、と男はエヴァンジェリンの隣にしゃがみ込んでトランクの中身を拾い始めた。
 アルヴィットは気安く拾わせるエヴァンジェリンに対して腹が立ったが、しかしその腕の中で何も言えない。
 人の流れはしゃがみ込む二人を上手く避けていく。一つの意志のある大きな怪物のようだ。
 エヴァンジェリンは手早く自分の下着や服の入った袋を拾ってトランクに無造作に突っ込む。男はというと、倒れてぴくりとも動かない木や毛糸でできた醜くも愛嬌のある人形達を興味深そうに一つ一つ丁寧に拾い、きちんとトランクの隙間に安置する。
 アルヴィットに言わせれば仕事道具を他人に触らせるなんて言語道断なのだが、やはり女ともなれば、己の下着を触られる羞恥心の方が勝るのだろう。
 それに男の所作は実に丁寧であったから、焦ったエヴァンジェリンに滅茶苦茶に詰め込まれるよりはましなのかもしれない。
 けれどあまり二人の事を他人に詮索されるのをアルヴィットは好まない。だから男が地面に転がった最後の仕事道具に触れそうになったとき、よっぽどエヴァンジェリンの袖を引っ張って注意してやろうかと思った。だが彼は不幸な事にそんな事は出来ないのだ。
 そして男はとうとう血のような染みの広がる布に包まれた人間の腕を拾い上げて、首を傾げた。
「あ、それは」
 ほら言わん事か!
 何も言ってはいなかったのだが、アルヴィットは心の中でエヴァンジェリンをまるで母親のように叱りつけた。
「ああ、あなたは、そうか何か興行をなさっているんですね。人形を沢山もっているせいで、最初は歳の割に少女趣味だなと思ったんですが」
 男は機械油の染みた布に金属の腕を包み直してエヴァンジェリンに渡した。
「ええ、ええ、わたし腹話術師なんですの。今夜ホテルコンコルドでショーを」
 話し過ぎるエヴァンジェリンにアルヴィットは心の中で舌打ちした。一所に落ち着かない生活とはいえ、あまり顔見知りを作りたくはないのだ。
「じゃあ是非見に行きますよ。この彼と出るのかな。あなたの右腕を玉座とする太陽王殿と」
 男は不躾にもアルヴィットを指差した。許されるならば彼はその絹の手袋に包まれた男の厭らしいほど長い人差し指を食いちぎってやりたかった。
「そう。彼はアルヴィット。わたしの雇い主」
 エヴァンジェリンは冗談っぽく言う。
「彼が。どおりで他の出演者とは違って大事そうに抱えていると思った」
「彼が居なかったらわたし路頭に迷ってしまうから、無碍にはできないんですわ」
 アルヴィットの小さな背にエヴァンジェリンの手がまわる。何気なく、しかしどこか観客にそれを気付かせようとするかのようにわざとらしく。操作ハンドルがあると思わせるかのように。
「アルヴィット、いえ陛下。いつものように機知に富んだ自己紹介を聞かせてくださいな」
 ほらこうなるんだ、とアルヴィット。だが金にならないならば、一昔前に断頭台で大量処分された奴らの猿真似のような厭味な演技はしたくないし、第一今は気分が悪くてそういう気になれない。
「ごめんなさいね。彼、今はご機嫌斜めみたい」
 俯いて沈黙を貫くアルヴィットには苦笑を、たった一人だけの観客には申し訳なさそうな微笑みをくれてやるエヴァンジェリン。それが仕事用の表情だと分かっていても、アルヴィットにはやはり面白くない。
「仕方ありませんよ、国王陛下ともなればしたくない事はする必要はないのです」
 対する男の調子の良さも同様に忌々しい。
「でも今夜の興業までにはきっと機嫌を直しますわ。だからきっといらして」
 そんなアルヴィットの苛立ちなど少しも気づかず、鈍感なエヴァンジェリンは駅の外まで男にエスコートしてもらい、礼と会釈までして駅を後にしたのだった。

 宿の部屋に到着して早々、エヴァンジェリンはアルヴィットをベッドに放り投げて小さな窓を開けた。
「思ったよりいい部屋だわ。ねえ」
 狭いベッドの方を振り返ったエヴァンジェリンの背後の窓から見えるのは、すぐ傍まで迫った隣の肉屋の煤けた壁と濁った窓だった。
 それにまだ日没には早いというのに部屋の中はどんよりと暗いし、鳥小屋のように狭いし、調度品はどれも古臭くてがたが来ていそうだ。特にアルヴィットが今横たわっているベッドは。
「それにホテルコンコルドまでは歩いて行けるんですって。よかったわ、あんな人混みもううんざりだもの。ねえアルヴィット」
 ベッドの上で四肢を投げ出している三フィート程の腹話術人形はエヴァンジェリンを無視し続けた。
「どうしたの、ここには誰も来ないわ。ホテルコンコルドみたいな格式ばった一流ホテルじゃないんだもの、御用伺いなんて。わたしはこういう宿屋の方が好きだけれど。だって肩ひじ張らずにゆっくりできるでしょう。わたしもあなたも」
 ずっとアルヴィットとトランクを持っていたせいで肩が凝ったのか、エヴァンジェリンは羽を広げるように大きく伸びをするとおもむろに背中に手を廻してドレスのホックを外し始めた。
「窓を閉めろ」
 アルヴィットは隣の窓にぼんやりと映った人影を見て慌てて言った。
「外から妙な臭いがする」
 そしてエヴァンジェリンを案じてかけた言葉だと思われたくないがために、素気なく付け加えた。
「あらやっと喋った。わたしあなたが本当に人形になってしまったのかと思ったわ」
 ドレスを脱ぐのをやめて窓を閉めたエヴァンジェリンがアルヴィットの隣に腰かけた。
「その方がよかったんだろう」
 アルヴィットは凝り固まった身体を起こしてエヴァンジェリンを上目遣いで睨みつけた。
 最近は人形のふりも板についてきたが、彼も結局は人間なのだ。長い移動の後はいつだってその事実を突き付けられてアルヴィットは厭な気分になる。
 他人に忌避されている事を感じず、謗られている事さえも考えなくて済む本物の人形だったらどれだけ楽であっただろうか。
 顔は一昔前の貴族のような軽薄な化粧がなければ二目と見られない程に崩れて醜く、声は甲高く耳障りだし、そして子供とさほど変わらない背丈しかない侏儒。
 この世の春を謳歌するために何度悪魔に魂を売ろうと思った事か。
「そんな事ない。わたしあなたがいないと一人ぼっちだもの」
「お前は一人では生きていけない出来損ないだからな」
 エヴァンジェリンの微笑みは客向けのそれではなかったが、アルヴィットはわざと冷たく返す。精神的にも肉体的にも彼女がいなければ生きられないのは彼の方であったのだが。
 舞台で腹話術を自由自在に操るのはアルヴィットの方で、エヴァンジェリンの仕事は至って簡単だ。彼を人形扱いして膝に乗せて動かすふりをしたり、馬鹿げた掛け合いをしたり、それこそ他の人形を彼が喋るのに合わせて操ったりするだけ。
 とはいえ彼女がいなければ彼は興行をする会場まで移動する事も出来ない。一人で出歩くなんて彼にとっては空を飛ぶよりも難しい事に思えた。
「ええ、わたしあなたがいないと死んでしまうわ」
 そんな生活を続けてもう三年になる。だからエヴァンジェリンの逆鱗の場所についてはよく心得ていて、アルヴィットはそれに触れない程度の厭味しか言わない。
「お前はまったく血の巡りの悪い役立たずだからな」