信頼と栄光 - 1/6

 踵で踏みしめた乾いた土はその苛烈な摩擦で砂を舞い上げた。
 観客の歓声など聞こえはしなかった。それを掻い潜って聞こえてくるのはただ自分の沸騰する血流の音と、相手の息遣いと身動ぎの度の音だけ。
 相手は投網を構え、中腰で敵が動き出すのを待っていた。無暗に剣を一振りでもしようものなら、その投網は蜘蛛の糸のように絡みつき、活きの良いカジキを腕から奪い取るだろう。そして体勢を崩した所を、腰に佩いた蛮刀で一薙ぎ。そして胴体は永久にその司令官を失う。
 今日が初めての剣闘試合である下級新人剣闘士、セジェルは自身がそうして地面に倒れ伏す瞬間を一瞬予見した。
 得物を持たない右手が所在無く疼く。先ほど弾かれた右手のグラディウスは五歩程先に次の主を待って横たわっている。取りに行けば恐らく追いつかれて仕留められてしまうだろう。
 では左手のグラディウスのみで躍りかかるか。しかしまた網で弾かれるのは目に見えている。未だ相手の投網の軌道を読むのは難しい。腰には飾りにしかならない小さな小さな短剣。こんな物を差し出しても、相手の致命傷にはなり得ない。
 どうにも潰しの効かない状況だった。
 相手は抜きんでて大柄なセジェルの二倍はあろうかという筋肉達磨。素手で殴られただけで、降伏しようにもその前に脳天から中身がはみ出てしまっているだろう。それ以前に、降伏する事さえセジェルの矜持では憚られた。
 自分よりも戦歴が長く今の所負けなしの剣闘士を相手に、果たして勝機があるのだろうか。
 セジェルの横目が遠くの観客席の中の女をちらりと掠めた。皇帝の傍近くに座った政治家の横に座っているその娘は、厭でも目に入った。
「喧嘩をするのよ、喧嘩を」
 その娘は試合直前にセジェルに言った。わざわざ男装をして控室に忍び込んで来てまで言う言葉とは思えなかった。
「あなたは上品に過ぎるわ」
 上品などと言われたのはセジェルにとっては初めての事で、そしてそれが人を貶す言葉ともなり得る事も初めて知った。
「誰もあなたを卑怯という人間はいないわ。みんな番狂わせの我武者羅な乱闘が好きなの。そう、この前の海戦のようなね」
 娘は含みのある目でセジェルを見上げた。その海戦についてはセジェルも厭と言うほど知っていた。
「だから勝てば皆があなたを豪傑と讃えるわ。いくら高潔に戦っても負ければそこで終わりなの。それは褒められたことではないわね。わたしはあなたを途方もない高額で競り落としたの。そんな人材を初めての闘技で失うのは厭。大損だもの。けれど物は考え様よ、それはわたしがあなたを大事にするという事なの。怪我をしてもいいわ、片目を失ってもいいわ、わたしはそうなってもあなたを見捨てないんだから」
 いくら甘言を吐こうとも、はっきり言ってセジェルの主人であるその娘は根っからの商売人であった。
 娘はわざとセジェルに金のかかっていない粗末な武具を身に着けさせ、下級の新人剣闘士として闘技場に送り込んだ。娘はセジェルの訓練の光景を目にして、彼が一廉の人間だと知っている筈だというのに。普通なら鳴り物入りで金のかかった純銀の防具と仰々しい武器を支給してもいい所だ。
「ヒトには人気がないといけないわ。商売人も政治家も剣闘士もよ」
 人間はね、成功物語が好きなの。赤貧で期待されていない新人剣闘士が、格上の相手を倒す所を想像してもみなさい。遠からずそれは現実になるでしょうけれど。
 娘はそこまで言って、心の中で賞金の金貨を数える所でも夢想し始めたのか、賤しい笑みを浮かべた。
 セジェルは戦いのさ中であるというのに、顔面まで覆う古い兜の下で唇を歪めて笑った。清純そうな顔をして、一端の野望でもありそうな事を言う小娘。見下してもいたが、しかし今となっては。
 遠くの観客席で、その女が妖艶に微笑んだような気がした。
 勝負は長く、しかし膠着する前に仕留めるのが最高に冴えた見世物なのだ。血に飢えた野蛮な観客も、胸算用をする主人も喜ばせるつもりはないが、やはりやるのであれば完璧な方がいい。
 セジェルは地面に横たわったグラディウスの方へ駈け出した。
「あなたにはセンスがある。戦いのための第六感が」
 娘は大柄なセジェルの身体の陰になっているのをいいことに、大胆に彼にしなだれかかった。
 そんな甘美な記憶がセジェルの脳裏を過っては一瞬で消える。
 重たい足音を立てて追いすがろうとする大男より先に、セジェルはグラディウスの元へたどり着く。しかしグラディウスを拾う暇はないだろう。その二歩横で大男は腕の長いリーチを利用して蛮刀をセジェルの首に力任せに叩き付けようとしているのだから。
「きっと相手はあなたを殺すように命令されているでしょうね。あれの雇い主はわたしが競り勝ってあなたを獲得したのが気に食わないのよ。見る目はあるんでしょうけど執念深いわ!」
 お前のせいか! と怒気を込めて詰ろうとするセジェルを宥めるように娘はセジェルの胸元で囁いた。
「けれどあなたは勝つわ。この貧弱な武器でも」
 セジェルの腰布を引っかけているベルトに短剣が差し込まれた。その刃を上向きにして。
 セジェルは身体を大男の方に柔軟に捻りながら、銀の短剣の刃を人差し指と中指で挟んでベルトから引き抜いた。そしてそのまま振りかぶって手首を鋭く曲げ、それを投げつけた。
 柄の重さを利用して素早く回転しながら、斜陽を反射して彗星のように飛んでいくその軌跡を見る事もなく、セジェルは足で地面のグラディウスを高く蹴り上げた。砂埃が彼を包む。
 同時に大男の右肩に短剣が吸い込まれ、体勢が一瞬崩れる。砂埃の外套が風に浚われるや否や、セジェルはばねの様にしなやかに跳躍し、たたらを踏んだ大男の胸を蹴り飛ばす。
 大男はそのまま大きな呻りと地響きをあげて地面に仰臥した。起き上がろうともがいた所で、セジェルはその上に馬乗りになり、右手を掲げて落ちてきたグラディウスをしかと掴み取る。
 そして死の予感をその凶悪な相貌に過らせた大男の首筋に、両手を交差させて煌めく二本の剣の切っ先を合わせた。
 戦いの中の妙な昂揚感がセジェルを包み込む。身体は燃えて、薄汚れた兜も、武骨な肩当ても、その手の得物も、すべてが己の肉体の一部であるかのような感覚であった。
「さあ行って、高潔なるエジプトの栄誉将軍」
 鉄格子が開き観客の狂った喚き声が控室に雪崩れ込んでくる中で、娘は威厳たっぷりに言った。鉄格子を指さし戦士を鼓舞するその姿は、まるで……。
 エジプトの将軍の名を騙って命乞いをした不名誉な恥ずべき捕虜として安売りされた彼に、金持ち娘の道楽と嘲笑われながらも大金を投じて相応しい値をつけたのはその娘だけだった。
 そしてその話を信じて彼を将軍と呼ぶのも、信頼する部下をすべて喪った今となっては、その娘だけなのだ。
「わたしにスペクタキュラーを見せてちょうだい!」
 グラディウスはお互いが擦れ合う鈍い金属音と火花を飛ばしながら突き刺さった。
「大事な右手を失いたくなきゃ、医者が来るまで短剣は抜かんことだな」
 セジェルは大男の上から退いた。
 大男の太い首の薄皮一枚のみを切断した二本の剣は、墓標のようではあるがその命を奪ってはいなかった。喉仏の上で交差し、ただ相手の自由と気概を打ち砕くのみ。
 客席で立ち上がった娘が人差し指を不躾にセジェルに向けた。
「わたしの剣闘士の勝ち!」
 いつの間にやら固唾を呑んで静まり返っていた客席が歓声に湧く。
 立ち上がった観客の中に紛れそうになっている娘を見れば、荒い息を吐いて棒立ちのセジェルに向かってしきりに何かのジェスチャーをしている。
 勝利の所作を取れと言っているのだろう。考えるのも面倒なので、娘のやっている通りに腕を動かす。
 拳を作った右手を曲げて左胸に付けた後、勢いよく拳を天に突き上げる。
 するとてんでバラバラだった場内の歓声が、セジェル一点に向かって矢の嵐のように降り注ぐ。
 しかし大勢の称賛よりも、人気よりも、彼が今欲しいものは。
「ネイト」
 セジェルは呟いた。

「将軍将軍」
 月桂樹の冠を頂に載せて控室に戻るや、娘が小走りで砂まみれのセジェルに抱きついた。
 セジェルは素早く辺りを見回すが、幸い辺りに他の剣闘士はいなかった。
 次は先の大海戦の勝利を祝して行われる有名剣闘士の特別試合で、皆それを観にもっと見晴らしのいい場所に行ったらしい。
 つまりセジェルの試合はそれの前座に過ぎなかった。
 控室の外からは、先ほどセジェルに送られたこれ以上ない程の讃嘆よりも大きな歓声が上がっている。これで決着がついたならば、このばらばらな歓声は一つの名もなき獣の断末魔の咆哮のようになるだろう。
「死ななくてよかった。そうならないと信じていたけれど」
「俺が死んだとしても、興行主から保証金は出るだろう」
 セジェルは面倒くさそうに娘の額を押して自身の身体からおざなりに引きはがした。
 娘は纏めた長い髪をフードに隠し、その華奢な女らしさの片鱗を見せる身体をそこそこの仕立てのチュニックに包んでいた。見る目のない者が見れば、どこかの成金の小姓に見えるだろう。そして大抵の人間には見る目がないものだ。
「お金で買えない物もこの世にいくつかはあるわ。それともわたしを金の亡者だと思っているの」
 娘は秀麗な眉を顰めて妖しく笑った。
「まあそうだな」
 セジェルは硬い表情のまま娘を見下ろした。
「あなた勝ったのにあまり嬉しそうじゃないのね。それに月桂樹の冠まで貰ったというのに。もっと笑ったら。わたしあなたの笑顔を見たいわ」
「ご命令とあらば笑って見せましょうとも、お嬢様」
 渋い顔で慇懃なセジェルに娘は厭な顔を向ける。
「これからファンが増えるというのに、そういう態度はダメね。ウーゴを見習ったらどう。彼とっても女には優しくってよ。この前わたしが闘技場で手を振ったら、兜を取って彼も振り返してくれたもの」
「残念だがそれは気のせいだ。それにお前が女なら俺だってこの五倍は優しくするだろうさ」