城主の帰還 - 1/7

 欝蒼とした森の中に一筋走る隘路に、黄金の矢が走る。
 それは見る見るうちに近づき、城下をぐるりと囲む長い石造りの城壁の、厳つい乱杭歯を開けている城門を超えた。そして、土埃を上げて秋色に煌く広大な葡萄畑の階段を一足飛びに越えてしまった。
 城で一番高い物見塔からそれを眺めていた娘は、ドレスごと引き裾をたくし上げ、脚が露になるのも構わず急いで階段を駆け下りた。そして城の前にずらりと居並ぶ、浮かない顔をした使用人達や、急いで顔を引き締めて姿勢を正した兵士達、温和な顔をした人畜無害そうな老齢の司祭の中に混ざった。
 佇んでいる娘は、うっとりと眼を細め、周りの者達に気付かれないほどに幽かで、そして優しい吐息を漏らした。
 常ならば物売りや家畜の輻輳する広場を、道に沿って整列した民達を轢き殺さんばかりにそれが駆け抜け娘の前に迫ってきた。
 黄金の豪奢な四頭立ての馬車が滑らかに娘の前に停まるやいなや、蝉のように後部にとりついていた側仕えがぱっと飛び降り、娘に恭しく一礼した。そして足乗せ台を置き、流れるような動作で慎重に扉を開けた。
 そこから窮屈そうにのそりと出てきたのは、身の丈七フィートに届こうかという大男であった。四頭立ての大きな馬車も、男にとっては窮屈でしかなく、馬車から降りてくる様子はまるで冬眠から目覚めたばかりの熊だった。黒々とした鬚に縁取られた精悍な顔は不機嫌そうで、彼のしばしの留守の間に羽根を伸ばしていた使用人を震え上がらせるのには十分だった。
 男はがっしりとした足で地面を踏みしめ、娘の前に進み出た。
「お帰りなさいませ」
 娘もまた、使用人のように恭しく頭を垂れると、男の長い仕事を労った。顔を上げた娘の笑顔は日陰に咲く花のように、遠慮深く静謐なものであったが、それに対して男は少しも心を動かされた様子もなく、眉を片方だけ上げると、声もかけずにさっさと城の中へと入って行った。
「今日もご機嫌が悪いようだけど、あまりお気になさらんことだよ。後でショコラをお出ししましょうねえ、特別に甘いのを。旦那さまには秘密ですよ」
 ぼんやりとその広い背を見送るその横顔に落胆を見出したようで、気さくな台所番が娘を優しく慰めた。恰幅がよく、その心根の善良さを全身で表しているかのような老女であった。
「少し感情の表現が不自由なだけで、奥さまの事を嫌ってらっしゃるわけじゃありませんよ。道中ずっと、虚ろな瞳で溜息ばかり。なあ」
 繻子張りの足乗せ台を手にした側仕えが御者に目を向けた。
「随分急かされました。まるで狩人に追われる狐のように、馬車を走らせたものです。これもきっと、奥さまに早くお会いしたいからです」
 土埃で薄汚れたお仕着せを払いながら御者が言った。少し顔がやつれて、眠たそうにしていた。
「それに、最近は礼拝にも足繁くいらっしゃる。日曜に奥方様と共に訪れる以外にも。とても良い事かと。何を悔悟し祈っているかについては別として」
 舶来の貝の染料で鮮やかに染めた聖服を着た司祭が、目の周りに一層皺を寄せて微笑んだ。
「前のように癇癪も起こされなくなりましたし、使用人は皆奥さまに感謝しているんですよ。昔はそれはお優しかったと聞きますし、きっとそうした素質は消えはしないのでしょう」
 祖母の代から三代に渡って家事使用人の職に就いている、若い部屋付き女中の言葉に、他の使用人達も神妙に頷いた。
「どうもありがとう。わかっていますわ。わたくしあの方を深く愛していますもの。公爵さまもそうだといいけれど」
 娘はどこか悲しげに見える顔に笑みを湛え、居並ぶ使用人達に礼を言うと、夫の影を追って冷たい石の城へと戻って行った。
 残された使用人達の心に残る感情は誰も皆同じであった。
 なんといたわしい奥方様。若く美しく無垢であるのに、随分歳の離れた偏屈な男に嫁いで。きっと、実家が没落しかかっている事に付け込まれ、ガレー船を漕ぐ奴隷の保釈金の方がもっと高いだろうというような破格の値段で買われたのだろう。
 なんとお可哀そうな奥方様。今までの薄汚れた歴代の妻達とは違って、こんな下賤な我々にも優しく接してくれる。ずっとここに居てもらいたいけれど、城壁から外に出る事も許されず、塔から外を見下ろすだけなのはあまりにも窮屈すぎる。
 そして、なんといたましい奥方様。こんな呪われた青髭公の城にやってくるなんて。
 
 
 男は気だるげに馬車の窓に頭をもたせかけていた。
 狂おしいほどに切望していた帰還ももうすぐ。主の帰還を待って大口を開けている真新しい石の城壁はすぐそこに。男の代になってから、広い葡萄畑を囲い込むように広げた城壁が迫る。
「むう、くふぅ……」
 馬車の不躾な揺れに耐えきれず、男は重々しい息を漏らした。目は潤み、顔も紅潮していた。喉が渇いているのにも関わらず、無意識のうちに舌は唇を舐め、淫靡に光らせた。性器は痛いまでに勃ちあがり、すぐにでも埒をあけそうであった。
 揺れに伴って男の腰に下げられた六つの鍵が子供の笑い声のような音を立てる。
「一カ月、わたくしを思い出せるようにこれをお持ちになって。わたくしも、あなたがいつ、どの箱を開けるのかに思いを馳せながら、あなたを想います」
 妻がそう言って、五つの箱と共に男に渡した鍵であった。
 男は妻を深く愛していた。当初こそ、どうして結婚したのかすっかり忘れてしまうくらい、どうでもいい妻であったが、今となってはかけがえのない存在にまでなってしまっていた。
 どんなに無関心でいようとも、その崇高な美しさは男の目と心を奪い、どんなに冷たくしようとも、その独特の宇宙は男の心臓と愛情を焼けつかせた。
 随分絆されたものだ、と、男は妻との情事が終わる度に自嘲した。長の独り寝に慣れた堅い身体が、その小さな冷たい温もりがなければ安堵できなくなっていた。
 男は極限まで膨れ上がった劣情を治めようと鍵束に触れた。情欲によって焼けた鉄のように熱くなった手が、冷たいそれらによって癒される。これを何度繰り返しただろうか。
 しかし、その鍵が男にもたらした物の事もいやましに思い起こされて、焼け石に水といった有様であった。
 五つの箱にはそれぞれ、妻に縁の品が入れられていた。香水、宝石飾りのついた櫛、妻の頭文字が刺繍されたハンカチ、ドレスの金房、そして……。
 馬車が滑らかに城の前に停まった。
 身体の内側を突き上げるような、五つ目の贈り物の感覚に男は呻いた。
 男は奥歯を噛みしめ、高まる性感にぼんやりとした顔を精一杯引き締め、威厳を保った。幼くして爵位と広い領地を継いだ時から、そうしないと他人から見下されると思い込んでいた。最近になって、そうではない人間もいると知ったが。
 馬車の扉が開けられると男は強い日差しに顔を顰めたが、しかし城の前に整然と居並ぶ使用人の中心に自身の妻がいる事を知るや、目を見開いた。
 心臓が昂る。激しい鼓動は胸郭を破裂させんばかりに押し上げて男を苛んだ。ただ一目その姿を見ただけで支配されてしまうのだ。こんな体たらくになるなど、神以外の誰が知り得ただろうか。そうだ、この巡り合わせは神が仕組んだものだったのだ、それならば仕方のない事だ。こうなると、男はいつもそうやって諦観する。
 男はのろのろと馬車から地面に降り立った。立ちあがるのさえ、足を一歩踏み出すのさえ、劣情に支配された男には難儀な事であったのだ。
 上背があるために、常日頃から足置き台は用意しなくていいと言っているにも関わらず、それを恭しく置く側仕えには、常ならば嫌味ったらしく一瞥くれてやるのだが、今回ばかりはそれを諦めた。
 それよりも、早く部屋に戻って、妻を寝台に引き入れて情事に耽りたいという暗い欲望ばかりが男を支配していた。
 男は石造りの階段を上り、妻の前に歩み出た。
 使用人達が深々と頭を垂れる所など、男の目には少しも入ってはいなかった。
「お帰りなさいませ」
 まるで物見塔を吹き抜ける風のような透き通った声に、男はひっそりと震えた。おそらく誰にも気付かれてはいない。その妻以外には。
 妻が顔を上げると、馥郁たる花の香りに胸が一杯になった。男がいくつか贈った香水の中で、妻が一番気に入っている物だ。これが、一つ目の箱に入っていたもの。
 花のかんばせを縁取る豊かな髪は、一分の隙もなくきっちりと纏められている。しかし一度梳かれるとその豊かな髪は、領地一杯に広がる秋の葡萄畑のような黄金色に煌き流れるのであった。男はその髪に指を絡めるのが好きだった。いつもその髪の手入れに使われているのが、二つ目の箱に入っていた、宝石飾りのついた櫛だ。
 三つ目の箱に入っていたハンカチは、今まさに男の妻が手にしているハンカチと同じデザインで、妻が持っている方には男の名前の頭文字が刺繍されている。刺繍は妻の趣味で、男も暇潰しと手慰みにと、時折渋々付き合ってやる事があった。そのハンカチはお互いに自分の頭文字を刺繍し、交換したものだった。
 妻が着ている深紅のドレスはブロード織の高級品で、貧乏臭い服を好む妻に無理矢理贈ったものだった。そんな貧相な服を着ていては公爵家の名折れだと詰って泣かせたのは、初めて妻が城に来た日であったような。そんな覚束ない記憶をぼんやりと思い出して見ていると、金糸の腰帯の先から垂れる金房が取り外されている事に気づいた。後で返してやらなければならないだろう、と男は思った。それが四つ目の箱の中身。