寂しい時の彼 - 1/10

 どうしてこうなった。
 ドゥーベ氏はチッペンデール様式の紫檀の執務机の端の装飾を掴み、上体を屈めながらふと思った。髪の生え際からは汗が間断なく生まれ出てきて、額を濡らす。机ごと大きな身体を揺さぶられて、机の上の燭台と本がタランテラを踊る。こうなる寸前に纏めた書類がばさばさと音を立てて床に落ちて行く。インク壺が倒れ、机に置いてあった羽ペンに黒い腑をつける。
「はっ、ふはっ、んむぅ、っく、くは、あ゛……」
 光沢のある表面に、激しい緊張と官能で粘度の高くなった唾液がとろりと滴る。
 背後の窓の外からは馬車や騎馬訓練の輻輳が、廊下からは忙しく駆け回る部下達の靴音とざわめきが漏れ聞こえてくる。
 ドゥーベ氏の眉が顰められる。どうしてこうなった。どうして。
 
「まあ、今なんて」
「明日から忙しくなる。一週間ほど家を空ける事になるだろう」
 ドゥーベ氏は奥方に同じ調子で同じ言葉をもう一度伝えた。
「あら、まあ……」
 夜着への着替えを終え、先に寝台に潜り込んでいたイザドラを見れば、半身を起こし、小さな唇に手を当てて俯いていた。
「不安かね。たまに一人でゆっくりするのもいいだろう」
 かつては仕事場に泊まる事も珍しくはなく、屋敷に帰ってくる事の方が稀だった。今より忙しかったというのもあるし、別段忙しくなくとも、屋敷に一々戻るのは面倒だった。屋敷と署の往復時間が無駄に思えたし、何より署に詰めても、別段不便を感じなかったせいもある。必要な物は、大抵警察署にも揃っていたし、一人で屋敷にいるよりも、いつでも忙しなく煩い署の方が落ち着いた。
 しかし、イザドラと一緒になってからは、忙しくてもなるべく屋敷に帰るようにしていた。まだ新婚で、一人きりにするのは心配だったし、何よりドゥーベ氏自身がイザドラと共にいたかったのだ。
 出来る事ならば泊まりで仕事などしたくはなかったが、今回ばかりはどうしても、仕方のない事なのだ。
「どうしても、帰ってはこられませんのね」
 寝台の端に腰かけたドゥーベ氏の夜着の袖を、イザドラがきゅ、と握る。淋しいのだろうか。そんなイザドラが愛おしくなる。
「年末は何かと忙しいのだよ。だが新年までには帰って来られる」
 ドゥーベ氏はイザドラの頭を撫でる。豊かな髪は雲母のように艶やかで、指の隙間を水のように流れていく。一晩中こうしていようか、と思い始めたころ、イザドラが突然顔を上げる。
「ではわたくしが、毎日署に参りますわ」
 見上げる瞳が綺羅、星のごとく輝いている。
「だっ、駄目だ!」
 ドゥーベ氏は思わず声を荒げた。イザドラの思いつきは大抵碌でもない。
「どうしてです」
「家に帰りたくても帰れない、妻や恋人に会いたくても会えない輩ばかりなのだぞ、君のような……」
「わたくしのような?」
 イザドラが首を傾げる。
「うつく……こ、子供が仕事場に来てはいけない、皆忙しいのだ。わかるかね」
 危なかった。また、嫉妬をしていると思われて、嫉妬解消の大義名分のもと凌辱されては敵わない。明日は早朝に発とうと考えていたのに。
「まあ、わたくしの事を子供だっておっしゃるの。わたくしはブリュノさんの事が心配で言っていますのに」
 イザドラは唇を尖らせた。
「お食事ちゃんとされているのかしらとか、頭が痛くなったらどうするのかしらとか……」
 なんと嬉しい事を言ってくれるのだろうか!
 ドゥーベ氏の胸がじわりと熱くなる。
「嗚呼、イザドラ……」
 淋しいせいかと思っていたが、妻は自分を心配して言ってくれていたのだ、とドゥーベ氏は心の中で噎び泣いた。わかった、昼間なら来てもいい、と彼がほだされて言いかけた時だった。
「それに、わたくしの性欲処理はどうするおつもりですの」
 イザドラがドゥーベ氏を寝台に押し倒した。広く張り出した肩を小さな手で押さえつけられる。
 とうとう始まった。
 明日からに備えて、今晩くらいはゆっくりしたいと思っていたドゥーベ氏は戦慄する。
 どうしてこうなった。
 敗因の一つには、イザドラの前ではいつでも無防備になってしまうこと、そしてもう一つは、恐らく、先程言い直した言葉が結局は大きな間違いだったのだ。
「せ、せいよ、く……」
 間違っても妙齢の貴婦人が“性欲処理”などと言ってはいけないだろう!
 と、ドゥーベ氏が心の中で叫ぶ。ほとんど絶叫だった。
「ええ、あなたよくおっしゃるわ、わたくしは若いから無尽蔵だって。だからわたくし、毎日しないとおかしくなってしまいますのよ、たぶん」
 上から覗き込んでくるイザドラの顔は、薄暗い部屋では影になって見えないが、大方淫靡な行為に耽る予感に微笑んでいるのだろう。
「じ、自分でなんとかしろっ、それくらい!」
「自分で」
 影がちょこんと小首を傾げる。
「そう自分でだ!」
「……自分で自分と交われますの?」
 ドゥーベ氏の身体がふっと軽くなった。イザドラがドゥーベ氏の上から退いたのだ。
「ん……出来ない事もない、かも、しれません。みなさんそうしてらっしゃるの?」
 夜着越しに下腹部に触れながらイザドラは呟く。
「そんなわけないだろう……」
 普通は二つもついてないのだから、という言葉をドゥーベ氏は飲み込み、眉を顰めた。一方のイザドラは、きょとんとして頭を左右に振る。
「それで、自分でするってどうしますの。わたくしした事ありませんの」
「で、では今まで誰としていたんだ!」
 ドゥーベ氏は額に青筋を立て、がばっと起き上がった。
 ひょんな事で昂りやすい若者が、自分でしたことがないと言ったらもう……どうりで超絶技巧なわけだ! なんと不埒な娘だろう!
「酷いわ、わたくしをこんなにしたのはあなたでしょう。わたくしあなたと出会って初めて、肉欲と法悦を知ったのです。ブリュノさん、あなたを愛しているから。だから、これからだってあなた以外とはしませんし、多分できませんわ。ブリュノさん以外の人には何も感じないのですもの……」
 イザドラは初々しく頬を染めた。
 ドゥーベ氏は逆にイザドラを押し倒したくなったが、ふと、ここは教育の好機だと考え、思いなおす。これが成功すれば、きっとイザドラが自分を襲う頻度は減るだろうし、今回のように留守をしても、欲望を持て余して悶々とすることもないだろう。
「では、教えてやろう、自分で解消する方法を」
 イザドラがドゥーベ氏の向かいで居住まいを正した。
 教師は厳粛な様子でゆっくりと口を開く。まるで神父がもったいぶった長ったらしい説教を始める時のように。
「性的欲求を感じたら、自分自身で性器の善い所を弄するのだ」
「はい」
 神妙に頷く生徒。次の言葉を待っているのだ。
「まあ、簡潔に言うとそれだけだ」
 イザドラの瞳が懐疑的に揺れる。
「なんだか善くなさそうだわ」
 教師の言う事に従順なだけではないのが生徒というものだ。それも、いい生徒ならなおさら。
「そんなわけないだろう。君がいつも私の中に突っ込んで気持ちのいい場所とやらがあるだろう」
 ここで自慰をさせて、イザドラの今宵の肉欲を満足させてやろうというのだ。
 何という名案! どうだ小娘、伊達に三十年警察やってないのだよ私は!
 ドゥーベ氏は待望の勝利の到来にほくそ笑んだ。
「わかりました」
 イザドラは半信半疑に不承不承といった様子で、脚を崩し、自身の長い夜着の裾をたくし上げた。半ば出来上がったイザドラの大きな男根が現れる。
「ん」
 外気に撫でられた感触に感じる物があったのか、イザドラは眉を寄せて唇を噛む。
 そして、ほっそりとした白い指をおずおずとそれに絡める。イザドラの身体は清廉で処女的なそれなのに、男性器だけが使いこまれたものの様に、逞しく超人的だ。まるでどこぞの屈強な男に後ろから抱きすくめられ、無理矢理男根をしごかされているようにも見える。
「包んだまま、上下に動かしてみたまえ」
 イザドラはドゥーベ氏に言われるがまま、指で竿を擦る。
 透明な先走りが漏れて手と擦れ、くちゅくちゅと音を立てる。
「んー、ん……」
 腰が浮き、表情がとろりと蕩ける。薄桃の唇が薄く開き、甘い吐息が漏れ始める。
「先を撫でるんだ。そうだ、掌で」
 イザドラの掌が、赤黒い先端をやわやわと撫でた。
「……あ!」
 ぎくりとイザドラの細い腰が痙攣する。男根には血管が隆起し、びくびくと震えている。
「イザドラ……」
 イザドラの痴態に、ドゥーベ氏も感じ始めていた。イザドラが、自慰にはしたない声を上げ、顔を紅潮させて腰をくねらせている。いつもなら、ドゥーベ氏を責めたて、支配しているイザドラが。ドゥーベ氏のまとうガウンの中で、肉柱が持ち上がる。
「あ、ぁあ、やん……」
 イザドラのか細い声に呼応するようにドゥーベ氏の息が荒くなる。この調子では、イザドラの終わりも近いように思われた。しかとイザドラの達する恥ずかしい姿を見てやろうと、ドゥーベ氏はごくりと生唾を飲む。
「ん、あ、へん……これ、へんだわ……」
 イザドラの手の動きがいよいよ速くなり、そして……。