寂しい時の彼 - 5/10

 人気もなく寒い廊下に、イザドラの小さな声が溶けていく。
「ブリュノさん、痛いわ。いつもそうなのだけれど、あなたに引っ張られると腕が抜けてしまいそう。腕は二本あるけれど、一本なくなっても困らないようにじゃないわ」
 ドゥーベ氏は返事などしてやらずに階上の警視総監室を目指す。
「ブリュノさんもお食事召しあがったらよろしかったのに。ちゃんと食べていらっしゃる? 心配だわ。頭痛はどうですの。お薬切らしていらっしゃらない?」
 どうしてそう無邪気なんだ!
 ドゥーベ氏は心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。
 総監室を目指して階段を昇るが、本当なら下に下に、暗い方に、冥界に、プロセルピーナのように監禁して誰にも会わせたくないのだ。
「きゃ」
 ドゥーベ氏の歩みについていけないイザドラが階段に躓いた。ドゥーベ氏は素早く身を翻し、イザドラの腰を支えると、そのまま軽々と抱き上げて、何事もなかったかのように、自分の歩調を乱さずに階段を昇り続けた。ドゥーベ氏は踊りを嫌っていたが、まるでそれは踊るような軽やかな所作であった。
 嗅覚を絡め取る彼女の甘美な香りが、今日はやけに濃く感じる。このまま踊り場で押し倒して、それこそ皆が思っているように、妻を支配してしまいたい。
「ふふ」
 ドゥーベ氏の首にしがみつき、顔を精悍な首筋に埋めたイザドラが笑う。そよ風の様な吐息がクラヴァット越しに当たって、感じてしまう。
「何がおかしい」
 吐息が上がるのを悟られないように、低い声にそれを押し隠す。
「やっとお言葉を返して下さいましたのね」
「む……」
 なんて小癪な小娘だろう。ドゥーベ氏は眉を顰める。
「ブリュノさん、石鹸の匂いがします。お風呂に入られたの」
「ああ」
「今朝?」
「う、うむそうだ」
 本当は、イザドラが会いに来たとベルビュが伝えに来た後に、急いで入ったのだった。このところ忙しさにかまけて、清潔さとは無縁の生活をしていた。愛する奥方に会うのなら、せめて身嗜みくらいは整えなければならないと思ったのだ。
「怪我していらっしゃるわ、髭を剃られたときのかしら。新しい傷のよう、血が滲んで」
 ちろ、とイザドラが顎の下の小さな傷を舐めた。
「あっ、う、やめないか」
 予期せぬ感覚に、ドゥーベ氏は腕の中のイザドラを取り落としそうになる。
「うふ、わたくしはね、ここに来る前にお風呂に入りましたの」
「んなっ、なぜ、だ」
 理由は大体予想はついたが、ドゥーベ氏は違っていて欲しいと願いながら訊き返す。
「あら、おわかりになりませんの。それじゃあお楽しみに」
 愛らしい笑みなのに、ドゥーベ氏にだけはそれが凄絶で不敵な笑いに見える。
「ね、ところでどうして、熊のようにうろうろなさっていたの。本当に、曲芸の練習を?」
 熊だって。まったくあの三下は、そういう所にだけは妙に頭が回る。
 ドゥーベ氏は心の中でフォルトナートをこき下ろした。
「君に一度会いに行くかどうするか、考えていたのだ」
 イザドラの香りと自身の卑屈な嗜好で自慰に耽った後、気を取り直して書類に向かったはいいものの、しばらく経つと一度覚えた愛しさは彼を酷く責め苛んだのだった。イザドラといたしたいなどという不埒な欲望ではなく、ただ、彼女を抱擁したかった。驚異の部屋で、立ち並ぶ陪審員のような稀稿書と、淫蕩で残忍で奇妙な絵画の判事、ねじくれた水底の弁護士、物言わぬ石の証人に見下ろされながら。
「まあ、うれしい」
 微笑の柔らかい吐息が首筋に当たる。
「頼む少し黙っていてくれ」
 イザドラが喋るたびに感じるドゥーベ氏が早口で嘆願すると、イザドラはつまらなさそうに彼の腕の中で小さくなった。
「どうしてです」
 囁きの甘い吐息。
「っく、いいから!」
 ドゥーベ氏はやっと辿り着いた警視総監室の扉を乱暴に蹴り開ける。そしてイザドラを執務机の肘掛椅子に座らせ、背もたれに手をついて逃げられないように覆いかぶさった。彼はそれに既視感を覚えるが、回想に耽るような理性もない。
「君はどうして、のこのことこんな場所まで」
 イザドラは俯いて唇に指をちょこんと当て、声を発しようとはしない。
「拗ねるのはやめたまえ」
 言葉が分からないという風に首を傾げるだけで、イザドラは何も言わない。
「イザドラ」
 ドゥーベ氏はイザドラの琥珀の柔らかな髪を弄う。イザドラの背後の窓から射す冬の午後の光は、彼女をこの世のものではないかのように儚げに見せて、ドゥーベ氏を恐れさせる。このまま言葉を交わす事が出来なければ、彼女の世界と自分の世界が断絶して、イザドラが見えなくなってしまいそうに思われたのだ。
「すまなかった……」
 何か言いたげにイザドラの唇が薄く開くが、すぐに閉じる。
「頼む何か言ってくれ、でないと私は……」
 狂ってしまう。
「わたくしは」
 水晶のように澄んだ声が部屋を震わせる。
「わたくしはあなたに会いたかったから来たのです、ブリュノさん」
 イザドラは、切なげに顔を歪めるドゥーベ氏を見上げながら、安心させるように微笑む。
「わたくしさみしいの。あなたがいなければ」
「あれだけ来てはならぬと言って聞かせたというのに……」
「ごめんなさい」
「あいつらは、君がそのローブの下に鋼の貞操帯を着けていると思って興奮しているのだ! そして、この後私に飲まず食わずで一週間凌辱される所を想像するのだ!」
 ドゥーベ氏はさっきまでのしおらしさの反動で、イザドラに噛みつかんばかりに迫る。そのまま乱暴に唇を奪ってしまいたかったが、そうするとなし崩し的に、話をする間もなく性交に傾れ込んでしまいそうであったために耐えた。
「そんな事考えるはずありませんわ、年の瀬に一生懸命お仕事していらっしゃる、勤勉な方たちです」
 イザドラは狼狽も戦慄もすることもなく、呪われた獣を宥める処女のようにドゥーベ氏の髪を撫でる。そして、それがまだ湿っている事を知り、笑みを漏らした。その微笑が自分の部下を弁護するために浮かべられたものだと受け取った警視総監は、追撃の手を緩めず畳みかける。
「いいや、そんな事はある。見たか、あの三下の、君の前での舞い上がり方! 私の前では黒死病にでも冒されたかのように真っ青で震えているのに、君の前ではまるで自白剤でも飲んだかのようだ。私は奴を呪うぞ。今度凄惨な死体が出たら真っ先に奴独りで行かせてやる。二度とトマトソースのパスタだのザクロだのを食べられなくしてやるというのだ。あとはレアの肉とワイン。食卓につく度にえずく呪いだ。いい考えだと思わないかね」
 ドゥーベ氏は陰険で凶悪で残忍な顔で暗く笑った。
「あまりあの方に辛く当たらないで。それにあなた本当はそんな事なさらないでしょう」
 イザドラが宥めるように彼の背に腕を回し、撫でさする。
「逆効果だと思わないかね、君のその優しさは。私の嫉妬を掻きたてて、奴をもっと虐めさせる事くらい想像に難くはないと思うが」
「わたくし悪気はないけれど、悪意はありますの」
 人が虐げられる所を見るのが好きなんですの。すべて言い終わる前に、それはドゥーベ氏の軽い接吻に飲み込まれた。
 「君にその台詞は似合わんよ。もっと妖艶な毒婦が言わなければ。モルガナのような」
 ただ、ドゥーベ氏にとっては、イザドラは十二分に妖艶な毒婦だった。意味の通らない言葉を言って彼を惑わせる。彼の目の前で他の男に微笑んで嫉妬に狂わせる。見た目こそ、本の挿絵にある伝説の王を誘惑する魔女のように扇情的な容貌ではないが、清楚なそれは寧ろもっと危険だ。イザドラは猛毒だった。遠位から身体を石に変えてしまう毒人参。
「じゃ、わたくし“ようえんなどくふ”になるように頑張りますわ。応援してくださいませね」
「やめろ、そんな事を努力されたら、私は今以上に嫉妬で醜くなってしまう。それこそ、緑色の目をした怪物に」
 稀稿書に注ぐ偏執的な情熱を、そんな事に一斉に捧げられたなら。彼女はきっと各国要人を籠絡するスパイにだってなれるだろう。と、ドゥーベ氏は顔を真っ青にした。
 彼女の飴と鞭で、化石だってレチタティーヴォのように喋り出す。曰く、今は雲を突く高い山となったここも、かつては暗い海の底で、自分は大絶滅で死んだ貝の仲間です……。
「では嫉妬を雪いでさしあげますわ」
 凄絶な笑みにドゥーベ氏は現実に引き戻され粟立つ。
「なに」
「わかっていらっしゃるのでしょ、さっきからわたくしを誘っていらっしゃるわ。悪魔のようにわたくしを攫ったり、騎士のように抱きとめたり、皇帝のように大上段だったり。でも今は、皮を剥がれて紙にされる寸前の羊ね」
 イザドラが右手でドゥーベ氏のクラヴァットを掴み、左手で胸を押して立ち上がる。
「誘ってなど……」
「どうしてここまで煽っておいて日和るのです。はやくおしり出して。馬鹿な考えが浮かばないくらい激しく犯してあげます」
 稀稿書を手繰るためだけにあるような繊細な指先が、ドゥーベ氏の堂々と張り出した胸と腹を撫でおろし、がっちりとした腰を掴む。
「イザドラ……」
「あのね、先日も言いましたけれど、わたくしが他人に微笑むのも、優しくするのもあなたの為ですのよ。あなたが望んでいるように、すげなくあしらったら、あなたの評判が悪くなるのではなくって。お高くとまった、雌犬が妻になったって。そんな妻を御せない男が空威張り、まるで蛇と狐の夫婦だと」
「べ、別にそれでいい。君が悪しざまに言われたら私がそいつを抹殺しよう。寧ろ私は、自分がどう侮辱されようとそんな事は……」
 もう慣れている。だから自分以外に微笑むな、触れさせるな。本当に閉じ込めるぞ、この世の冥界、驚異の部屋に。
「まだぐちぐちぐちぐちぐちぐちおっしゃるの。わたくしが言いたいのは、わたくしが他人に愛想良くしなければならないのは、ブリュノさん、あなたのせいだという事です!」
 珍しくイザドラが声を荒げ、ドゥーベ氏に詰め寄る。ドゥーベ氏は後退るが、執務机に阻まれる。
「空が青く見えるのもカラスが黒くなったのもわたくしが淫らになったのも、全部あなたのせいなのです! だから早くわたくしとお淫らしてすっきりさせて!」
 むに、と乱暴に胸を揉まれる。腰が砕け、もうはやイザドラに流されそうになる。
「っふぅ、っり、理不尽な! 君は……君はカルト教団のテロリストやトチ狂ったアナーキストよりも性質が悪い!」
 ドゥーベ氏は本に貼られた蔵書票のように離れないイザドラを、べりっと引きはがす。
「あなたがすきだから仕方ありません! わたくしあなたじゃないとだめなの、こんなのは貞操帯をはめられているのと一緒です……」
 一変、イザドラはドゥーベ氏の腹に頭を埋めて、弱々しく泣き始めた。震える華奢な身体。どうしてこうなった。どうして。
「あ、ああ、わかった、悪かった、ああ、私が悪かった」
 ドゥーベ氏は狼狽に宙を彷徨わせていた手をイザドラの頭に乗せた。
「しよう。ああそうだ、君の言うお淫らとやらを……」
 こんなに自分を愛してくれる女性を、どうして泣かせておけようか。自分の身体目当てとも言えなくもないが、もうそれでもいい。
「ぐす、ふえ、ぇぇ……ほんとう?」
 イザドラが顔を上げた。瞳と頬は涙に濡れ輝いて、いやましに美しい。
「ま、まあ仕事中だから手短に、あまり激しくなく……」
「うふふ、やった」
 はめられた!
 さっきまでの泣き顔はどこへやら、手を叩いて喜ぶイザドラを見下ろしながらドゥーベ氏は頭を抱えた。