戦友と報酬 - 3/6

「ええ、まったくその通り。ところで私の扱いはどういう風になるんです。まさか本当に私にギリシャ風の服を作らせるわけではありませんでしょう、ヴィクトリウスのお嬢さん」
「お嬢さんだって。お前、こいつを今、お嬢さんと言ったのか」
 セジェルは唇の端を歪めた。まあ仕方ない。不幸なルシャリオはまだ知らないのだ、この娘が性根の腐りおちた守銭奴だと。
「そうよ、お嬢さんだなんて。ヴィットリアでいいの。わたし猫好きで礼儀正しい人って無条件で好きだから、何と呼ばれたって構わないわ。あなたは服なんて作る必要ない、裁縫師なんて掃いて捨てる程いるもの。折角の人材を腐らせやしないわ」
「それを聞いて安心しました。前の所では食事の支度から洗濯掃除までさせられていたんですから!」
「うちは貧乏訓練所と違って奴隷がたくさんいるもの、そんな心配ご無用よ。あなたにはあなたにしかできない事をしてもらう。あなたには将軍と一緒にがっぽり稼いで欲しいの。悪くない話だと思うけど」
「つまり剣闘奴隷に?」
「つまり剣闘奴隷に」
 娘はルシャリオの言葉を肯定の意味で繰り返した。
「なんであれ、また将軍とご一緒できるのなら、これほど喜ばしい事はありませんよ」
「今日は色々と積もる話もあるんじゃないの? 二人で夜の街にでも繰り出したらいいわ。うなぎでも食べてきなよ。もちろん、将軍、あなたが奢ってあげるのよ、上官でしょ」
「今更上官も糞もないぞ」と、吐き捨てるセジェル。
「年長者でしょ。彼は無一文みたいだよ」
「お恥ずかしい話ですが、その通り。なにせ乗っていた船が沈没していますからね。それで流れ流れて奴隷に」
「余計な事は言うな」
 セジェルはルシャリオに顎で共に来るよう促し、娘を残して闘技場を後にした。

「他の奴らは。皆無事なのか」
 他人に聞かれたくない話題ではあったが、セジェルは極めて普通の声色で問うた。
「何人かは私と同様に奴隷になりました。別の市に連れて行かれたため、消息はわかりません」
 ルシャリオは行き交う通行人を避けながらそう答えた。
 密談をするなら人混みの中と相場が決まっている。声は雑踏の喧騒に紛れて誰にも聞こえはしない。騒がしい酒場でするのも悪くはないが、人通りの激しい往来を歩きながらの方がもっとよい。周囲の人物は常に一掃され、他者の話を気にする者はない。そうして人に紛れれば尾行されにくいし、尾行がついていればすぐにわかる。撒くことも容易だ。
「では陛下は」
「それは」わからない、と言葉を濁すルシャリオ。「しかし沙汰がないのであれば、おそらく女王と共に無事逃げおおせたかと」
「ならば、負けた甲斐もあるな」
「試合に負けて勝負に勝ったという事ですか。まあ、そういう作戦でしたからね」
「あたら拾った命だ。俺はこのまま打開の糸口が見つかるまであの女の奴隷でいる。お前はどうする。このまま行くか?」
「えっ、でもまだ負債を返せていませんよ、ヴィクトリウスのお嬢さんに」
 冗談といった様子はなく、心からそう思っているようだ。
「律儀な奴」
 セジェルは負債を返して自由になろうなどとはこれっぽちも思ってはいなかった。今だってそれなりに自由だ。国で職務についていた時や、あらぬ疑いをかけられて常に監視されていた時と比べれば。
「それに行くとしてもどこにという話です。それよりは」ルシャリオは露天に陳列されているナイフの刃を撫でながら笑った。「将軍と我らが隊に汚名を被せて死に戦をさせた下手人を始末しましょう。我らを捕虜にさえさせなかった輩を。あの裏切者のローマ人を! そうしないと枕を高くして寝られません」再会して初めて見せたすこぶるいい笑顔だった。
「いい意気だ」
「何故、将軍がなんとしても負けられないのかわかりました」
「なんの話だ」
 無愛想に行く先のみを見つめていたセジェルはようやっとルシャリオに目を向けた。
「剣闘試合すら手を抜かないではありませんか。生きるためではなく、勝つために戦っているのだと、今回の戦いで思いました」
「お前にはそう見えたのか」
「あのお嬢さんのためなら、勝ちたいと思う気持ちもわかります。私をあの男から買い取った時の、つまり彼女が勝利した時のあの表情といったら」
「それ以上は言うな。俺は女に絆されたりはしない」
 そこまで言ってセジェルは、試合中に娘の事に気を奪われた事を思い出した。ほんの一瞬の事だったが癪である。
「大体あれは女ではない」大の男を逸物でもって犯す奴が女と言えるだろうか。
「つまり、女だと思ってはいないから、絆されるかもしれないという事ですか。そういう事もままありますね」
「何を言うか」
 声を荒らげようとしたセジェルに、ルシャリオは鷹揚に言い放った。
「ところで、うなぎはご馳走にはなれないんですか、将軍」

 市街にあるというのに、娘の住む屋敷は閑静な落ち着いた雰囲気が漂っていた。夜だからというだけでなく、金に飽かせた広い土地がそうさせるのだろう。
 ルシャリオは先にあてがわれた寝所に戻り身体を休めている事だろう。一方セジェルはこの目まぐるしい一日の興奮を覚ますために、夜の中庭をぶらついていた。
 うなぎは不味かったが、久方ぶりの気のおけない相手との再会は悪いものではなかった。寧ろ、漲っていた無駄な怒りが解れた事は僥倖であった。
 池の畔に建つ四阿の向こうに母家の煌々と輝る灯りが見える。おそらく娘の父親が酒宴を開きながら同じ派閥の者達と密談をぶっているのだろう。一方で娘の住む豪奢な離宮は眠ったように暗い。娘は自然の明りを好むのだ。夜の明りは当然、炎ではなく太陽の反射光。
 娘の棲家を見ていてふと、セジェルは思う。礼くらいは言わなければならないだろう。部下をこの手に返してくれたのだ。
 女中や警備と鉢合わせない道くらいはよく心得ている。何度娘の部屋から夜半に抜け出した事だろうか。夜の闇に紛れて娘の部屋の前に到着したセジェルは重々しい扉に手をかけ、少々の逡巡をした後、一息に開け放った。
 扉が開け放たれた音に驚いたのか、セジェルを嫌っているのか、娘の抱えていた猫が素早くセジェルの横を通って逃げ出した。
 最初は猫を目で追っていた娘も、猫が見えなくなると戸口のセジェルに目を向けた。
「おかえり。うなぎ美味しかったでしょう。律儀に挨拶をしに来てくれたの? わたし礼儀正しい人って好き。たとえ猫が嫌いでもね」
 セジェルは何も言わず、ただ娘を見つめた。実際に主を目の前にすると決断が鈍る。戦場であれば鋭敏な感覚も、そうでない時には眠りについてしまう。
「ねえ何か、わたしに言う事ないわけ」
 部下の一人を買い戻してやった礼を言えという事だろう。だが娘の軽薄な物言いに、セジェルの応酬はただ一言。
「ない」
「なにそれ、ありえないんですけど」
「俺のためにあいつを買い取ったわけではあるまい。自分のためだろう」
 娘は憤然とした表情で将軍を見上げた。
「はあー! そういう態度するんだったら、あの人わたしの専属運転手兼裁縫係にしちゃうから。将軍にはあげない」
「お前は決してあれをそうはしないだろう。物の価値を知っているのだ、ただの雑用係になどすまい」
「それって、わたしを褒めてくれているの」
「事実を述べたまでだ」
「俺にはあいつが必要だった。お前も。たまたま互いの利害が一致しただけだ」
「つまりわたしのお金で、あなたは得をしたんじゃない。だからほら、わたしに言うんでしょ、お礼を。ほらほら」
 こうなると礼を言うのは癪だった。言質を取られるのは嫌なものだ。セジェルは一層口を固く引き結んだ。どうせ礼を言ったとて、不器用なそれに文句をつけられるだけかもしれない。
 しかし不慣れな礼こそ、もしかしたらよい対価となるのかもしれない。熟れていないという事は、つまりそうする機会がなかったという事だ。その希少性と、自分に心までは屈しないと思っている男からの礼というだけで、娘はおそらく欣喜雀躍だろう。
 別段喜ばせてやりたいという事もないのだが、一言でこの面倒な局面が終わるのならば、言ってやってもいいだろう。
「ありがとうヴィットリア。礼といってはなんだが、今夜は俺を好きなようにしていいぞ」しかしセジェルの口が開くよりも早く、もとより堪え性のない娘の我慢が途切れたのか、言われたい言葉の一言一句がその口から飛び出る。「でしょ?」
 出鼻を挫かれたセジェルは眉を顰めて娘を睨みつけた。
 口の減らない小娘だ。小煩いと興が醒めるというのがわからないのだろうか。いや、分かっていてやっているのかもしれない。
「言葉はタダなわけよ。それで他人をいい気分にさせることができるなら、儲けものじゃないの。将軍は言葉が重いのよ。わたしにもたまにはご褒美ちょうだい。報酬ほしい」
 セジェルは娘を壁に押し付け、恫喝した。
「少し黙れ」
 言葉ではなく行動で示そうというのた。それには娘の軽口は邪魔だ。
「あは、こわあい。酔って気が大きくなっているんでしょう」
「酔っていない」
「酔っぱらいはみんなそう言うんだよ」
 それには答えず、セジェルは娘に接吻した。娘の若々しく弾力のある唇を優しく喰み、開かせる。吐息と唾液を混ぜ合わせながら小さな舌を吸い、歯列を検める。
「あなたキスが上手。誰としてこんなにうまくなったの。女、それとも男?」
「言いたくない」
「教えてよ」
「無粋な事を聞くな」
「あっ、他人の事を知りたいなら、まずは自分の情報開示からだよね。わたし、キスとエッチは将軍とが初めてだから。あと、恋人がいた事もないよ」
「そういう話は聞きたくない」
「はい、わたしの事は話したから、次は将軍の番ね」
「さっきから言っているだろう。少し黙れ」
「じゃあ黙らせてみて」
 娘の蠱惑的な挑発にまんまと乗ったというわけではないが、セジェルは娘に挑みかかった。
 娘の細い腕を彼女の頭上で纏め上げ拘束する。これで目の前の女が浮かべるのが淫蕩な表情ではなく、屈辱に満ちたそれであれば、まるで捕虜とされた敵国の娘だ。
 こうして力では勝つというのに、どうしてどうしていつも娘の思うがままになってしまうのだろうか。