敗北と価値 - 1/4

 セジェルの真向いの鉄格子が耳障りな音を立てて開いた。
 暗がりの中からゆっくりと円形の陽光の下へ現れた対戦相手の息はまるで獣のようで……いや、正真正銘の獣だった。
 わかってはいたが勘弁願いたかった。
「ちょっと大きな猫だと思えばいいじゃないの」
 セジェルの主人である小娘は膝に肥えた老猫を抱えて事もなげに彼に言った。
 あいつは何も分かっていない。猫だから厄介なのだ。セジェルは娘とのやり取りを思い出して顔を顰めた。
 猫という生き物は気に食わなければ主人にだって爪や牙を剥く。
 素早く走りしなやかに飛び、仕留めた獲物はじわりじわりと甚振って弄ぶ。
 気が向いた時だけ出す甘えた声、縦横無尽に身体を舐める肉色の舌、日の翳りによって変わる目。そのすべてが不気味の一言に尽きる。
 つまりセジェルは猫が嫌いだった。その巨大版とやりあわなければならないのだ。本当に勘弁願いたい。
 この対戦のために一週間は餌を与えられていないであろう獅子は、それでも気高さを失う事無くたてがみを振り乱しながら堂々と咆哮した。
 熱気をはらんだ歓声や女子供の期待の入り混じった悲鳴がセジェルの神経を逆なでする。常ならば闘技場に足を踏み入れた後は外野の声など耳に届かないというのに。観客の無責任な昂ぶりに自身まで汚染されてゆく。
 額から汗が一筋垂れ、固い決意を滲ませる眉を撫で、頑健な顎をなぞり、筋張っていきり立つ首筋を流れ、緊張の息で脈打つ筋肉質な身体を伝う。
 いつもなら重たい兜に押し込められているその顔も、その頑健な身体を覆い守る軽鎧も今日は身につけてはいなかった。ただ腰布をきっちりと巻き、裸足で地を踏みしめるのみ。
「大型の野獣と戦うのに防具をつける必要はないわよね」
 との、雇い主の思し召しのためにこうなったのである。
 確かにその意見は正しいし、セジェルも同意見ではある。防具なんて獣の桁違いの猛攻の前では即死を防ぎ、苦しみを長引かせる程度の効果しかない。それに飼いならされていない野生の獣は素早く、かつ躊躇いというものがない。死に至る痛みに喘いで地面に転がっている獲物に止めを刺さない事があろうか。
 それ故に、ともすれば肉体の可動を制限する事さえある防具を着けるのは得策ではない。
 しかし娘がそうした戦術的考えからそう言ったわけでない事は明らかだった。
 その娘の言葉の裏にあるのはいつだって金だ。金! 桁違いの負荷が加わって防具が壊れるのが嫌なのだ。それが例え朽ち果てる寸前の安っぽい革鎧だったとしても、己の金で買ったものならば固執する。魂の薄汚れた守銭奴なのだ。
「お前、俺が死んでもいいのか。目先の損に捕われて一番高価な物を失う事になっても」
 セジェルは苛つきを押し隠そうともせず、怒りのままに遊戯盤の駒を進め、娘の手駒を狩った。
「防具がもったいなくてわたしがそう言っていると思っているわけ」
 娘は自分では心底心外といった顔をしているつもりなのだろうが、その口元にはふざけたような笑いが浮かんでいた。
「食うか食われるかの戦いのほとんどはね、最初の一撃で大体勝敗が決まっているのよ」
 娘の膝の上で安穏としていた老いた猫が突如むくりと起き上がり、乾いた威嚇の音を発するやいなや、上体を低く屈めて尻を揺らし……。
 セジェルの揺れる瞳を捕えた獅子は上体を低く屈めた。
 飛びかかってくる!
 喉の奥で情けなく息が詰まる。
 戦いに際して狼狽える軟弱な自分を初めて知った事にもまた驚愕し、動揺する。
 こんなに巨大な生き物に飛びかかられたなら、恐らく一撃のもとにあっけなく地面に伏す以外ない。
「ゲームだって一緒。あなたがそう冷静さを欠き、追い詰められて駒を無駄に動かせば動かす程、わたしには首を刎ねられるあなたが見える」
 娘は猫に思いっきり後ろ爪で蹴り上げられて血の滲む太腿を盃の水で洗い流しながらセジェルの王駒を取るに足らない雑多な駒で蹴散らした。
「わたしはあなたががむしゃらに飛び込んでくるのを手をこまねいて待っているだけでこうして勝てちゃうの。一手の間違いが命取りというわけ。あの小鳥はこの部屋に入って来たのが間違いの始まりよ」
 小鳥を見事一跳びで地に叩き落とした老兵は、翼を挫かれた息も絶え絶えな獲物を前足で小突いて弄んでいた。
 それがまさに今現実となろうとしているのだ。
 どこから攻めて行けばいいか、経験と知識から一心に考え起こすが、しかしそれが間違った一手だったら。その瞬間に勝敗は決まるというのにヘタを打つのか。
 死ぬのは怖くない。人間あいてならば。
 だが生きながら己の四肢を引き千切られ、はらわたを食い破られるのが怖くないと言えばそれは嘘だった。
 獣は恐怖の匂いを嗅ぐ。今自分はどれだけそれを揮発させている事だろう。
「あなたあの薄汚れた小鳥? それとも猫?」
 娘は猫のような目でじっとセジェルを見ていた。
「武器や防具のせいで負けるだなんてぐずぐず言うのは軟弱者の証拠。与えられた状況で勝ち目がないと思うのならば最期の瞬間まで足掻いて潔く死ぬのも美しいわ。あなたがそうやって敗退したり死んだりするなら、わたし別に悔しくなんて思わない。いい買い物だったとは思うだろうけれど」
 その鋭い目の中には高価な品物を失う恐怖など微塵もなく、あるのはただ一つ。
「まあ、わたしはあなたがそれくらいで死ぬとは思ってないわ」
 セジェルは娘の眼光を胸に、獣の目を伺った。セジェルを畏怖させる野生の勇ましさ、強靭さがその砂色の眼から感じられる。セジェルの動きを見逃すまいと揺れる事なくじっと静止し、射ぬいて来る。
 しかしそうした王者の風格を曇らせるものがあった。焦りだった。飢えによる焦燥。
「獣に勝てるのは獣だけだとわたしは思うの。獣は裸で無駄がないでしょ、だからあなたも獣のように裸でいいのよ。だから防具なんていらないわ。いつもの武器だけでいい」
 相手の焦りを見出したセジェルは片手で握ったグラディウスにもう片方の手をかけた。
 高鳴っていた心臓がゆったりとした鼓動へと収束する。それに伴い四肢の先端や頭へと滾っていた熱がすっと冷める。そして無駄な力が地面へと逃げてゆく。
 冷静さが取り戻され、頭が冴える。戦場で、闘技場で相手を打ち負かす時はいつだってこうだった。自分の肉体を支配しているのは怒りや情熱、勇気や志ではない。肉体は感情を忘れる。そして理性だけが冷酷に外側から肉体に命令を発するのだ。
 今や自分の数倍巨大に見えていた獅子は、それほど大きくはなかったとわかる。
 それは食欲を抑えられないだろう。セジェルの出方を悠長に待つ前に痺れを切らす。
 セジェルはただ、その瞬間に剣を振るうだけでいい。こちらから無様に仕掛ける必要などないのだ。
 それは何度となく使ってきた一手だった。セジェルは己の腕前を信じていた。そして小癪な事ではあるが、雇い主の事も。
 かつての栄光は遠ざかり、今やたかが奴隷となった自分の価値をセジェルは見失っていた。それを一言で取り戻させたのもその女であるからだ。
「たかが金属でできた貨幣に、どうして原価以上の価値が生まれると思う?」
 娘の瞳に宿っていたのは信頼であった。
「あなたは値段以上の価値あるものだった。だからあなたはライオン相手にだってうまく立ち回るでしょうよ。そしてみんながあなたの価値を知る」
 セジェルは獅子が一層上体を沈めて飛びかかる瞬間、少しだけ歩を前に進ませてその首筋に剣を一閃させるだけでいい。
 重たい手応えと共に燃えるようなたてがみは宙を舞い、司令官を失った胴体は重たい音を立てて地面に倒れるだろう。
「スペクタキュラーを見せてくれるのでしょ、将軍」
 そう言った娘を納得させるに値する結果になる。
 セジェルは剣を振った。
 勝敗は最初の一撃で決まるのだ。

 そう、その海戦も始まった時には既に終わっていた。
 大小様々な島と陸地に挟まれた狭い海で敵戦艦にぐるりを囲まれても尚、セジェルは友軍が無事に逃げおおせる事だけを考えていた。足止めの役に立つのなら撃沈もやむなし。そして死さえも厭わなかった。
 セジェルの履物を濡らす生臭い液体は死の匂いを色濃く放出していた。セジェルは誰か怪我でもしたかと辺りを見回すが、血を流している者はない。
 甲板をゆるゆると蛇のように這うのは赤い血ではなく、真黒な粘質の液体であった。
 あっという間もなくそれは甲板を黒く染めてゆく。
 四方を囲む戦艦が衝角を漲らせて突撃してこない理由がわかった。それどころかそれらは今や追い打ちをかけるにはもってこいの追い風にも関わらず徐々に戦線を離脱しつつあった。
 そして置き土産は潮風を裂くような乾いた音。
「火矢!」
 セジェルは頭上に迫る流星の輝きを捉え、叫んだ。

 地下室を照らす松明の炎は勢いよく燃え盛り、時折弾けて火の粉を飛ばす。それはセジェルの敗北の苦い思い出を蘇らせ、ただでさえ沈んでいる気味合いを一層深く沈ませた。
「あ、はぁ……」
 セジェルの幽かな喘ぎが薄暗い地下室に響く。
「変な声出さないで。被虐趣味みたい」
 セジェルと相対して寝台に腰かけている娘が彼の胸に無遠慮に消毒液をぶちまけた。
「う、あ……お前の手当てが手荒だから苦しんでいるんだろうが!」
 セジェルは自身の胸に目を落とす。
 右胸の中ほどから鳩尾にかけて浅くはしる二本の爪痕が痛々しい。半月経って、やっと肉が盛り上がり治りかけてきた所だった。
 今は憎まれ口を叩く元気は十分にあったし、自室である地下室に横たわって書物を読んだり食事をしたりできる程度には肉体も回復してきていた。
 試合の直後は地に強か叩きつけられたせいで背や肩まで痛かった。その上獣毛のせいで予想より硬い身体に剣が阻まれ、腕も上げ下げ出来ない程に痺れていた。そして何より失血して生死の境を彷徨う程危険な状態であった。
 思った通りに上手くは行かないものだ。
 セジェルは時折獅子との試合を反駁してはそう嘆息する。
「これ以上ないくらいの看病だと思うけれど」
 娘は口を尖らせ、セジェルの傷口にぺたぺたと無造作に布を張り付けた。はっきり言って雑だ。これなら名家のお嬢様手ずからの手当てよりも奴隷の使用人によるそれの方がずっと価値がある。