正夢の彼女 - 1/6

 いつの間にか微睡んでいた。
 大きな窓の外は月もなく空は閉ざされ真っ暗で、雪が深々と降り積もっている。
 おそらく持っていたステッキが手を離れた違和感で目覚めたのだろう。先ほどまで弄っていた象牙のステッキは毛足の長い絨毯に沈んでいた。
 ずっと暇を飽かそうとリボンで夫のステッキを飾っていたのだが、いくらリボン飾りが流行っているとはいえ、自分でそうする事にはあまり生産性を感じられなかった。
 夫はどうやら、自分に世の妙齢の淑女らしい事をさせたいらしい。
 けれどリボンでいかにして他の上を行くお洒落な装飾をするかという事よりも、その探求心は技巧と実用性に向かいがちだった。
 それにステッキに手を這わせて滑らかな平絹織のリボンをロマンチックな形に結んでいると、まるで恋人を想うクレーヴ夫人のような気持ちにもなって一層寂しさを刺激されたのだ。
 広い寝台に手を這わせるとリネンのぱりっとした清い手触りが心地よいが、しかし慣れ親しんだ温もりは隣になく、イザドラは小さな溜息をついた。
 そろそろだと思ったのに、夫はまだ帰ってこない。
 あの警察署での情熱的な行為から一体どれくらい経っただろう。千年も万年も経ったような気がする。
 夫は自分の残した愛の印に気付いただろうか。おそらく気づいてはいないだろう。こんなに帰りが遅いのだから。
 今まで自分の思う通りにならない事はなかった。
 まさしく彼だと心に決めた相手を見つけられた事も、その妻になれた事も。
 夢はすべて叶えられてきたのだ。
 だというのに、夫が同じ寝台にいないとなっては今の欲望が望み通りに昇華される事はないだろう。
「ブリュノさん……」
 イザドラは羽布団を引き寄せ、それに顔を埋めて鈴の鳴るような声で呟いた。
 下腹部が切なく疼く。
 部屋の主は待てど暮らせど帰らないのだから、自分の寝室に戻るべきかもしれない。夫の寝台は持ち主の体格に相応しく広すぎる。
 早く愛する夫の中で果てたいのに、と悶絶しながらイザドラは二つのほっそりした脚の間でいきり立つそれを寝台に擦り付け、気休め程度に寂しさを慰めようと寝返りをうった。
「起こしてしまったかね」
 けれど腰を寝台に押し付ける前に、予期せず耳に飛び込んできた馴染み深い声にイザドラはすばやく半身を起こした。
「音を立てないように入ってきたつもりだったのだが」
 潜められていつもよりより一層低くなった声は、確かに彼女の夫のものだった。
「ブリュノさん」
 サイドボードに置かれた蝋燭の炎に照らされた夫はイザドラを見て穏やかに微笑んだ。彫りの深い顔は橙と黒の二色にくっきりと分かれて芸術的に映る。
「それとも起きて私を待っていたのかね」
 流れるような所作で烏の濡れ羽色の外套と目深にかぶった帽子を脱ぎ、彼はそれを椅子の背にかけると脚を組んで寝台に腰かけた。その屈強な身体の重みに寝台がぐっと撓む。
「だとしたらこんなに嬉しい事はないが」
 その瞬間イザドラは気づいた。
 あっ、これって夢じゃん……。
 第一に馬車が屋敷の前に到着する物々しい音が聞こえなかった。普通なら馬の嘶きだとか、車輪が石段を削る音だとか、出迎えが家長を労う声だとかが寝室まで聞こえてくるはずなのに。
 それに寝室に外套を羽織ったまま入ってなんか来ない。普通なら玄関で使用人の誰かが受け取り、まるで猫でも可愛がるかのように丁寧にブラシをかけてワードローブに仕舞いに行く。
 そして妙に気障ったらしい台詞と伊達者のような所作。イザドラの夫はまるで安売りするように自分の感情を言葉や表情で表したりはしないし、堂々たる体躯を見せつけるように脚を組んだりはしない。それは彼がもっとも忌み嫌う軽薄な男がする行為なのだから。
「まあブリュノさん、夢のようだわ」
 妻の言葉が本当に表面通りの意味だとは思わなかったのか、夫は常ならばふてぶてしく下がっている両の口角を実に嬉しそうに吊り上げた。
「それは私の台詞だ。求めた時に君がそこにいる」
 そんな表情も言葉も、彼をよく知らない部下やら使用人やらが見聞きすれば怖気走るものであろう。その裏の怒りや憎しみや謗りを勝手に汲み取ってしまうのだ。それを彼も分かっているから妻にだってそんな顔は滅多にしないのだ。
 つまり今は滅多な時なのだ。自分にとっても。と、イザドラは気取られない程度に夢に向かって構えた。
 夫の手が伸びて来てイザドラの肩に乗せられた。安心するほど重たくて暖かく、夢とは思えない。誘われるように彼女は夫の膝の上に座した。
 壁で妖しくぬるりと輝く大きなベネチアンミラーを横目で見れば、一組の男女が映っている。海老茶色の上着を羽織った大柄な男が、純白のナイトドレスに身を包んだ小柄な女を抱いて口付けている。男の武骨な手が女の背に回され、長い巻き毛を弄っている。女は男の胸にしっとりと手を当ててされるがまま。そして鏡越しに濡れた目をこちらに向けていた。
 その手前のマントルピースの上の金時計は夜の十一時を指している。夫の寝台で手慰みにリボン飾りを始めたのは七時頃だったのだから、随分時間を跳躍している。夢だからその当たりは適当なのだろう。
 接吻をしながらイザドラは落胆した。やっと会えたと思ったらこれは夢だったのだ。これが悲しまずにいられようか。
 だが物は考えようだ。
 こうして夢を見ながらにして夢だと気付くことはよくある事だった。そうした時、軽く念じれば夢はイザドラの思う通りになった。つまり。
 この世はわたくしのものよ。
 イザドラは夫の唇を食みながら妖しく笑った。
 そう、夢はすべて思い通りに叶えられてきたのだ。
「今夜はいやに積極的ですのね」
 唇を離したイザドラは夫を見上げて言った。
「少し軽薄に過ぎただろうか。私はただ……」
 夫は少し顔を赤らめて弁解しようとするが、その言葉をイザドラはもう一度接吻で飲み込んだ。
 舌を絡ませながらイザドラは夫の身体に手を這わせる。
 その身体は冬の屋外の冴えた香りと蘇合香の残り香を揮発させ、少し冷たかった。
「冷たいわ」
 夢なのに。と、イザドラは自身の想像力と霊感に感服した。
「雪が降っていた。署の庭の雪掻きをさせたばかりだというのに、明日にはまた積もってしまう。これでは年明けも仕事にならん」
「来年の話はまだ早いですわ」
 イザドラは頭を抱えんばかりに眉を顰めた夫に微笑んだ。その険しい表情は見慣れたもので、嫌いではなかった。
「しかし後一時間足らずで今年も終わる。そうだ、どうせ起きているのなら街に出るのはどうかね。今晩ばかりは酒場だけでなくどこの店も開いているだろうし、教会で祈るのもいい。君が望むなら公園だって劇場だって連れて行ってあげよう」
 きっとカフェは目抜き通りに面したその大きな窓を暖かなコーヒーの湯気で曇らせて、王室御用達レストランのサラマンドルは眠らず一晩中火を噴く。教会は静謐な祈りが漂い、妙なる聖歌と優しい蝋燭の光が煌めく。
 公園には引っ切り無しに馬車が押し寄せて、噴水は妙なる芳香を漂わせる。劇場のホワイエではインスブルックのそれもかくやという目も彩な舞踏会が開かれるのだ。
 どこへ行こうとイザドラの思った通りの事が起きるだろう。
「あなたのお誘いはとても嬉しいわ。けれどわたくしはね」イザドラは夫のがっしりとした肩を押した。「夫婦になって初めての暮れだわ、あなたと二人きりで新年を迎えたいんですの、ブリュノさん」
 夫の提案は実に魅力的であったが、イザドラが今本当に望んでいるのは淫らな行為なのだ。目覚めた後にリネンが精液で汚れていようが知ったことではない。夢でもいいから夫が欲しいのだ。
 それにこう聞いた事がある。夢は現実のための予行演習なのだ、と。
 品行方正に、凡庸に過ごしている時なんてイザドラには殆どなかった。どちらかといえば悪徳と邪淫に耽っている時の方が多いのだ。ならば淫らな方へと夢の舵をとり、現実に備えて演習する方が合理的だ。実に冴えた選択ではないだろうか。しかし目は冴えないようにしないと。
 イザドラが念じた通り、羆のように大柄な夫は軽々と寝台に崩れた。その固く座り心地のいい大腿の上に彼女はちょこんと跨った。
「イザドラ、それはつまり私と寝るという事かね」
「寝るという言葉にお淫らが含まれるのなら、そう。わたくしあなたと寝たいの」
 夫におずおずと訊ねられたイザドラは事もなげに答えた。
 言葉で少々抵抗されるのは織り込み済みだ。というよりも少しくらい抵抗してもらわなくてはつまらない。
 最初は疲れているだの何だの厭がりながらも、イザドラによって与えられる官能には抗えず、結局はそれを受け入れて喘ぐ。そして最後は己から妻に肉体を捧げて欲望のままにどっしりした腰を振るのだ。
 これがイザドラの未来の予定だった。
「駄目だ私は疲れている、本当に疲れているんだ! 今日だって……」
 思った通り、夫は冷や汗を額に浮かべて頭を横に振る。そんな事をして頭痛の種が芽吹いたりはしないのだろうかとイザドラは心配するのだが、そういえばこれは夢なのだ。気遣う必要はない。
「でもわたくしずっと寂しかったんですの。あなたとお淫らがしたいばっかりに、ほら」
 夫の上でイザドラは腰を反らし、夜着を捲り上げた。夢の中でもその凶悪さを失わない肉棒が天を仰いで目前の夫を威嚇する。
「ああ、そんな、君はなんてはしたない」
 おぼこというわけでもないのに、夫は顔を紅潮させてそれから目を反らした。しかしかまととぶっているわけではない事をイザドラはよく知っていた。本当にそうした事に罪悪感と羞恥心を持っているのだ。
 しかし妻によって与えられる淫らな行為を拒絶し嫌う事はできない。肉体と精神の奥底に淫蕩な性質を持ち合わせているからこそであろう。そして背徳を感じる道徳心を持っているが故に、その快感は何倍にもなって彼を苛むのだ。
 とはいえ何度交わっても夫は堕ちきらない。それは後天的に培われてきた堅固な理性の賜物だとイザドラは思っていた。
「ふふ、でもこっちの方を期待なさらなかったわけでもないでしょう」