「いや、きみは何の面白味もない毒にも薬にもならない小役人的な人間かと思っていたけれどもね」繻子張りの赤い猫足の椅子に深く腰かけた四十絡みの男が言う。「ぼくは今ここで謝らなきゃなるまいね」
あの神々を前にして、と男は吹き抜けになっている二階の廊下でしなを作っている女達をワイングラスで差した。
「あなたはやはり私をそう思っていたのですね、伯爵」
伯爵の隣に腰かけて、同じくワインを舐めていたうだつの上がらなさそうな風采の男が苦笑した。
「きみは居るのか居ないのかたまにわからない時があるからね。それに役人である事は確かだし」
「ここで私の身の上について口になさるのはやめてくれませんか」
情けない声で言われ、伯爵も言い返す。
「けど、今きみはぼくを大っぴらに“伯爵”と呼んだじゃないか。ぼくは無辜の罪であちらこちらから追われる身だというのに」
「誰も聞いてはいませんよ。神以外は」
「つまりあの子達は聞いているという事じゃないか」
天上の女達が天の欄干に放漫な身をもたせ掛けて接吻を投げながら、彼の爵位を甘い声色で囁いた。
「あなたはそうした逃走劇の顛末さえ筆の種にするのだから構わないでしょう。しかしくれぐれも、この事を紙に残すとしても私の事はお書きにならないように」
男は無気味なペスト医師の仮面をつけ人差し指を唇の辺りに当てた。
偶然だろうが、それは伯爵の所属する連盟の合図に似ていた。
「ぼくはてっきり期待しているのかと思ったがね。常日頃他人からつまらない取るに足らない人間だと思われるのにうんざりで、己の中で燻るえげつない欲望をぼくの文字で広く誇示して欲しいのかと」
一方で滑らかに喋る伯爵は仮面をつけずにその手に持って、自身の素性を知られてもまったく構わない様子だった。
「いやそういうわけでは」
「うんなるほど、きみのこの趣味を見るやなかなかの精神世界がありそうだ」
そして椅子から立ち上がり、朗々とした声で乾杯の音頭を取った。
「ヘルマフロディテに!」
降ってくるのは紛れもない女の哄笑である。けれどもどの女達も、際どい下着で包まれた股間には立派な逸物を備えていた。
「安心したまえバダンテール君、きみが半陰陽と交わるのを好むなんて大っぴらに書きたてやしないさ!」
伯爵は優雅な所作で腰を折り小役人に耳打ちした。
うす暗い部屋の中、伯爵は自身と一夜の快楽を共にしてくれる崇高で淫らな両性具有を待っていた。
両性具有を抱くという初めての経験に色事師と自ら公言する伯爵の期待はいやましに高まる。
バダンテールは彼の隣の部屋に入り、今は己の性感を満たすのにご執心のようだった。壁越しに低く啜り泣くような声と甘い詰り声が漏れ聞こえてくる。
押し倒すのよりも押し倒される事を好む男だったとは。しかし常日頃のバダンテールの様子を知る伯爵は妙に納得してしまった。
「話がっ、違うじゃないか私は……っ、っひぃ」
「そんな事言って締め付けてえ……ご注文の通りにしてるだけなんだけどお」
「違うそれは……あああ、動くなああぁ」
あの糞がつく程の真面目男の秘めたる性癖。愚直な人間を狂わせたる両性具有のめくるめく性技。これを書かずにおられようか。
紙面上でのバダンテールのうまい偽名だとか、今度来るときは彼風の行為も悪くないなだとか伯爵が考え始めた所で、ようやく扉をノックする音が聞こえてきた。
規則正しい三度のノックはどこか暗示めいていて、伯爵にある種の予感を感じさせる。
「入ってもいいかしら」
その声は威厳と美に満ちていた。
「ぼくは構わないよ。きみが入りたくないのなら別だがね」
「まあなんてはっきりとしたお声。きちんと仮面を着けて下さらないと」
伯爵は慌てて烏の濡れ羽色の仮面を顔に押し当てた。そして顔をすっぽりと覆うそれの内側に取り付けられたボタンを歯で噛んでしっかりと固定した。
「準備はよろしくて」
もう一度かけられたその声に、伯爵はくぐもった呻きで答えた。ボタンを咥えているせいで喋れないのだ。しかしその不自由さがいやましに彼を昂らせた。
扉がもったいぶるようにゆっくりと開き、相手が現れた。
「こんばんは。わたしパルテーノペ」
パルテーノペは寝台に腰かけて伯爵に相対した。
目元だけを覆う深緑のマスクの下で、輝き始めたばかりの星のような青い瞳が輝いている。
仮面の他に身に着けているのは女性的な胸を強調する鯨骨の入ったコルセットと、すらりと長い脚をこれでもかと誇張させる絹の靴下だけで、下腹部ではやはりこの娼館のコレクションの御多分に漏れず雄の象徴が屹立していた。
輪郭や目元にはまだあどけなさが残っていたが、それも異形の美に拍車をかけていた。
伯爵はその美しさに敬意を表してこの国の貴族がするように大仰なお辞儀をしてみせようとしたが、寝台から立ち上がろうと腰を浮かせた所で肩を抑えつけられ押し倒された。
「その仮面では気の利いたお喋りで親交を深めるのもままならないでしょうから、さっさと始めましょ」
伯爵の腰の上に乗ったパルテーノペの手が彼の首筋から下腹部までをゆっくりと撫で下ろす。仕立ての良い天鵞絨の上着を肌蹴させ、ベストの精緻な花模様付きの金ボタンをクラブサンでも弾くかのように優雅な手つきで外していく。
「いい服着てる。さすが“いい趣味”の旦那様」
口調は蓮っ葉な様子だが、所作はそう育ちの悪くなさそうな印象を伯爵に与えた。いくら客に紳士が多かろうと、見本となるような貴婦人か、あるいは礼儀作法の教師がいなければ所作は身に付かない。
きっとこの娘には何か大いなる秘密があるのに違いない。例えばスルタンの後宮に拉致された高貴な婦人が生んだ娘だとか、この国の王が愛妾に産ませた子供だとか。
そうした夢想を勝手に抱き、こうなっては情事の後にはしっかり“寝物語”というものをしてもらわなければ、と伯爵の肉体的でない方の欲も膨れ上がる。
パルテーノペの人差し指が伯爵の胸板を、鳩尾を、腹の溝を一本に撫で下ろし、そのまま膨らんだ下腹の際を服越しにくるくるとなぞる。そうすると骨の髄からぞわりと欲求が湧き上って来る。
「きっと愉しめるわね、わたし達。悪い男と悪い女だもの」
仮面の奥から悦びの息を吐きながら伯爵は身を委ねた。そのアンドロギュヌスが彼の欲望をその身に受け入れ、淫らに腰をくねらせ喘ぐ所を想像しながら。
だがそんな甘美な想像はパルテーノペの次の一言で瓦解した。
「ね、バダンテールさん」
それを否定する間もなく、パルテーノペによって伯爵の両腕は頭上で纏め上げられた。非情に響く金属の音は、鉛の監獄の掛け金の音によく似ていた。
束の間の友人と取り違えられたからには、おそらくきっとその友人が好む方法で夜を明かす事になるのだろう。
自分はバダンテールではないと伯爵は口を開こうとするが、パルテーノペの人差し指が仮面の唇を押さえつける。
「んう、ふううう!」
その上両腕を拘束されていては首を横に振るしかない。
「口を開く必要ないわ」
真っ白なシャツが胸の上まで捲りあげられ、堂々たる肉体が晒された。
歳の割には頑健で衰えを見せない張りのある身体が喘ぎに蠢く。
胸の先端を舌で擽り、無駄のない腹筋に唇を寄せながらパルテーノペは伯爵に囁いた。
「全部わたしに任せてくれればいいんだから」
そしてパルテーノペの手が伯爵の下衣に伸びると、伯爵は拒むどころか自ら腰を浮かせた。
諦めるべき所とそうでない所の見極めに関しては、伯爵は人並み以上に鼻が利いた。つまり今回は諦めて娼婦の言うなりになる事を選択したのだ。
今や伯爵は生来の放蕩と享楽の気を発揮していた。
怪しい娼館、面白味のない友、アンドロギュヌス、美女、取り違え、そしてめくるめく未知の情交。どのみち紙にしっかりとある事ない事したためるのだ、こうなっては愉しまなければ損というもの。
自分とはまるで正反対の男との奇妙な取り違えも、この後の行為を燃え上がらせるコークスのようなもの。鉄さえも蕩ける性交になるだろう。
露出させられた下半身は期待にゆるく立ち上がっていた。
「やっぱり好きなんじゃない。お役人さんだって服を脱いでしまったらみんな淫乱よね」
パルテーノペの手が伯爵の腰の裏側に潜り込み、尻たぶを割る。
「ここを弄られるのが大好きなんですって?」
「ん、んん」
肛門の入口を指で擽られ、伯爵は目を堅く閉じて息を吐いた。
そんな場所を触られるのは初めてで身体が引き攣り固まる。
愛欲の求道者として同性と交わる事もあったが、立場は今とは逆だった。
それ故に、やはりそこにパルテーノペの屹立する肉棒を受け入れるなんて無理だろうと気持ちが萎えかけた。それは伯爵の痴態を見て、より一層隆々と屹立していたのだから。
「大丈夫、心配しないでよ放蕩の修験者さん」
パルテーノペは伯爵から手を離し蠱惑的に笑った。
そしてコルセットで押し上げられた胸の谷間から小指ほどの大きさの小瓶を取り出すと、そのエメラルド色の粘液質な液体を指に絡めた。
「これね、どんな初心な処女でも手練れたような淫乱にしてしまうのよ」
そりゃあ後でどんな成分で出来ているのか聞かなきゃなるまいな、と伯爵は持ち前の探究心と好奇心から思った。
「何でできているか気になる?」
伯爵の考えが分かったのか、あるいは彼と同様の探究心と好奇心と叡智を持っているからなのか、パルテーノペは彼に問うた。
「蒸留酒とチュベローズオイル。結構お高いのよ。本当はお砂糖に垂らして食べる物なのだけど、男性に使うならきっとこっちの方がいいわ」
ちゅく、くちゅ。
パルテーノペの指が伯爵の硬く閉ざされた後穴の入口をマッサージする。寄り集まった皺の一本一本を丹念に執拗に伸ばし、薬液を塗りこめていく。
「んん……」
妙な心地よさに伯爵は詰めていた息を吐いた。
ねとつく液体がまといつき、そのアルコール分が窄まりを酔い潰させて陥落させようとしてくる。
強いアルコールの誘惑は柔らかな皮膚を敏感にさせ、ひりひりと焼き尽くしていく。
ねちゅ、ちゅ。
指は奥に行こうとしては離れを繰り返し、焦らすように媚薬を塗り付けた。