それも結局勝利の一種 - 1/4

 誰にだって美学はあろう。それが具体的な言葉として心に明文化されていようがいまいが、誰にだって。
 強者こそがすべてを得る。そして弱者は強者に屈服するのみ。
 それが魔王にとっての美学だ。それを抱いていたからこそ魂に迷いの生じる事もなく、これまで常勝だったのだ。
 窓の外は暗雲渦巻き、稲妻が力を溜める不穏な音が城の中にまで響いていた。
雲の狭間から時折漏れる青白い光が当世風の内装の部屋を照らし、禍々しい影を色濃く投影する。そして同時に、城の主たる魔王の影も。
 これからこの部屋の主にして虜囚となる女は寝台に腰かけたまま唇に手を当て、幽かに息を呑む音を発した。それが魔王には王女らしい、実に上品な所作に思われた。
「今日からはここがお前の部屋だ」
 その言葉に王女はそうですか、と呟いた。ほとんど吐息のような声だった。
「お水をいただけませんか。ここに来るまでずっと、飲まず食わずでしたから」
魔王は王女に水の注がれた黄金の盃を差し出した。見上げてくる瞳は不安そうに揺れている。おずおずと延ばされた両手は恭しく盃を受け取るが、それに口をつける事はない。おそらく猜疑心の成せる業だろう。
 王女は幸薄そうな、強く押さずともどうとでもなりそうな、そんなある種不健康そうな印象のある女だった。
 魔王が黒い影を引きずって王女の部屋のバルコニーに降り立った時も、王女は逃げるでもなく彼を不安そうに見上げていた。おそらく彼を恐れるあまり、立ちすくんでしまったのだろうが。
 そして魔王がその猛禽の翼のように大きな影を作る腕で王女をとらえた時、諦観したのか王女は抵抗を忘れ魔王の広い胸に小さな身体を預けたのだ。王女は魔王と一目あったその瞬間に敗北したのだ。
 虜とするのにはこれ以上ないほど容易く格好の獲物だった。
 あの時死ぬ気で抵抗すればよかったと、今は後悔しているのだろうか。それとも恐怖のあまり、己の身の振りを考える事からすら逃れたのだろうか。
 王女はこの世に生まれ落ちてより高い尖頭から出る事なく育てられ、外の世界というものを知らない。国王はその妻が命と引き換えに産んだ娘を、おそらく凄惨な戦争や醜い魔族からなるべく遠ざけて育てたかったのであろう。
 太陽の光からも守るように大事に育てられてきた娘が、こんな陰鬱な場所に連れて来られたのでは恐怖以外の何を感じろというだろうか。
「すべての希望は捨てるがいい。勇者も、神もこの城にそう易々と侵入する事は能わぬ。家に帰りたいなどと考えても無駄だ」
 魔王の問いかけに王女は頭を横に振った。
「そんな事は考えていません」
「嘘をついてもすぐわかる」
「ほんとうです。お城を出られてよかったの」
 その表情に何か負の感情でも浮かんでいないか探るかのように、王女は巨躯の魔王を再び見上げた。機嫌を取ろうとでもいうのだろうか。だとすれば思った以上に浅はかな女である。舌を噛み切って自害しろとまでは言わないが、もう少し矜持の欠片を見せて欲しかった。
「あそこはとても窮屈ですもの」
 魔王はその言葉を受けて盛大に鼻で笑った。ここではおそらく物理的な窮屈さだけでなく精神的なそれだって味わう事になるというのに、まったくな世間知らずで反抗期的な物言いだったからだ。
「それにあなたは悪い方ではなさそうです。地下の水牢ではなくこんな立派な部屋をわたくしにくださるのだもの。あの塔に比べたら、水牢だって天国です」
 この女は自分の腰かけているそれが安らかな寝床などではなく、これから純潔を散らされ、夜毎凌辱される刑場だとは露ほども知らないのだ。それを思うと魔王の嗜虐心が沸々と湧き上がってくる。
「そうなのか。ではこれからはここを自分の家だと思うがいい」
 そう言う魔王の声色や物腰は、まるで父親のようであった。
 これから屈辱の底の底まで落としてやる事を思えば、仮初の優しさを見せる事など苦ではない。それどころか対価が見込めるだろう。
「あなたはどうしてわたしを攫ったの」
 魔王の態度に警戒心を失ったのか、王女はとうとう手にした盃から水を飲んだ。媚薬をたっぷりと溶かしたものであるなどと少しも知らずに。目に浮かぶようだ。淫らな熱に浮かされて、名すらわからぬ未知の欲求に苛まれる青い肉体。荒々しく雄に貫かれ、苦痛に泣き喚きながらも吐息は徐々に熱を帯び、魔族の欲望を未熟な胎一杯に注がれ、最後は腰を振って種付けを強請りさえするようになるのだ。
「決まっているではないか」魔王は王女を寝台に押し倒した。盃が床に落ち、乾いた音を立てる。「こうするためだ」恨み骨髄である人間の、それもあの国王の一人娘を辱めるためだ。
「やめて」
 絹を引き裂くような悲鳴がなんとも心地よい。
 その悲鳴に呼応するかのように突風に煽られて窓が開き、重たいカーテンがはためき稲光と雨が室内へと降り注ぐ。
「やめてほしいのなら力で勝つ事だな。弱者は強者に服従するのみ」
 王女の濡れているように緑に輝く黒髪が寝台に散らばる。まるで堰き止められていた奔流が堰を切って流れ出すかのように。
 勢いに任せて魔王が王女のドレスの胸元を引き裂こうとした時だった。
 足元から火山の湧き立つような……いや、水の噴き出すような低い音が忍び寄ってくる。その場所を見る暇もなく、泡沫の弾ける音と何かが水面を突き破る音が響く。次いで、魔王の耳元の空気を切り裂く何かが去来し、彼の首筋に触れる。一連の流れは数秒もなかった。不穏な気配に横目をくれてやれば、それは流れる水のような波紋を描く……。
「ダマスカスソードだと!」
 誰に支えられるでもなく、それは魔王の首に狙いを定めて微動だにしない。刃から垂れる冷たい水滴が首の後ろを伝って垂れる。鈍く光る刃は一閃すれば竜の首だって斬り落とせるだろう。
「強い者がすべてを得るのね。それがあなたの国の法律なのね」
 甘んじて組み敷かれたままでいる王女は実に穏やかに微笑んだ。
「よかった、わたしの国のような複雑で甘ったれた法律のある場所でなくて。一部の知識階級のみが理解できて武器とできる法しかない国なんて、むしろ無法よりも野蛮だわ。あなたもそう、お思いになるのでしょう?」
 魔王はいつの間にか詰めていた息を呑んだ。
「貴様、この剣をどこから」
「黄金の盃、恵みの雨、あとほんの少しのあなたの汗」
「えっ」
 魔王は王女の上で阿呆のような声を上げた。
 絨毯の上の床に転がる盃から零れた水と窓から吹き込んでくる雨で濡れた部分が、小波のように揺れ、水の泡沫が湧きたっている。まるで泉のように。
「わたしの母は水妖で、父はわたしがいつか母のように水の世界へ戻ってしまうのではないかと心配していました。だからわたしを高い塔へ閉じ込めていたのです」
「えっ」
 それはちょっとしらなかった。魔王はやっぱり阿呆のような声を上げた。
「お水も飲ませてもらえないから、わたしほとんど力を失っていました」
 魔王は顔を引き攣らせた。水妖といえば、人や魔族とは確実に一線を画す、いわば神の一歩手前のようなものだ。水を自在に操り、魔族と人間の矮小な争いになど露ほどの興味もなく、気になるのは色と諧謔のみで、流れる水のように一所に落ち着かない。気まぐれに捨て子を育てたかと思えば、男を魅了し水の中に引きずり込む。気まぐれに英雄に武器を与えたかと思えば、命と共に武器を取り戻す。人にも魔族にもとりあえず理性と道徳というものがある。だが水妖にはおそらく己を縛りつける、そんな高次の鎖はあるまい。掴みどころのない、原始的で純粋無垢なありうべからざる者共だ。そんな者を――半分人間であるとはいえ――城に引き入れた事を魔王は後悔した。
 つまり今自分の首筋に突きつけられているのは、ある程度の量の水があれば呼び出す事ができる水妖の剣というわけだろう。その武器の構成の大半を占めているのが、おそらく黄金の盃の媚薬であろう。魔王は手ずから水妖に武器を渡してしまったという事になる。
 気付けば既に身じろぎ一つできない。所詮は水の潤いなくしては生きられぬ貧弱な肉体だ。水妖にとっては貯水樽のようなものだろう。自分の身体はすでに半水妖の王女の玩具なのだ。
 敵ながらあっぱれ……いや、油断しすぎていた。やろうと思えば魔王の身体の中に剣を出現させる事だってできたはずだ。それをしないという事は、それよりももっと恐ろしい責め苦がこれからくわえられるという事だろう。
 魔王の重たい身体が王女と入れ替わりに寝台に沈む。女のように脆弱な寝台の骨格が悲鳴をあげながら軋んだ。それはこれからの己の運命を暗示しているかのように魔王は思えた。
「あなた汗かいてる。暑いからではなくて、緊張の汗ね、わかります」
 毛穴の一つ一つから湧き出る焦燥の証が石礫のように駆け回り鎧下を引き裂き、それだけに飽き足らず内側から鐵の鎧を打ち壊す。熟した果実が弾けるかのように、腐敗した死肉が破裂するかのように、黒光りする堅牢なそれは部品ごとに分解され床に落ちた。騎士に爆裂魔法をくれてやってもこう派手に瓦解はすまい。
「でも大丈夫、ひどいことしません」
 酷い事をしないと言った奴の中に、実際に酷い事をしなかった奴がこれまでいただろうか。
 魔王は鎧の残骸が立てる重たい音に絶望を感じた。牛頭魔に打たせた、ミスリルソードすら通さぬそれが水妖の悪戯で易々と砕かれたのだ。これがどうして絶望せずにいられよう。
残るは弛まぬ鍛錬で作り上げた己の天然の鎧のみ。だがそれも身体が自由にならない今や無用の長物である。赤茶色の体毛で覆われた暗褐色の頑健な肉体は狼狽の汗に濡れ、強さというよりは被支配から来る惨めな淫らさを漂わせていた。先程まで王女を弄る気で満ちていたその陽根も今や出鼻を挫かれ意気を失っていた。
 魔王は唯一自由になる視線で王女を殺しにかかる。だがそんな睨みも場の支配者には通用しない。限りない命をもつ半神にとっては邪眼など何の脅威でもない。視線の合った者の寿命を半減させる邪眼ではあるが、無限が半分になった所で無限は変わらず無限なのである。