ちいさいおっさんと白っぽい少女を観測するおじにいさんの話 エロなし(2008年の怪文書)

 わたしは生まれてこの方何かに夢中になった事があっただろうか。
 ない。いや、なかったのだ。
 わたしは逸る気持ちを抑えきれず、川沿いの道を足早に通り抜けた。
 馬車で乗りつけたりはしない。あの場所は誰にも知られたくはなかった。
 石畳が神経質に靴音を反響する。
 街角の灯り持ちが引き上げた後の、夜と明け方の境目にこんな場所を歩いているのはわたしくらいなものだろう。深い霧を突き刺す足音は一つだけだった。
 そしてわたしは雑然として薄汚い貧民街に身を投じる。
 いくら早起きだといっても、前後不覚な灰色の空の下に起き出してくる市民は未だいなかった。
 死んだような静寂。家のない者が石畳に横たわっていた。生きているのか、それとも……。
 洗濯物干しのロープが渡された建物の峡谷に侵入すると、そこは迫り来るほど狭く、体を傾け肩で分け入らないと進めないほどだった。
 遊び盛りの子供でさえ、こんな所に入りたいとは思わないだろう。わたしは自分の恵まれた体型に感謝した。
 それでも薄汚れた断崖に背と腹をこすりつける羽目にはなった。しかしそんな事など構った事ではなかった。つい一週間前までの、異様な潔癖概念に取りつかれていたわたしからは想像もつかない事だが。
 隘路の中ほどまで来ると、腹側にした薄汚い壁面に、場違いな仕様の扉があった。決して豪奢ではないのだが、質素ながらに品格のある扉。
 ノックしてそれを横に引く。これが引き戸でなかったなら、いくらわたしでも中には入れまい。
 わたしは静かにその家屋に足を踏み入れた。
 今でも入った瞬間、それが幻なのではないかと錯覚する。
 自分の存在はまるで夢のようで、出来事に脈絡はなく、此処は非現実的な世界だと。そして部屋の中は地平線が見えそうなくらいに広く、地面に足がついていないかのように思えるのだ。
 そこは純白の世界だった。
 床も、壁面も、前世紀風の家具も。それ故にさほど広くもない部屋が奇妙に膨張して見えた。
 そこには一点の色もなかった。窓にも白いカーテンが下され、完璧な白。まるで白い宇宙。
 濡れ羽色の外套を着たわたしは、部屋の中の一つの汚点、白紙に落とされたシミであった。
 そこはかとない寂寞と畏怖を感じた。そして眩暈さえも。
 戻れない……と思った。何かというと、取るに足らないわたしの狭い世界に。
「おはよう、伯爵殿」
 どこかから部屋の主が声を発した。それはひどく耳障りな甲高い声であった。
 わたしはやっと、白い部屋と同化していた白い住人を発見した。
 彼はけだるげに椅子に腰かけていた。それはいつもの事だった。彼のそれ以外の所作を、わたしは見た事がなかった。この部屋では。
「今日も朝が早いのだね、上流階級のくせに。まるで農夫のようだ」
 彼は鼻持ちならない、といったように顔を歪めた。太陽王時代の宮廷貴族のような、はっきりと大仰な、見せつけるような所作であった。
 彼の出で立ちもまた変わっていた。
 一昔前風の、髪粉をふった大きく長い髪、上着、ベスト、キュロット、絹の靴下、台形踵の靴……。それらのすべてが白く、彼は一部の隙もなく純白だった。その顔色でさえ、漂白したように不自然に白かった。
 彼に近付いてみると、その顔は海峡を隔てた向こう岸に住む洒落者さながらにお白いが塗りたくられているのが分かった。
 その整った美しい弧を描く眉は墨で書いたもののようだった。双眸はどろんと溶けたように垂れて、鼻は作ったようによく出来ていた。薄い唇にこそ紅でも塗ればいいものを、それは不健康に、気味悪く真っ白なままだった。
 それは彼の元の顔の造形が全く想像だに出来ないくらいの、呪術的な化粧だった。
 彼の仮面のような顔を見ていると、心がざわついた。かつて仮面舞踏会や運河の街の感謝祭に出向いた事があったが、わたしはああいうのは好かなかった。おそらく本能的なものだ。
「彼女はもう、起きているのだろう」
 開館時間は過ぎていたが、わたしは一応儀礼的に彼に問うた。
「ああ、ついさっき」
「では彼女の所へ行っても構わないだろうね」
 わたしは椅子に坐って足を投げ出す、無礼な白い青年に聞いた。
 とはいえ実際のところは、彼は青年ではないのかもしれない。もっとずっと歳を経ているのかもしれなかった。しかし何にせよあの仮面では、年齢を図り知る事は不可能だった。
「そんな事は知らない。本人に聞かない限りは」
 白い青年はそれだけが生まれながらに美しいのであろう真っ青な瞳を、厚ぼったい目蓋の下にしまった。
「ここ最近後悔し通しだ。開館時間をもっと遅くすればよかったと。熱心なお客もいるものだよ。上流階級なのだから、もうちょっと朝が遅くても罰は当らないだろうに。ともあれあんたは大事な上客だ。自分はもう寝るから好きにするがいい」
 わたしは彼の言葉を聞きながら、逸る気持ちを抑える事もせずに黒い外套と帽子を脱いだ。
 外套を脱ぐと、わたしはやっと空間に受け入れられたような気がした。
 わたしもまた、一部の隙もなく純白の出で立ちであったからだ。
 全身を白で覆う事、これが彼女と会う為に守らなければならないただ一つの規則であった。勿論、顔にお白いを分厚く塗りたくる事までは求められはしなかった。それにはわたしも安堵した。わたしは大陸の奴らのように軽薄で放蕩な性質ではないからだ。
 後は一般市民には決して安いとは言えない面会料——白い青年は見物料と言っているが、人間扱いしていないようで好きになれない表現だ——を支払う事が求められた。わたしはそれを既に一年分払ってあった。それも面会料に色のついた貸切料金で。
 だから今や彼女はわたしだけにその姿を晒す。
 毎朝四時から夜の八時までなら、わたしは好きな時に奥の間の彼女と会う事が出来た。
 いいカモだ。きっとわたしは、また一年後、大層な金を払うのだ。
 足を踏み入れた奥の間も、めくるめく純白の海だった。
 その部屋の中心にはもう一つ、部屋があった。
 その小部屋は全面がガラス張りの円柱形で、上部が括れている事からそれは瓶である事がすぐに分かる。
 それはまるで白い海に漂没する小瓶であった。
 それを見ていると帆船模型の封入された瓶を思い出す。
 というのも、小さめではあるがその中には寝台、卓と揃いの椅子二脚という家具が配置されていたからだ。それらも勿論、全て真っ白だった。
 そのガラスの部屋の側面には勿論扉などない。外界と繋がっているのは、瓶の上に空いた細い口だけだ。子供一人が通れるか通れないかというくらいの。
 恐らく、一旦解体した家具をそこから入れて、中で組み立てたのだろう。瓶の中の帆船模型と同じ要領で。
 ではそれらを組み立てたのは椅子に坐って刺繍をしている彼女だという事になる。
 彼女でさえ、ばらばらにされて瓶に収められたのではないかと思われるくらい人造めいていた。人形的とでも言うべきか。
 全体の印象は品が良く華奢で儚げ。触れたら壊れてしまいそうな程に。
 そして瓶から出したが最後、動かなくなってしまいそうだった。
 彼女の名はブランチといい、あの白い青年は彼女の兄だった。面立ちは全く似ていなかったが。
 彼女もまた、白いドレスを着て、白い靴下を身につけ、白い靴を履いていた。
 まったくと言っていいほど、無駄な露出のない格好であった。首から手首まで、すっぽりと白い襟と袖に覆われていた。髪も肌も一分の隙も無く白かったが、ゆったりと流れる豊髪は月長石のように見る角度によってその色を変えた。
 わたしが奥の間に入ってきた事に気づくと彼女は、おはようございます、と言った。のだろうと思う。
 わたしと彼女を隔てる硝子はぶ厚く、お互いの声は中に届かないのだ。
 意思疎通には筆談をするしかないのだろうが、わたしは概ね彼女が生活しているのをただ見ているだけで満足だったので不便はなかった。彼女も、出会いと別れの独立語を交わす以外ではわたしなぞいないかのように振る舞っていた。
 だから彼等が何の為にこんな事をしているのか、わたしは知らない。わざわざ聞くのも憚られた。ただ、彼女の父親は騎士で不実な決闘で死んだのだ、とだけ青年から聞いていた。後ろ盾を失い、生きる術が無いからこのような事をしているのだろうか……。だとしたら、わたしはカモなどではなく慈善事業をしていると胸を張ってもいいのかもしれない。
 客のわたしは最近は日がな一日彼女を見て過ごしていた。
 そうしていると時折妙な思索に耽ってしまう時がある。
 わたしが彼女を見ているのだろうか、それとも彼女がわたしを見ているのだろうか。瓶の中から。それともこちらが瓶の中なのだろうか。いや、円の場合においては、弧に囲まれている方が内側のはず。しかし、あるいはわたしをもっと外側から見ている何か言い知れないものが……。
 わたしは玻璃の外側に置かれた純白の椅子に腰かけた。
 彼女もまた、椅子に腰かけていた。
 いつもなら刺繍をしたり読書をしたりしているのに、今日の彼女はまじまじと、わたしを見つめていた。
 小首を傾げて、翡翠の瞳を熱心にわたしの取るに足らない凡庸な瞳に注いでいた。
 わたしはどぎまぎとした。目を逸らす事も、指の一本も動かす事も出来なかった。こんなに彼女に惹かれるのは、翡翠の瞳のせいなのだろうか。彼女の瞳はこの世で一番美しい宝石だった。光に煌めき、うっすらと濡れて……。
 永遠を内包したほんの数分、好奇の目でわたしを見つめた後、ブランチ嬢は思いついたようにテーブルに向かい何かを書き付け始めた。
 彼女の視線から解放されても、わたしはまだその場に張り付けられたようになっていた。心臓の鼓動が内側から肉体を強く打ち、そのせいで身体の内と外がひっくり返ってしまいそうだった。
 すぐに戻ってきた彼女は、わたしの眼前の硝子にメモを押し付けた。
「貴方の瞳は何色というのでしょうか」
 それには流麗な字体でこう書かれていた。
 彼女は色を知らないのだろうか。ずっと白い世界で暮らしていたのだろうか。
「榛色です」
 わたしは咄嗟に答えたが、彼女は首を横に振った。透明な壁に阻まれて聞こえないのだ。
 わたしは懐から、こんな時の為に用意しておいた筆記用具を取り出した。
 わたしは先ほどの言葉と寸分違わぬ事を記したメモを彼女の目の前に示した。
 彼女は微かに頷いて、メモの余白に素敵な色です、と書いた。
「貴女の瞳の色も大変美しいです。澄んだ翡翠色で」
 ブランチ嬢は枕元に置いてある手鏡を覗いた。
 色のない世界に唯一栄える、彼女の瞳の色。
 彼女はわたしを見て微笑した。
 彼女の微笑はいつも惻隠に満ちており、何か叶わない切実な願いを背負っているかのようでわたしを胸苦しくさせた。例えばただ見守るしかない愛を抱えているとか。いや、それはわたし自身の気持ちの投影だろう。
 そんな微笑を浮かべている時、彼女の稚しかんばせは実際の年齢よりもずっと大人びて見えた。
 微笑以外でも、彼女が時折ふと見せる表情はもの悲しげで、手をすり抜ける川の水のように清澄であった。
「貴女はとても美しい」
 そう陳腐な文句を書いた紙切れでさえ、彼女の事であったならば至高の詩を書き付けた薔薇の花びらのように思えた。
 彼女は硝子越しに、わたしのメモを愛おしそうに撫でた。
 そんな風に彼女を見ていると、時間は飛ぶように過ぎていくのだった。
 下劣な倫理観、腐り果てた道徳観念と謗られようが、わたしは彼女を瓶から出してやりたいとは思わない。
 自分勝手なもので、わたしは彼女がわたし以外の誰の目にも触れられないならばそれでいいと、そして取るに足らない無神経な世界へわざわざ彼女が足を踏み入れる必要などないと考えていた。
 それに彼女はきっと、瓶の外では生きられまい。猥雑な色の洪水にあてられて壊れてしまうだろう。
 彼女にはその白く狭い瓶の中の世界が一番相応しかった。一つの完成された芸術作品だった。
 わたしはその世界ごと彼女を手に入れたいと切望していた。
 彼女の兄と嘯くあの青年も、概ねわたしと同じ考えなのではあるまいか。
 彼女は新たな紙にペンを走らせた。
「どうやって貴方はこの場所をお知りになられたのですか」
 わたしは少し考えて、ペンを取った。
「丁度一週間前の夜遅く、馬車でそこの川沿いの道を通りかかった時に、目の端で一瞬見覚えのある影を見たような気がしたのです。今でもそれが何かは思い出せないのですが、その影に誘われるようにわたしはこの建物の前までやって来ました。暗くて定かではありませんでしたが、それは一人の子供に見えました。それが狭い道を通り抜けこの家に入って行くのを見たのです。それでここに」
「子供?」
 わたしは慌てて付け加えた。
「多分見間違いだと思います。猫か、犬だったのでしょう。それに記憶の中の何かを投影したのだと」
 懐かしい影の正体を、もう少しで思い出せそうなのだが。
 わたしは頭を抱えた。堆積した記憶の奥底で、掴み所のないような、忘れかけた記憶を一心に探した。
 それは二十年ほど前の事だろうか。多分わたしは十を少し過ぎたくらいの子供で……。
 ブランチ嬢が内側から硝子をコンコンと叩いた。
 わたしははっと我に返った。
「無理なさらないで。いつか自然に思い出しますわ。その時になったら」
 わたしを心配げに見つめる彼女の顔は、慈しみに満ちていた。
「そうしてここに初めて訪れて、貴女を一目見て」
 わたしは震える手で素早くそれだけ書き付けて彼女に見せた。
 彼女はじっと、わたしがその先を続けるのを待っていた。
 お慕い申し上げております。他の誰の目にも触れさせたくないと思う程に。独占したいと思う程に。
 わたしはかすれた声で言った。
 彼女の顔は本当にわたしの近くにあった。手を伸ばせば触れられそうなくらいに。
 彼女は首を横に振った。
 ごめんなさい、聞こえませんの。と、彼女の唇の動きが示した。
 彼女をここで初めて見た時の胸苦しい気分が甦った。
 切ないような、愛しいような、懐かしいような。
「すみません、なんだか感傷的になってしまいました。もういいのです。忘れて下さい」
 わたしはそう示して椅子に深く掛け直した。
 彼女は浅く頷いて、わたしを安心させるように幽かに笑んだ。それはやはり悲しげで……。
「貴女にはどなたか愛する方がいらっしゃるのでしょうか」
 わたしは堪らずに、不躾を承知でそう問うた。
「ええ。けれども、わたくしはその方から愛していただく資格がないのです」
 彼女は躊躇う事なく答えた。それはわたしが全くの他人と思うからだろうか。
「というと」と、わたしは思わず口に出す。その表情と唇の動きで、先を促している事を理解したようで、彼女は書き物を続ける。
「ほんの一瞬ですけれど、わたくしはその方を疑ってしまったのです。そして深く傷つけてしまいました。ですから今では密かに思う事しか出来ないのです。恥知らずに愛を打ち明ける事など出来ないのです」
 彼女は悲しげに目を伏せ、そのままわたしの返答を許さず自分の生活へ戻った。嗚呼、彼女にとってはわたしの言葉など何の意味も持たないのだろうか。一等愛する人物ではないわたしの賛美や告白は……。
 夕焼けが部屋を赤く染め、そして夜の帷の紫が侵入して来る頃、わたしは部屋を辞した。丁度八時だった。
 彼女はさようなら、とだけ言い、わたしはまた明日、と頭を下げた。わたしは必至に抑えていた。別れ際に彼女の足元に跼き長々と別れの辛さを吐露する事を。離れたくはなかった。彼女にとってはただの見物人に過ぎないと分かっていても、一日中傍にいたかったのだ。とにかくいつも帰りの足取りは重く、夜は殆ど眠れず、その時間が来るとわたしは短兵急に家を出る。後にも先にも、その繰り返し。
 その日の帰りには彼女の兄の白い青年とは会わなかった。会わなくてよかったと思う。顔を合わせてしまっていたら、何か尋常ではない事を口走ってしまいそうだったからだ。
 隘路を逆に辿っていると、しかしどうしてももう一目彼女を目に焼き付けておきたくなった。そうしないと煙がかき消えるように、彼女も消えてしまうのではないかと思ったのだ。まだ存在している事を確かめたかった。
 気づくとわたしは踵を返していた。
 やはり白い青年は何処にもいなかった。わたしがそっと奥の間の扉に手を掛けると、中からくぐもった彼の声が響いていた。甲高くももの悲しげで、今にも息の根が止まってしまいそうなものだった。
 わたしは立ち去るべきだったが、喘ぐように喋る彼の声色に狂人のようなそれを感じてその場に留まった。もし彼女に危険が及ぼうものなら、すぐにでも飛び出すつもりで。
 蔭で神秘を覗く、という背徳的な行為は初めてであった筈なのに、わたしの脳裏で既視感が喚いていた。
「君は私を恨んでいるだろうね。あんな不幸に陥れ、そこから出ては生きられない身体にしてしまった。君は私を赦していると口では言うが。私は生まれながらにあんな肥溜以外の世界を知らなかった。最初は昔と同じような仕事をして細々稼いでいたけれど、君は言ったね、私にもうそんな仕事はさせたくないと。私がとても苦しそうだと。だから自分を見世物にすればいい、と……。私は事実そうした。そうするしかなかった。君は私を憐れんで、そして嫌っているのだろう。私が君を好いているのを知っているから自分で自分を貶めているのだね。私は君の究極の拒絶を受け取ろうと思っている。だから私は、君の思う通りにしているのだよ」
 彼女に聞こえないにも関わらず、彼は一気にそう言ってしまうと呻吟に声を詰まらせた。
 彼は彼女の兄などではないのだろう。
 彼女を愛していて、しかし彼女からの掛け値無しの好意を受け取るのを恐れる貧弱な器の不憫な男だった。彼女は少なくとも、不躾にも他人に憐憫を感じる人間ではなかった。なのに彼はそう思いこんでいた。そうしないと自分に対する彼女の無償の優しさと気遣いを理解できなかったのだろう。自分などに彼女がそんな事をする筈がないと深く堅く信じていたのだ。
 わたしはそっと、扉から離れ、その家屋を後にした。
 まだ夜でも暖かくておかしくない時節であったが、この都市特有のどんよりとした重たい霧のお陰で、心も身体も段々と冷えていった。
 白い青年とブランチ嬢の関係を考えると、わたしは気が狂ってしまいそうになる。
 彼らの間にはきっと深い繋がりがあるに違いない。自分の世界を彼に任せられる程に彼女は彼を信頼していて、そして彼は狂わんばかりに彼女に思慕の情を抱いている。
 そこにわたしの入る余地があるか。
 霧のお陰で一フィート先も見えないという有様だったが、やっと川沿いの道に出ると、馬車の走る音や人々のざわめきが耳に優しく、徐々にわたしは人の世に引き戻されて冷静な気持ちになってきた。
 わたしは深呼吸して家路につこうとした。
 その瞬間、霧の仕切りを破り、わたしの目の前に腕が生える。
 わたしはすんでの所で悲鳴をあげる所だった。
「失礼、サー」
 霧のカーテンを掃いて現れたのは重たげなドミノ服を着た女性であった。カーニバルの仮面をつけているせいで顔は見えなかった。
 女性は優雅に腰を折り、一葉の宣伝ビラをわたしに差し出した。
「本日からアストリーの円形劇場の近くで見世物が開催されますので是非」
 原色刷りのビラには装飾書体でFreak showと書かれていた。 
 わたしはまたふと胸をざわめかせる懐古の念に駆られた。どうしてだろう。見世物興行なんて行った事があっただろうか。
 ビラから顔を上げると、既に女性は霧の中に埋没した後だった。
 その夜、わたしは郊外の円形テントに足を運んでいた。
 演目にあまり人気がないのだろうか、客の入りはまばらであった。
 フリークショウと銘打つくらいなのだから、奇形の人間や動物が出てくるのだろう。ちょっと考えてみればあまり良い気分はしない。
 すり鉢状になった客席の中ほどに腰かけ、開演までの所在ない時間を考え事をしながら過ごした。
「おや、これは懐かしい事で御座いますな、見世物ですか。昔よく、先代と奥様、それに貴方様で見に行かれたのを覚えております」
 わたしが持ち帰ったビラを見て、わたしが幼少の頃から家に仕えていた執事の言葉を思い出していた。
「当時はアストリーという曲馬師が興行を始めた頃で、それに続いて様々な見世物が台頭しておりました。いつだったか……あれは貴方様が十歳くらいの時分でしょうか、外国から来た興行を初めて見に行かれて、いたく気に入られた事がありました。それから何度も何度もその見世物小屋に足をお運びになられて。まるで熱病に冒されたように。その興行の中に、奇形の出し物でもあったのでしょう、奥様は、奇形を見世物にする場所に喜んで行くなんて、と度々お怒りになられておりました」
 全く覚えていなかった。
 わたしが何度も何度も興行を見に行ったなど。
 しかし物心ついていない年ごろでもあるまいし……。
「それが、その団の興行が終わってしまうと、ぱたりと熱も下がり、それからはどこの見世物にも全く興味を示さなくなられましたね。いやあ本当に懐かしい事で。またあの興行団がこの国にやって来ようとは。貴方様が気に入られていた……」
 執事のその一言で、わたしはこの興行に来る事を決めたのだった。
 自分の心の中の何処かに失われた記憶があるなんて後味が悪かった。確信はなかったが、ここに来る事で何か手掛かりが掴めるのではないかと思ったのだ。
 客席が暗くなり、いよいよ興行が始まった。
 照明に照らされて、闘牛士のような服装の団長が挨拶をした。痩身で伊達な顔付きの男だった。
 最初は曲馬や軽業、奇術などの出し物が行われた。
 徐々に思い出してきた。あの胸の高鳴り。
 土埃をあげて疾走する馬、縄抜け、鋸で切断した首が元通りに……。
 そして綱渡り。
 細い綱の上を棒を持って危なげなく渡っていく少女。
 一瞬、その凡庸な容姿が非凡なものにとって変わった。
 なめらかな白い肌、琥珀色の髪の少女に。その少女は鯨骨で膨らませた純白のドレスに身を包み、片手にパラソルを持ち、綱の上を楚楚と優雅に歩いてゆく。彼女は時折躊躇うように後ろに戻ったり、パラソルを差し替えたりと、観客の心を掴む演出をする。
 彼女は確か“マドモワゼル”と紹介されていた。
 当時一番の目玉の出し物だったはずだ。
 少し短めのドレスから覗くほっそりとした足、ぱっくりとくれた白いデコルテ、そして客席を見渡す時の少し憂いげな表情。
 思い出した。わたしは彼女を見たかったのだ。
 棒を構えて歩く凡庸な容姿の彼女が、ちょっとつまずいて見せた。しかしそれは観客を喜ばせる為のちょっとしたパフォーマンスでしかなかった。
 マドモワゼルの時もそうだったならよかったのに、と綱から落下する彼女の幻影を目で追いながら思った。
 非凡なマドモワゼルは、ちょっとした魔の仕業でその綱から落下したのだった。
 腕や脚がおかしな方向に捻曲がって、血の溜りが花開くように彼女の下に広がっていった。白いドレスが真っ赤に染まった。
 それは子供特有の思い込みの成せる業だとは思うが、彼女の頭はしっかりとわたしの方を向いていて、その翡翠の瞳を涙に潤ませていた。
 品のよい唇からは血の泡を吹き、身体をひくひくと痙攣させていた。
 次の日の興行では、綱の上に彼女の姿は無かった。
 わたしは落胆したはずだ。それで興行に行くのをやめたのだったか?
 綱渡りが終わると、次の出し物が始まった。
 奇形。一段と暗くなった照明の下に浮かび上がる彼らは、英雄であり魔王であった。
 まずはギリシア神話の神々のように、薄絹の衣を巻き付けた女が現れた。覗く首筋、肩口、腕、それらの全てが鱗に覆われた蛇女だった。
 そして岩男、牧羊神などが次々と現れた。
 怪しげな不協和音と眩暈を催す色彩の中で、その出し物は進んでいった。
 わたしは惹き付けられた。目を逸らしたいのに逸らせなかった。魅了されていたのだ。
 そして最後に、王もかくやという派手な服を着た男が舞台に現れた。顔をオペラ歌手さながらに白塗りにした、長身の男だった。
 彼はふんぞりかえり、フリークス達を鞭打った。
 しかし最期、彼はつまずいて大仰に床に倒れ伏した。すると彼の胴体と首が生き別れになった。
 いや、それは首などではなく、嗚呼、なんとそれは侏儒だったのだ。
 君主よろしく立ち回っていたのは、機械仕掛けの胴体に乗った二頭身の男だったのだ。
 堂々たる肢体を失った侏儒はちょこまかと困ったようにそこらを歩き回った。
 満場の観客もフリークスも、彼の奇異な虚栄を笑った。
 その侏儒は道化の役回りであるから、笑われても構わないのだ。彼はわざと転倒したに過ぎなかった。
 しかし今、彼が痛々しく見えるのは何故だろう。わたしは彼を知っているからだ。卑俗さを演じているどろっとした目の中で、叡智に煌めく青い瞳……。
 わたしがはっと我に返り辺りを見渡すと、もう興行は終わった後で、舞台は団員達によって片付けられている最中だった。少なかった観客も既に捌けていた。
 最後の侏儒の独擅場は、わたしの幼少の記憶に過ぎなかったのだろうか。
 きっとそうだろう。もうこの興行団に侏儒はいないのだから。
 彼はこの街での興行最後の日、逃げたのだ。
 瓶詰になった彼女を盗んで……。
 マドモワゼルは怪我をした次の日、綱渡りには出演しなかった。
 その代わり別の出し物で彼女を見た。
 奇形のそれで。
 一部の隙もない純白の衣服を纏った彼女が瓶の中で生きていた。広さは人が裕に五、六人は入れるくらいで、不快な思いはしていないようだった。
 昨日の怪我はどうしたのか、何も無かったかのように、そして生まれた時から瓶の中で暮らしていたかのように彼女は振る舞っていた。
 その日の彼女は、マドモワゼルではなく、令嬢ブランチと呼ばれていた。
 瓶は車輪のついた飾り棚に据え置かれていて、リボンや羽で飾られていた。
 それは舞台の中央まで、何人ものお仕着せの従者によって恭しく運ばれた。
 そしてその周りを、機械仕掛けの身体に乗った侏儒がいやらしくワインを舐めながら闊歩する。
 彼はいつもと同様、すらりと背の高い王として堂々と振る舞っていた。
 王は美しい娘を自分だけの物にせんと瓶詰にしたのであった。と、そういう寸劇的な要素のある見世物だった。
 彼女はすらりとした四肢の王を恋慕の表情で見ていた。
 しかしやはり王は舞台上で大仰に転倒した。
 そして侏儒となった彼を観客は笑った。
 少女も彼を笑わなければならない筈なのに、彼女は、ブランチ嬢は尚も切なく愛おしげな表情で彼を見ていた……ように思う。
 当時のわたしは彼女をまた舞台で見る事が出来てとても喜んだ。
 一目彼女に会いたいと、わたしは終演後にひっそりと舞台裏に忍びこんだ。
 流石に舞台裏でも彼女が瓶の中で暮らしていると思う程わたしは幼くはなかったが、しかし事実そうだった。
 十重二十重に張られたカーテンを根気強く捲っていくと、飾り棚の上で瓶詰の彼女が眠っていた。
 薄暗がりに目を凝らしても、瓶に人一人通り抜けられるような仕掛けなどなさそうだった。子供ならば窄まった瓶の口から出入りする事もできなくもなさそうだが、勿論わたしや彼女のような中途半端な年頃になってしまえば無理だった。肩も腰も引っ掛かってしまう。
 ではどうやって彼女はこの中に。帆船模型のように解体されてか。まさか。素人などにはわからない仕掛けがあるのに違いないのだ。
 しかしそんな疑問はどうでもよくて、わたしは瓶の底に横たわる彼女にただ見とれて呆けていた。その目蓋を開けてはくれないだろうか、その唇をわたしの為だけに開いてくれないだろうか、と。
 後方で物音がしたので、わたしは近くにあった彫刻の台座の陰に隠れた。
 カーテンをかき分けてやって来たのは、縄抜けの軽業師であった。
 彼は下衆っぽい顔を気色の悪い笑いに歪めて、瓶を登る。さながら蟲か、蜥蜴か。
 瓶の口まで上りおおせた軽業師は細い開口部に頭部を入れた。彼は縄抜けの要領で身体の関節を外し、楽々と瓶の中に侵入してしまった。
 よくない事が起こるに決まっていると子供のわたしにも分かった。そのよくない事が何なのか、はっきりとは思い浮かばなかったが。
 ブランチ嬢は眠そうに目を開けて、何か二言三言お行儀よく軽業師に受け答えする。そこに警戒心は見られない。
 軽業師はあっという間もなく彼女を瓶底に押し倒した。
 助けるべきだったが、わたしは情けなくも物陰から動く事が出来なかった。
 どうか誰かが幽かに硝子を震わせる彼女の悲鳴に気づきますように、と一心に祈っていた。
 彼女の唇が、軽業師によって奪われたその時、重たいカーテンを難儀そうにかき分けて侏儒がやって来た。彼女に渡すのであろう毛布と衣服を持って。
 侏儒は一瞬驚きに目を見開いて、その次の瞬間怒りの形相を呈した。
 軽業師はイモリのようにブランチ嬢に張り付いて、怒り狂う男の存在にはまだ気づいていない。
 小さな入り口から素早く瓶に入り込んだ侏儒は、目玉を剥き出して軽業師に襲いかかった。
 彼はブランチ嬢の上に屈み込む軽業師の背に乗り、両腕をその首に巻き付けもの凄い力で絞め上げたのだった。
 軽業師は白目を剥いて口角から泡を飛ばした。
 彼は万力のような腕から逃れようと首に巻きつく侏儒の腕を掻きむしった。
 それでも侏儒はその力を緩めなかった。
 軽業師の顔は徐々に紫色になり、口からだらんと舌が垂れる。
 組敷かれていたブランチ嬢が、泣きながら何かを訴えている。おそらく、もうそれ以上はやめろというような事。そうしてやっと侏儒は腕の力を抜いた。
 解放された男は喉を庇いながらそそくさと瓶から這い出た。
 侏儒は瓶の底に倒れたままのブランチ嬢に目をやった。彼女はさめざめと泣いていた。
 彼は彼女の頬の涙を拭いてやっているようだった。その手つきはとても優しい。
 そして彼は彼女のはだけた胸元を見て苦々しく顔を歪め、毛布と着替えを彼女にぶっきらぼうに押し付けると、瓶の壁際まで後退して彼女に背を向けた。
 二人は何か会話を続けて、そして彼女はカーテンに仕切られた空間の片隅に目をやった。そこはまさしくわたしの隠れていた場所だった。
 見つかったかと思ったが、どうやらそうではなく、二人はわたしが身を隠している彫刻について話しているらしかった。
 わたしが身を寄せていたのは人間の全身彫刻だったようだ。天辺から被せられた白い布の上からでもその堂々たる骨格が窺えた。繊細な女性の彫刻ではなく、力強い男性のそれのようだった。
 彼女はしばし彫刻を見た後、侏儒の肩に手を置いて振り向かせ、彼の真っ青な瞳をまっすぐ見つめた。
 侏儒は顔をくしゃりと歪めて何か叫ぶと彼女の手を振り払い、逃げるようにブランチ嬢の空間から出る。しかしその場を去る事はなく、瓶を背にして床に腰を据えた。
 ブランチ嬢は顔を俯けて硝子越しに彼の背に何か呟いた後、毛布に潜り込んだ。眠るまでのしばらくの間、彼女は彼の小さな背を見つめていた。
 侏儒は一晩中瓶の傍らにいて、彼女を守るつもりのようだった。
 辺りが暗く静まると、わたしはひっそりと、物陰から這い出て舞台裏から逃げた。
 侏儒の物悲しげな青い目が暗闇を透かしてわたしをしっかりと捉えていたような気がした……。
 わたしはそれから毎日、興行に通い詰めた。
 ブランチ嬢だけを見たくて。
 いよいよ興行も最後という日、わたしはまた舞台裏に忍び込んだ。
 最後に彼女と一言でもいいから言葉を交わしたかったのだ。
 彼女の元へ馳せる為に、わたしは幾重ものカーテンの霧を掻き分けた。
 中心地に近付くにつれ、数人の話し声が漏れ聞こえてきてわたしは歩を止める。
 一つは甲高い声、もう一つは深い落ち着いた声、そして最後は怒っているような、焦燥を含んだ声。全て男のものだった。
 わたしは話がはっきりと聞こえる場所までカーテンの波を進み、そこで息を潜めた。
 飾り棚の傍にある松明の赤橙色の炎が、目の前のカーテンにくっきりと三人の影を映していた。
「構った事じゃあねえだろう! 俺が誰と懇ろになろうと。もうこの娘は団長のお気に入りじゃねえんだ」
 焦燥に満ちているのはあの軽業師の声だった。
「彼女は嫌がっている。お前のような下衆」
 侏儒の声は相変わらず不自然に上ずって気味が悪かった。
 カーテンに映る影を見る限りでは、彼はまったくの子供同然だった。
「団長! このチビを何とかしてくれ。いくらこの女に惚れてるからって……」
「待て、待て。好悪は彼女自身に聞いてみればいいだろう」
 ひときわ背の高い団長は、張りのある声で公平な裁量を下した。ブランチ嬢自身の意向が反映されるならば、軽業師は拒絶されるだろう。わたしは安堵した。
「物事は公平に」
 瓶をこつこつと叩く音が響く。すると驚いた事に、分厚い硝子越しにも関わらずブランチ嬢の透き通った声がはっきりと聞こえるようになったのだ。
「話しても構わないのですか」
「この審判の間だけは発言を許そう。だがブランチ、お前がこの男を拒んでも、お前に安寧があるかはわからんよ」
「彼女には私がいる」
 侏儒はすがすがしく、まるで忠実なる騎士のような台詞を吐いた。
「なに、貴様だって軽業師となんら変わりはないだろう。この娘が綱から落ちて虫の息の時、慈悲で一思いに殺してやろうとした私を止めて貴様は何と言った」
 侏儒は低く呻吟した。
 団長は素晴らしくよく通る声で真相を告げる。
「彼女を生まれ変わらせるから自分にくれと、そう言ったろう。それで何をした。以前から私は知っていた。お前がこの哀れな娘を暗い思慕のまなざしで見つめていた事を。己の欲望のために貴様はブランチを」わたしの項が厭な予感に粟立つ。「瓶に詰めて自分だけの物にしたのだ!」
 信じられないような話に、わたしの息が勝手に上がる。しかしそれは侏儒が漏らす悲鳴混じりの唸り声に掻き消される。
「やめろ! やめてくれ!」
 侏儒はその目を取り落とさんばかりに見開き、狂ったように叫んでその耳を塞いだ。
 軽業師は馬のいななきのような気色の悪い笑いを発した。
「公平を期す為に、令嬢には助言を。お忘れか、この男が綱渡りの準備係だった事を。どうしてあの日お前は急に脚が滑ったんだね」
 侏儒は力無く喘いでその場にへたり込んだ。
「私は、ただ、愛して……そんな酷い仕打ちを思いつくわけが……」
「お前が! お前みたいなチビが女を本気で愛するって! その化粧をこの女の前で取った事があるのか」
 軽業師はぐったりとした侏儒を片手で軽々と持ち上げた。
 「やめて酷い事をしないで。そんな身体なのに……」
 ブランチ嬢が悲痛な声を目一杯に張り上げた。
「聞いたか、そんな身体なのに、だと。憐憫だ。奇形のお前を憐れんでいるだけなんだ」
 軽業師はもう片方の手を伸ばし、侏儒の顔を乱暴にもみくちゃにした。
 カーテン越しのわたしからは彼の顔が見えなかったが、その凄まじさを体現するけたたましい軽業師の笑い声が聞こえた。
「こいつは傑作! なんて醜い顔」
「頼む見ないでくれ、見ないでくれ、お願いだ……」
 軽業師は嘆く侏儒をぽいと床にうち捨てた。
「わたくしは貴方に憐憫を抱いた事はありません。それに醜いとも思いません。でも……」
 ブランチ嬢は煮えきらない様子を消え入りそうな声色に示した。彼女はやはり侏儒を慕っていて、しかし彼が彼女にしたかもしれない最悪の所行に戸惑っていたのだ。
「私を……私を疑っているのだな……」
「許してください。そんなつもりは……わたくし貴方をこの世で一番に大切に思っていますのに。もう死ぬしかなかったわたくしを助けて下さったのは貴方なのに!」
「いいんだ……すべて事実だ。私を軽蔑するだろう。優しさに騙されたと思うだろう。所詮は私も汚い男だったと落胆するだろう」
「いいえ、いいえ。わたくし信じません。貴方がそんな事をしたなんて」
 軽業師が無粋にもその高潔なやり取りに水を差した。
「そういうまだるっこしいやり取りはやめようぜ。疵物を俺の女にしてやるって言ってるんだ。まず感謝する所だろうが」
「疵物だと」
「服で隠しちゃいるが、身体中縫い痕だらけだ。襤褸人形みたいにな」
 軽業師のブランチ嬢に対する心ない言葉を受けて、侏儒がふらりと立ち上がり、嘘のように軽々と飛び上がった。
 彼は手に持った何かを軽業師の背に突き立てた。短剣だろう。
 ブランチ嬢の悲鳴と団長の嘲笑がない混ぜに響いた。
 軽業師は立てられていた松明もろとも床に倒れ、炎が辺りの物を見境なく舐める。
「浅はかな。異形と云えども所詮は人間か。多少悪魔の術を使えた所で、歪んだ愛と執着が身を滅ぼす」
 そう言った団長の影は、みるみるうちに変化していった。
 手には鋭い鉤爪、長い尾、蝙蝠のような羽根……カーテン越しでもわかる。悪魔だ。
「私の手から逃げたいのならば死体になるしかないぞ。お前の父親のようにな、ブランチ」
 悪魔はその羽根を広げ、侏儒に鉤爪を伸ばした。
 刹那徒に、悪魔の背後にあった像が倒れかかった。
 白い布が外れ、その像の背に纏いつき、はためく。まるで復讐の天使の羽根のように。
 幻覚でなければ、その像が倒れ様に右手の槍を掲げ悪魔を貫いたのが見えた。
 悪魔は断末魔の叫びを上げて、地面に留め置かれた。
 わたしは目の前のカーテンを何枚も裂き、飾り棚の置いてあった場所へ出た。
 爬虫類さながらの姿の団長は騎士の像の下敷きになって動かない。
 軽業師は背に銀の短剣を生やして息絶えて火に巻かれるままになっていた。
 わたしの目の端に、恐るべき膂力で飾り棚を押して逃げる侏儒が映る。彼はわたしを無表情にちらと見て、すぐに炎の壁の先に消えた。
 彼らはその後、密やかにあの白い家で暮らしていたのだ。
 ああ、大事な事は全て思い出した。
 わたしは白い家へと急いだ。
 この地にあの興行団が来ているのならば、彼らに危険が及ぶのではなかろうか。あの団長も、軽業師も、未だあの時の姿形のままに興行団にいた。
 真夜中の貧民街に馬で駆けつけ、わたしは隘路に素早く忍び込んだ。
 そして入り口の引き戸を開け、白い空間に身を投げた。
 椅子にも他の何処にも白い青年の姿はなかった。
 わたしは奥の間へ踏み入った。
 部屋の中心に瓶はなかった。勿論ブランチ嬢も。
 瓶があった筈の場所には、赤にまみれた白い青年が倒れていた。いつものように仮の身体にしがみついてはおらず、侏儒であると一目で分かった。
 彼の薄い身体には銀の短剣が埋もれていた。
 わたしは彼を抱き起こし、心臓の拍動を確かめた。幽かに内側から、緩慢に身体を叩く音が聞こえた。
 呻吟して侏儒は白い膜のかかった目を開けた。
「医者に連れていく」
 彼を抱えて立ち上がりかけたわたしを、瀕死の侏儒は制止する。
「いや、いい……。どうせ死ぬ」
 甲高い声が喉でかすれて、旋毛風のような音を立てた。
「しかし」
「この姿形を見られたくないんだ。分かるだろう」
 ああ、とわたしは頷いた。
 侏儒の顔は化粧が施されておらず、瘢痕にまみれて赤剥けた顔を外気に晒していた。その顔を縦断する亀裂から、彼は青年というよりは、寧ろもう、初老に近いのではないかと思われた。
「ブランチ嬢は」
「連れて行かれた。君もよく知っているあの興行団に」
 彼の口ぶりから、以前からわたしを知っていた事が窺えた。
「あの悪魔はやはりブランチが惜しくなったのだろう。瓶詰の娘が」
 そしてついでに離叛した眷属に復讐をしたというわけか。
「私は結局彼女を守れなかった……」
 侏儒はひび割れた唇を歪めて苦笑いを示した。
「君はブランチを今でも愛しているか」
 彼はいやにすっきりとした声でわたしに問うた。青い目が一瞬煌めいた。
 わたしは神妙に肯首した。
「なら、行け。そして最期の時を私一人にしてくれ」
 わたしは彼を床に横たえ、外套をかけてやった。
「彼女を守って欲しい。私には出来なかった。君を傷つけるばかりだった。ブランチ……許してくれ……」
 彼はそう言い終わると数回痙攣し、血反吐を吐いた。
 それでも彼は今際の際に澄んだ涙を流し、顔を喜びにくしゃくしゃに歪めた。
「しかし、君は、最後に……私を……」
 彼は浮言のように呟くと、ゆっくりと目を閉じて事切れた。
 彼はとても穏やかな顔をしていた。
 わたしは彼に同情などしなかった。彼は最初から彼女の心を持っていたのだから。そしておそらく永遠に。
 わたしは侏儒の亡骸をその場に残し、興行団のテントへ向かった。
 懐かしい舞台裏に回り、十重二十重のカーテンをかき分け、わたしは彼女を見出した。
 彼女は飾り棚に置かれた瓶の中でぐっすりと眠っていた。頬に涙の跡が幾重もついていた。
 わたしは彼女と共に居たい。永遠に。
「おや、こんな時間にお客さんか。今日の興行はもう終わったよ」
 わたしは振り向いた。足音もなくそこに立っていたのは、人間の姿の団長その人であった。
「彼女を盗みに来たのかね。それはどだい無理な話だ。幸せにはなれんよ。彼女は瓶にかけられた微々たる悪魔の呪術で生き長らえているだけだ。瓶の外に出れば死ぬ」
 ブランチ嬢がゆっくりと目を開けた。そしてわたしを見つけて驚き、瓶の内側にしがみついた。何かを叫んでいるようだが全然聞こえなかった。
「わたしは彼女と共にいたいのです。永遠に。その為ならどんな事でもします。瓶の中に入れて下さい。どうか!」
 それがわたしが彼女に示す事が出来る最上の愛。
 世界ごと彼女を独占するのではなく、彼女と世界を共有する事。いつか彼女がわたしを受け入れてくれる事を信じて。
「どんな事でも。確か奴もそう言ったな、あの薄汚い侏儒。私の悪魔の力をほんの少し手に入れる為だけに。あの男が愛する女をどうやって瓶に入れたか聞きたいか」
 悪魔は顔を凄絶な笑いに歪めた。けれどもわたしはひるまない。奥歯を噛みしめた。
「私はしかし、非常に惚れた腫れたの話に弱い。永遠に共に、か。そのために瓶の中に入りたいと?」
 わたしは頷く。汗が一筋額から流れ落ちた。
「ふむ、悪くはないかもしれん。ではどうぞ、瓶の中へ」
 団長は言うやいなや、もの凄い力でわたしを床に押さえつけ、そして、斧を振り下した。
 まずは腕。右、左。
 そして足。右、左。
 生きたままに四肢を切り離された。
 そして胴体も真っ二つに。
「こんな事をして心からすまないと思っているが、瓶の口は狭き門だからね。それに、どんな事でもするんだろう?」
 耳をつん裂くのはわたしの悲鳴だろうか。
 最期に膜のかかったわたしの目は、首に振り下される寸前の斧と、泣き叫ぶ彼女を捉えた。
 泣くのはおよし、ブランチ。わたしの為に。

 わたし達が舞台に上ると、観客が一斉に息を呑むのが分かる。わたし達は至高の芸術品なのだ。瓶の中の伯爵と伯爵夫人。
 純白の服は縫い痕を隠すようにしっかりと肌を包んでいる。疵の縫合は全て彼女がやってくれた。刺繍の得意なブランチが。
 今は本当に何もかもが素晴らしい。
 生々しい縫合痕が身体に残っていても気にならない。ブランチもそうなのだし、お互いの縫い目を品評し合うのもまたよし。
 そう、わたしは身体を細切れにされ瓶に詰められて、晴れてブランチと寝食を共にする仲となった。しかし寝る必要も食べる必要もない。瓶の中にある限り、死の運命からは永遠に遠ざけられる。
 わたしは今までにない程幸福であった。瓶の中は二人だけの白い宇宙、大海原。
 わたしは後にも先にも彼女にとっては二番目だけれど、それでも構わない。一番目を喪ったが故にブランチの彼への愛は褪せる事がなくなってしまった。しかしわたしはそんな彼女を愛しているのだ。侏儒を慈しみ、愛した彼女を。
 彼女から伝えられた過去もすべて受け入れて、わたしは彼女を傍らで守り支える伴侶となった。
「授かったようなのです」
 ある日彼女は頬を赤らめてわたしに囁いた。何度聞いても透明感ある声が耳に心地よかった。
「それは素晴らしい。大事に育てよう」
「多分もう少しで生まれます」彼女はちっとも大きくない腹を愛おしげに撫でた。
 生まれる子はきっと可愛らしいに違いない。白い肌、品のある顔立ち、そして……。
 そして白い世界の内も外も自由に行き来出来る小さな子。
「きっと彼も喜ぶだろうね」
 待ち遠しいみどりごは白い肌、品のある顔立ち、そして青い目を持っているはずだ。

おしまい