シャン・ド・マルス駅行の切符二枚 - 3/3

 だからアルヴィットはそれに付け込んでエヴァンジェリンに居丈高に命令したのだ。
 物言わぬ前任が直るまでの間、代わりに自分の下で働いて責任を取れ、と。
 しかし人形が壊れたのはエヴァンジェリンのせいではなかった。
「ああ、ああ、壊してくれ俺は、俺はもう、生きてはいかれない」
 そんな哀れみの滲む言葉を理解したのかどうかは分からないが、女は善さそうに喉を反らし、腰の動きを速めた。
「やあよ、や、しなないで、でも、でも、あ、すきで、アル、すきだから、腰止まらないの……!」
 諦めに光を失っていたアルヴィットの瞳が精気を取り戻し、瞳は新鮮な驚きと感動に膨張する。それは初めてエヴァンジェリンに出会った時の感覚に似ていた。
 あの薄汚い楽屋裏での出来事が瞬時に脳裏を焼き、凝り固まった心が蕩けてゆく。初めて目が合った時の、あの惻隠に満ちた微笑が腹話術師の人形でなく自分に向けられていたのだと思うと。
「好きだって?」
「ええ、すき、なのよ。すき、はじめて会った時から、アルのことすきっ」
 トランクからはみ出ていた自動人形の腕が砕け散った。それは解放の兆しだった。
「だから、だからね、わたしあなたの下で働くの嫌じゃないの。ぜんぜんいやじゃないの!」
「ああ、そんな、あ、ぐぅ、あぁ……っ」
 エヴァンジェリンの息も、アルヴィットの息も、同じ快感に蕩けて弾ける。
「ずっと一緒にいたいけど、でも、あなたが嫌なら、厭ならわたし……」
「い、いやじゃない、エヴァンジェリン、俺は……」アルヴィットは腰が痙攣するのに合わせて跳ねる声を押さえつけながら必死に応える。「俺だって一緒に居たいっ……!」
 まるで未熟な恋人同士のような実のない会話だとどこかで思いつつも、こんな言葉が自分の中にあった事に驚くアルヴィット。
「はぅ、ああ、やっ、うれしいっ」
 アルヴィットの額を掠めるエヴァンジェリンの吐息は甘くて、こんな淫靡な行為に耽っているというのに清廉であった。
「どこが……どうして、なぜっ、俺が好きなんだ!」
 腰を打ち付けられ、その程よい苦痛に喘ぎながらもアルヴィットはエヴァンジェリンを見上げて問う。どうしても知りたかったのだ。この醜い男のどこがいいのか。
「んぁ、あぅ、ふ、わからないわ、わからない! もう黙ってよっ。あなたいっつも言葉ばっかり!」
 最後が近いエヴァンジェリンは珍しく雇い主を非難し、アルヴィットの小さな身体をきつく抱き、これが答えとばかりに力強く奥に怒りを突き込んだ。
「あがっ、っが、ぐお、おお」
 甚大な衝撃にアルヴィットは動物の咆哮のような声をあげた。
 身体に異物が挿入され、吐精されるという新しい感覚と快楽が流れ込んでくる。
 アルヴィットは気をやる瞬間、自分を抱く女の名を何度も呼び、法悦に震えた。

 アルヴィットは寝台に死んだ魚のように横たわっているエヴァンジェリンの涙に濡れた頬をそっとぬぐってやった。
「アルヴィット」
 その手の感触にエヴァンジェリンは薄く目を開け、また涙を零した。
「壊れなかったのね、よかった」
「俺がいないとお前は金を稼げないからな。生きていると知ればそれは安心だろう」
 アルヴィットがそう言い放てば、エヴァンジェリンは顔をぷいと反対側に向け、彼を無視した。
「こっちの機嫌は直ったというのにお前のその態度はなんだ」
 しかしエヴァンジェリンの流れるような豊かな髪の房さえその嫌味に返事をしない。
「お前は俺とこれからもずっと一緒にいるんだな」しかし聞いてはいる事を見越してアルヴィットはエヴァンジェリンの後ろ頭に向けて話しかけた。話しかけたというより、声色は恫喝の一歩手前ではあったが。「つまりもうあれを直す必要はないという事だ。あれは捨てる」
「だめだわ」
 返事をするかどうか迷った末の弱弱しい声が返ってくる。
「やっぱりお前は俺と一緒にいたくないんだ。早くお役御免になりたいから直せと言うんだな」
 意地の悪い気持ちが膨れ上がる。
「一緒にいたいわ。けどかわいそうよ、壊れたままは」
「俺でなくあの自動人形の方が好きなのか」
「違うわ。まるで生きているように見えたから、かわいそうに思うだけよ」
 初めてエヴァンジェリンと会った夜、彼女は今と同じような事を言った。
 まるで生きているみたいだ、と。
 それは自動人形の腕に抱かれた自分の事を指したのだとアルヴィットは思ったが、エヴァンジェリンはしっかりと彼の目を見て、自動人形の方を手で示していた。
 アルヴィットが背もたれ代わりにしている自動人形の胸がバチバチと音を立てた。内部で火でも噴いたのだろう。それは悪魔の発明品が壊れる予兆だった。
 だからその日の興業の終わった後、アルヴィットはエヴァンジェリンを楽屋に招き入れたのだ。そして努めて優しく、自動人形に触ってみたいか尋ね、エヴァンジェリンにそうさせた。
 自動人形に伸びていく手の美しさと言ったら。そして好奇心に染まるばら色の頬。
 アルヴィットがそれに目を奪われた瞬間、椅子に優雅に腰かけて微笑んでいた自動人形は崩壊した。
 こうしてエヴァンジェリンはアルヴィットの物になったのだった。
 まるで悪魔だな、とアルヴィットは自分をそう思う。
「それにあなたが作った物だから、きっと素晴らしいものなんでしょう。そうした良い物をうっちゃっておくのはよくないと思うの」
「何も知らない馬鹿がごちゃごちゃ言うな」
「わたしの事を馬鹿と言うの、もうやめて。もっと馬鹿になってしまうわ」
「少し俺に優しくされたくらいでいい気になるなよ」
「ごめんなさい」
 アルヴィットの方へようやっと頭を巡らせたエヴァンジェリンは素直に謝った。その清らに美しい顔はやはりアルヴィットの心を壊れんばかりに乱した。
 駄目押しのように、トランクの底に押し込まれた自動人形の残りの部品が瓦解する音がした。
 かつてそれを作り息吹を吹き込んだその時、アルヴィットは一つの念を込めた。
 鉛に潰されても焼かれても壊れるな。ただ俺が誰かに恋心を抱いた時のみ、火花散らして壊れていい、と。
 そうなる事は一生ないと思っていたのに、自動人形をそう呪った四百年後にその日が来るとは。彼のような錬金術師が地上から消え失せ、足で踏めば布を縫う機械だとか、船や車を自動で動かす機械だとかが展示される、そんな時代に。
「もう完全に壊れたよ。そういう風に作ったんだ」
 エヴァンジェリンが触れるなり腹話術師の人形が壊れたのは、ひとえにアルヴィットが彼女に恋心を抱いたからなのだった。
「よくわからないわ」エヴァンジェリンは曖昧な笑みを浮かべる。「あなた自分ではわかってないみたいだけど、あなたの言う事っていつもすごくむつかしいのよ」
「別に理解する必要ない。少しでも頭がよくなりたいなら博覧会でも行けばいい。明日この街を離れる前にでも」
「あなたと一緒なら行くわ」
 アルヴィットの小さいが無骨な手がエヴァンジェリンの温かな手で包まれる。肉体的な法悦でなく、今度は精神的な法悦が押し寄せる。
「行ってやってもいいが、切符は一枚でいい」
 アルヴィットは色の変わりかけた顔を反らして、早口に呟いた。
「でもあなたの分が必要だわ。だからシャン・ド・マルス駅までの切符を二枚ね」
「荷物に旅客用の切符が必要なら少なく見積もっても三枚は必要だな」
「あなたわたしの荷物じゃないもの。だから切符はいつだって二枚買うの」
 エヴァンジェリンは得意そうに言ってベッドから飛び降りると、鏡台の前に腰かけた。
 窓の外は薄暗くなって紫色に染まり、今夜の興業の時間が迫っている事を示していた。
「やっぱりお前は馬鹿なんだ」
 聞こえてはいないだろうと思っていたが、柔和な顔は鏡越しにアルヴィットへ微笑みかけていた。

シャン・ド・マルス駅行きの切符二枚 完