「これで……これで夫婦に」
バランタンが譫言のように呟いた。
はらわたの奥に熱い所有の印を刻み込んでもらえたのだ。
遂に自分はクロードの物になった。そうした被支配的な感慨が湧き、一度として行為で得られなかった法悦と愛を憶える。
「ええ、わたくしあなたの妻になります。そしてあなたはわたくしの夫」
彼の上に横たわったクロードが腹ばいのまま頭を持ち上げて彼を見た。儚げな長い睫に窓から忍び込んだ光が絡んでいる。
「眠るときには同じ寝具の中でおやすみと言います」
クロードの手がバランタンの硬い黒髪を撫でながらとても優しく言う。
「朝起きるときには朝日の中でおはようと」
やっと力を取り戻した重たい腕を持ち上げ、バランタンは華奢なクロードの背を抱いた。
その腕にぬるついた生命の赤い滴りが触れる。
「私はあなたを傷つけてしまったのだな。気をつけていたというのに、私はやはり誰かを傷つけずにはいられないのか」
起き上がってクロードの背に刻みつけられた爪痕を認めたバランタンは唇を噛んだ。
「大丈夫よ、大丈夫」
バランタンの後悔と悲しみのない交ぜになった顔を撫でながらクロードが慰める。
「あなたにつけられた傷痕ならば星の勲章と輝くわ」
「すまない、クロード」
彼はクロードを後ろから抱きしめた。
「夫婦だもの。あなたの背が痛むときには優しく撫でましょう。人の世の終わりには星の想い出を語らいましょう。そしてわたくしたち二人は陰になったり日向になったりするのよ。つがいになるの、比翼の鳥のような」
「嗚呼、ああクロード」
バランタンは感極まる。
六度の交わりと一度の契りを経てやっと夫婦になれたのだ。
清廉な涙がクロードの傷痕に垂れ、血の痕を押し流していく。
「消さないで。宝物にするから。あなたと確かに夫婦だった証」
クロードはバランタンの腕の中で身をよじって立ち上がった。
「見て、靄が晴れる瞬間を」
バランタンは疲労した身体を起こして服をおざなりに纏うと、先んじて窓辺に寄ったクロードの隣に立った。
それは奇しくも彼の父親が落下した血塗られた窓であったが、今の彼には――クロードと契って多幸感に包まれている彼にはそんな事は思い出されもしなかった。
「とても美しいわ」
塔からはるか彼方を見遣れば、遠くの山脈から黄金の朝日が生まれ出ると共に朝靄が山に吸い込まれてゆく。その白い緞帳の下からは、サファイア色に輝く屋根を掲げる城下と黄金の葡萄畑が現れた。まるで波の下の都が干潮で地上に発現するかのようだった。
「私はかつて誓った」
バランタンはクロードに真摯な眼差しを向けた。
「あなたが外に出られないというのなら、外側を内側にしようと」
「葡萄畑の事?」
「そうだ」
「行ってみたいと言っていた事を憶えていてくれたのね。ありがとう」
見上げてくるクロードを抱き寄せ、バランタンはその裸体に白貂の毛皮の外套をかけてやった。
「私は誓う。あなたの生涯の」
伴侶になると、と言いかけた彼の唇にクロードが人差し指を当てた。
「あなたはいつか国王になる」
一輪のマドンナリリーを拾いバランタンの胸に挿すと、まるで盲目の予言者のようにそれは目を閉じて彼に告げた。
そして人差し指で己の左手の薬指の根本を指す。
「そしてわたくしは誓うわ、都市の寿命が尽きてこの身が朽ちてもあなたを愛すると」
一時課の鐘がまるで婚礼の鐘のように鳴り響く。遙か下方から上ってくる喧噪は祝福の声。
「行こう、皆にあなたを紹介する。私の妻だと」
返事の代わりにクロードは微笑んだ。
それに後押しされて、バランタンはクロードの手を取り光の溢れる白百合のドームを後にした。
地に続く暗い階段を飛ぶように降りてゆく。脚は羽が生えているかのように軽い。
「これからきっと幸せになる」
時折バランタンは後ろを振り返りながら妻に語りかける。
「あなたの部屋は日当たりのいい場所にしよう。けれど朝一番の鋭い日光があなたを刺し貫かないように、窓には一等高級なゴブラン織りのカーテンをかけて」
「けれどわたくしが目覚めるのはいつもあなたの寝室なのだわ」
「壁にはタペストリーを掛ける。それは一枚で四方を覆ってしまえる程に大きくて、神話の一場面が惜しげもなく描かれている。暖かく、そして一生色褪せない」
「暖かく色褪せないのはきっとあなた」
「寝台は天蓋のついた堅牢な物を。十重二十重に垂れる絹の幕に守られながら二人で夜毎ワインを舐めよう」
「そしてそのまま一緒に眠るのね」
息急き駆けて、出口がぐんぐんと近づく。
しかし塔の半ばで絡ませた手がほどけ、バランタンの後ろでクロードがはたと脚を止めた。
彼は訝しげに、半分陰に埋没した後ろのそれを見た。
「先に言っておきます。ありがとうバランタン、わたくしに名前をくださって」
囁くようにそれは言った。
「ずっと気になっていた。気に入ってくれただろうかと」
「とても気に入ったわ。これ以上ないくらい」
「クロード、愛していると言って欲しい」
バランタンは大きな手を差し伸べた。
「あいしているわ」
優雅に手を重ねながらクロードは愛を囁いた。
それだけでバランタンの心は蕩けそうになる。
「私は決してあなたの手を離さない」
領地を捨てて逃げなければならない時でも。
心の中でそう誓い、彼はその手に口付けた。
「人は忘れる生き物だわ。ねえきっとあなたはもう忘れている筈よ、わたくしがどこから来たか」
「覚えている。辺境伯爵の二番目の娘だった。そうだろう」
「ええそう」
バランタンはクロードの方を向いたまま、ゆっくりと階段を下へ下へとどこまでも下りてゆく。
一段下りる度に彼の持つクロードの記憶は崩れて消えた。
「あなたを家族から引き離し攫うようにしてここに連れてきた事はずっと後悔している。しかし私はあなたを初めて見たときに」
美しくありうべからざるものが言葉を継ぐ。
「恋に落ちた」
出口から漏れてくる日の光に照らされたそれは少し悲しそうに見えた。
「まさか……いいや。君は借金のかたのようなもの」
最後の階から脚を下ろした城主は表情を強張らせた。
彼は愛を表現する術を知らないのだ。劣悪な出自のせいで。
きっとこの娘もすぐに自分の前から消える。なら愛情を注ぐというような詩的な真似はすまい。
城主は酷薄そうな唇を引き結んだ。
無垢とは無縁の暗い瞳が鈍く輝く。
「しかし悲しむことはない、それが結婚というものだ」
城主はその妻を軽々と抱き上げると外の梯子に脚をかけ、追いすがる闇から身体を引きはがす。
不躾で不健康な日光に照らされた妻の白い肌には、荒く無計画につけられた所有痕が散らばっていた。
彼はそのあまりの生々しさに目を反らしてしまう。
「ありがとう、わたくしを迎えに来て下さって」
礼を言われる筋合いはなく、城主は益々その表情の険しさを深める。
一人で塔に登った妻を連れ戻しに行った城主は、なかなか身体を許さない彼女をこっぴどく犯そうとしたのだった。
新しい物を買ってやると申し出ても、頑として当てつけがましく脱ごうとしない古いドレスは思いっきり引き裂いてやった。
ところでその時彼女は泣き叫んだだろうか。はたと城主は思い至る。
されるがままだったような気がするが、やはりさすがに無理矢理ドレスを引き裂くのは悪かったような気もする。
そうした後悔が心に差し込んで、城主は心の中で舌打ちした。そういう性質の人間ではないはずなのに。父親譲りの残忍で冷酷で憂鬱で血を好む男のはずなのに。
そんな自分に礼をするなんて、と城主は妙な感覚に苛まれた。
「もう一人でこんな所に来るな」
弱々しい妻が一人であの急な階段を登るのかと思うと心配になってしまう。
「かつて頂の窓から人が落ちて死んだ。そいつに呪われてもいいなら行くがいい。実に残忍で血も涙もない狂った前大公の亡霊だ」
脅かして釘を刺すのなら、呪いだなんだと言わずに父親を殺した場所だと言ってしまえば、恐れおののいて近づかないだろうという事くらい想像に難くない。
「これからは一人では行きませんわ」
けれどそうしないのは城とその城主を恐れるあまりに、この新しい七番目の妻が逃げてしまうのが厭だからだった。
「あなたと一緒に行きます」
一抹の愛おしさを知った城主は、そんな臆病になった己に苛ついて奥歯を固く噛む。
初夜に行為を怖がる妻に情けをかけて、抱かずにわざと自分の指を切ってシーツなど汚してやらなければよかったのだ。思えばあれからずっとおかしい。
城主の肉壺が妖しく蠢く。
結局その晩に操を奪われたのは城主自身で、両性具有たる妻に朝までしかと陵辱されたのだ。
指から滴ったそれと肉壺から滴った血が混ざり合った初夜のシーツを家臣に検められるあの羞恥。
そして彼らは都中に公言したのだ。
奥方様は確かに公爵様となさるのが初めてであらせられました。
それ以来城主は妻を抱けないでいる。挑みかかっても押し倒されるのはいつも彼。
さっきもそうだ。抗えずになし崩し的に女にさせられてしまう。
忌まわしき場所でさえ、妻はそんな城主の記憶を雪ぐかのように淫らで、そして優しい行為をするのだ。
城主はその腕の中で嬰児のように青い外套に包まれている妻を、彼女の寝室の前で素っ気なく床に下ろした。
「新しいドレスを作らせよう」
「いいえ」
自分には物の価値が分からないから、と妻。
「私に娶られたからには君は公爵夫人だ。裸でいるわけにはいくまい。ここは楽園ではないのだ」
不安げに外套の襟元をかき合わせて妻は問う。
「楽園でないのならここはどこ」
「クロディアスブール、由緒正しき公国」
「よく知っています。わたくしよく知っているわ」
そう言って城主に愛おしげな眼差しを向けてくる妻の名は。
「君の名は確かに、何かを感じさせる。まるで」
「あなたの妻になるための名前のよう。この都市と運命を共にするかのよう」
城主はその名をこっそりと舌に乗せた。蕩けるような響きのそれを。
妻を失いたくないのなら、愛を育むしかない。それにはまず、自分から愛の証を示さなければならない。
「来い」
城主は奥方の間の扉を開けた。
窓にはゴブラン織りのカーテン。壁はタペストリーに包まれている。
妻の腰を抱いていざなうのは天蓋のついた堅牢な寝台。
城主はクロードを抱きしめたまま寝台に横たわると、その身を捧げて愛の吐息を漏らした。
「クロード、クロード、嗚呼……」
毎朝それは約束通り城主を優しく起こす。
肩に乗せられる冷たい手は程よい眠気覚ましだった。
新婚の頃の懐かしい夢から目覚めるなり、彼は今まで浸っていた夢を忘れる。
城主は目を開け、逆光の中でも美しく白く輝く奥方に手を伸ばした。
まるで塔の一番上から降り注ぐかのような、この上もない優しく美しい声でそれは言った。
「おはようバランタン」
冥婚 終