呪禍と幻想 - 2/3

 とうとう並走してきた赤い戦車に向けてセジェルは剣を投げ捨てた。投擲された剣は戦車と馬とを繋ぐ木軸をへし折る。速さばかりが自慢の馬車は四つの動力を散り散りに失い、あとは棄権か追いついた敵に討たれるか、それはセジェルの預かり知らぬ事。
 この短時間で戦車の数は大幅に減っていた。身一つの時は広いと感じる闘技場も四頭立ての戦車が詰め込まれればその限りではない。勝ちに逸り、無為に駆け出す戦車同士がぶつかり、倒れ、弾き飛ばされ、剣戟での血を見るまでもなく敗退者は増える。そして壊れた車体に突っ込んで戦闘不能になる者、行く手を阻まれ立ち往生する間に狩られる者がいる。
 しかしセジェルの乗る黒塗りの戦車は蛇のように障害物を避け、転回し、他の追随を許さない。すべてはルシャリオの玄妙なる操縦技術の成せる技。
「てめぇ! 馬ぁに手ェ出すとは何事だァぁお゛らぁああ゛!」
 しかしいかに有能といえ、これにだけは辟易とする。ルシャリオという男は、乗り物がある一定以上の速度に達すると耳も目も疑うほどに豹変する。穏やかな態度は消し飛んで、今や御者台に立つのは荒くれ者だ。
 ルシャリオが前方に差し出した盾には矢が一本深々と刺さっている。どうやら馬に当たりそうだった矢をそれで受け止めたようだった。動物に人道主義を発揮するのもこの男の珍妙な部分である。
 怒れる御者は手綱を離し、代わりに携えた槍で大地に竿刺し、それを軸に急旋回。その速度を借りて、並走していた怨敵に向き直る。
 左手に構えた盾が空気を押し出す轟音と、御者と闘士の面を連続で叩きのめす湿った音が響く。そして乗り手が全員沈黙した車体はゆったりと走り去る。
 ルシャリオは据わって血走った目で鬨の声をあげる。「やりましたぜ旦那ァ!」
 俺はお前の旦那ではない、とセジェルは心中で返しながら「少し出る」とだけ言い残して車体に足をかける。そして戦車が急旋回した勢いに乗じて大きく跳躍し、弓士を抱える一騎に飛び乗る。飛び道具は早めに潰すべきだ。動物愛護家がこれ以上の無茶をやらかす前に。
「そっ、そんなっ、ずるいだろ!」
 突然の無断乗車に慌てて剣を振りかぶりながら弓士は叫ぶ。戦車試合と銘打たれた闘技で自軍の戦車を捨ててくるなど、それではただの無秩序な喧嘩である。
「そうだな」だが品のよい戦いはもうやめたのだ。形振りかまわぬ乱闘でどこかの誰かを喜ばせるためではない。勝つために。ただそれだけ。
 セジェルは相手の剣筋を軽くいなして胸倉を掴むと車外に放り出す。そして一人残った御者に宣告する。
「降りろ」あまりの急展開に思考が間に合っていなさそうな御者に、セジェルは無情に畳み掛ける。「降ろしてやろうか」
 剣呑な顔つきの男にそこまで言われて自ら飛び降りない者はなく、つつがなく戦車はセジェルの物となる。
 セジェルとて軍人の端くれ、戦車の操縦は身に染み付いている。手綱を引き、馬を追い立てる。しかしルシャリオ程の技術はなく、剣や槍を携える余裕はない。しかし戦車それ自体が大いなる武器でもある。
 素早い転回で土埃を立てて相手を撹乱しながら逃げ切り、他の戦車にぶつけてゆく。見る間に残り少ない戦車の数が減る。
 闘技場の中心に陣取り次の獲物を定めようと見回すと、丁度ルシャリオが急旋回を駆使して己が車体を鉄鎚のように大胆に叩きつけ、大型戦車を横転させている所で、どうやらそれが最後の一騎だった。飛び散る戦車の装飾が光り輝いて美しい。
 今回ばかりはルシャリオが功労者だろう。戦車で戦うと決まった時からそうなる事は分かりきっていた。
 歓声が轟き、試合は決した。
「皆さん、レテラウス識字センターをどうぞよろしく。読み書きが皆さんを、ひいては国を支えます」
 立ち上がり、声高にそう宣言する男の顔立ちはその妹によく似ていた。そしてその偉丈夫は勝利の余韻も熱狂も何もかもを掻っ攫って行った。
 その熱狂の中にセジェルの探す人影はなかった。

 試合には圧勝したが、何故かセジェルの気持ちは晴れず、複雑さを残していた。
 一方のルシャリオはその反対で、解放感一杯に猫と戯れに向かった。比喩ではなく、本当に、ヴィットリアの猫と厩舎で遊んでいる所だろう。そのまま馬の手入れもしてそこで眠るのだ。
 ルシャリオの愉しみが動物と戯れる事ならばセジェルの気晴らしは鍛錬である。
 セジェルは一人訓練所の扉を開ける。
 薄暗い室内、細い窓から差し込む明かりの先にそれは立っていた。
 何故見に来なかったのか、と問い詰める言葉は飲み込まれる。
 いつもは大分飾り気ない装いだったのだと知る。その身体の細い部分のすべてに輝く宝飾品が巻き付いて、ささやかな月明かりを優美に反射させていた。
 疲れた表情は気怠げで年齢に見合わぬ艶がある。
「一等賞おめでとう」
 しかし男を見て微笑む顔にはいつもの華やかで快活な輝きが宿る。
「見てもいないくせに」
「将軍とルシャリオくんが揃って負けるわけない。でしょ」
 身動ぎする度に娘の纏う薄衣の裾がさらりと揺れる。それに魅了される男は多かろう。
「試合も見に来ず着飾って遊びまわっていたのか」お前が戦車試合を見たいと言うから……などという二の句は危うく飲み込む。
「お金を無利子で借りる条件として、お兄様の知り合いと会わなきゃならなかったの。わたしを前に見かけた時から気になっていたんですって。簡単なお見合いみたいなものかな」
 心中で溢したつもりだったセジェルの「なに」という声は案外大きく響いていた。
「だから、“見合い”。“試合い”じゃないからね。でも趣味は剣闘奴隷を戦わせる事って言ったら、そこから反応悪くなっちゃった。なんでだろう」
 なんでもなにも、剣闘奴隷を飼うような趣味の女は願い下げだったというだけだろう。
「お前の見た目に騙されて不幸になる男が一人減って重畳」
「それって、わたしが見た目だけはいいって言ってるようなものだってわかってる?」
 馴れ馴れしく近寄って、顎をぐいと持ち上げて見上げてくる顔には化粧が施されて、いつもの勝気な印象が薄れている。稚さはなりを潜めて、女の嫋やかさばかりが目立つ。
「らしくない」
 セジェルの呟きに、何が、と怪訝に秀麗な眉が寄る。
「少しも似合わない」
「嘘ばっかり。部屋に入ってきた時ちょっと見惚れていたくせに」
「驚いただけだ。服に着られているようにしか見えなくて」
 こう悪様に言われても金の多寡にしか興味のない娘には少しも響かないようだ。
「そう思うなら脱がせて」
「命令するのか」
「あなたがわたしの奴隷でないならその主張には一考の価値があるけれど」という娘の声は口紅を無造作に拭うセジェルの親指に揺さぶられる。
 セジェルはその歪んだ紅の端に唇を落とし、紅よりも赤く艶めく娘の唇を吸い付ける。
 セジェルがヴィットリアの衣服を剥きとるのと同時に、彼女もまた自身の宝飾品を無造作に毟り取って、きっちり結われた髪を解放する。薄い色合いの髪はなだらかな肩で跳ねて神秘的に揺らめき男を誘う。
「わたしらしくなった?」
 裸体を恥じるでもなく目を細め、薄く唇を開けて笑う表情は蠱惑的だ。本人にそのつもりはないのだろうが、だから見た目で勘違いされるのだ。
「そうだな」
 温かく小さな手がセジェルの手に絡んで、そのまま彼の背に周り抱きしめる。肌と肌が触れて、口惜しい事にひどく心地よい。見た目は麗しく清らかな生娘であるというのが、良くもあり悪くもある。
「じゃあ、わたし達らしい事しようか」
 ヴィットリアの頬の緩みにつられないよう、セジェルは努めて唇を引き締めた。

 この女の一糸纏わぬ姿も、本性も、すべて知っているのは己だけだろう。そしてまぐわいに際しての苛烈さを知るのも。そう思うと何故か胸がすく。そしてそんな心持ちになる自身に戸惑う。こんな風に特定の人物に対して執着じみた情動が揺れ動く事など今までなかった。精神を鉄の棺に閉じ込めて、ルシャリオの持つような、ともすれば弱さにもなる他者への共感と気遣いを封じて、ただ武と統率のための効率的な精神構造を保ってきた。
 だが最近その棺は錆び付いてきているようにも思える。どういうわけか。
「貴様がこんな下劣な事をできるのは俺にだけだぞ」
 セジェルは床に伏せた上半身を捩り、彼の尻に怒張を挟んで扱いて遊ぶヴィットリアを睨みつける。
「将軍閣下のおっしゃる通り」
 しかし革紐で後ろ手に縛り付けられての睥睨など大した威圧にもならない。それどころか虚勢と捉えられているようで舐めた態度もあらわであった。
 先の、わたし達らしい事しようか、からのヴィットリアの動きは早かった。ヴィットリアに抱きしめられながら背に持ってこられたセジェルの手首はあっと言う間もなく拘束されていた。確かにこういうやり方は品性下劣な守銭奴らしい。そして床にうつ伏せに転がされて、後ろから組み敷かれるという軍人にあるまじき最低なあしらいを受けているのだ。
「わかって、いる、のか……ッ」
 己の尻の狭間で力強さを増してゆく娘の陰茎が悍ましく、その凶悪さをまざまざと感じて言葉が掠れる。みちり、と捩れる革紐。
「わかってる。嫁入り前の娘がこんな破廉恥な事、自分の奴隷にしかできない」
「何が嫁入りだ、貰い手などなかろうよ」
「ある。見た目だけはいいってお墨付きをくれたでしょう。それで結婚したら旦那様とこういう事するの」
「女にこんな振る舞いを許す男がいると思って……」
 娘の細い指がセジェルの尻の穴に無遠慮に入り込み、腹側にある確固とした性感帯を押し潰す。
「っお!? お゛ぉ……っ」
 意識が抗いようもなく遠ざかり、気づいた時にはもう遅く、セジェルの精気はしっかりと抜けていた。床と腹が粘つく精汁でぬめる。ひどく不快だ。心も体も。その不快さ、惨めさが頑強かつ頑迷な精神を侵食する。
「いるでしょ、ここに」
「それを強いているのは貴様だろうッ」声は掠れて怒号にすらならない。
「強制してはいないわよ。あなたくらいの人なら、嫌なら簡単に逃げられるはず。でもそれをしないって事は、つまりそういう事なんでしょ」
 再び容赦なく打擲される泣き所。しなやかな指先が愉悦の源を弾くその瞬間、全身の肉が緊迫し硬く引き締まり、腹の中が一拍遅れてじわりと熱を持ち、掻き乱された神経が支離滅裂な情報を送り出す。即ち乱暴なまでの快感を。
「あ゛っ、あぁあッ、ふざけっ、っふ、お゛ォ゛ッ」
 情けなく歪んだ顔を床に擦り付け、そんな惨めな格好したくはないのに尻を高く突き上げてしまう。苦悶の動きではなく、肛虐を求める物欲しげなそれにしか見えなかった。勃起したままの肉棒からは壊れたように駄汁が噴き出し床に撒き散らされる。鼻につく自らの濃厚な雄の臭気。女の胎に注がれて孕ませるための体液が、女に使われる事なく散ってゆく呆気なさ。
「床を孕ませるの好きよね」
「黙れっ、このっ、小娘がぁ……」
 項垂れたセジェルの顔は憤怒と羞恥と快感が混ざり合い、ひどく堕落して艶めいていた。赤銅色の屈強な肉体も様々な感情の汗に濡れて仄暗い魅力を増す。しかしそれを彼自身は知らない。自分の色香が淫虐によって花開き人を誘う事も。
「いいところ押す度にお尻跳ねて、穴ぎゅうぎゅう締まって、汚く喘いで、戦っている時からは想像もできないくらいやらしくなっちゃってる」ヴィットリアは感嘆して続ける。「確かにこんなひどい事、将軍にしかできないかも」
 色々言い返したい事はあったが、セジェルは床を睥睨したまま決死の覚悟で一つだけ吐き出す。
「できない、ではなく……しない、と言え」
「なあにそれ」その声色だけでわかる。娘の秀麗な眉がきゅっと寄って、子生意気な顔に困惑と苦笑を湛えている事が。
 哀れかつての栄誉将軍は床に臥したまま悲痛な声を上げる。
「言え……ッ」
 もしそう言ってくれたのならば少しは薄れる気がした。この行き場のない窮屈な感情が。完全なる敗北感、あるいは独占欲。不可解な事に、自分の主人である品性下劣な守銭奴にしか感じない憤りと口惜しさと渇き、憂い。汚染された精神の慟哭。
「わかった、あなたにしかしない」
 それ以上の無駄な言葉は必要なく、セジェルは大きく柔軟に背を反らしてヴィットリアに口付けした。そこにはもはや逡巡すらない。
 背も首も思い切り反らしての接吻は肉と骨に苦痛をもたらすが、しかし精神においてはその限りではない。
 ヴィットリアの手がセジェルの顎を支えて接吻はより深く交わされ、滑らかに互いの唇が密に触れ合う。差し入れられた小さな舌が分厚い舌をなぞりあげ、流し込まれる清廉な唾液。それだけでひどく満たされる。
 嚥下と呼吸に蠕動する咽喉を猫にそうするように撫でられ、急所さえも易々と明け渡している事に気付く。
 精神の汚染は色濃くなり、完全に魂に染み付いていた。もはや洗い流す事など能わぬ完璧な隷属、従属。