大司教のいとも絢爛なる幸運 - 3/9

「それにしたってなんでいつもこうなんだ。あとちょっとという所で洒落にならん抵抗をされる。たまに余の好きなようにさせろよ。ああ! ままならん世の中だな!」
「こんなところでするなんて汚いじゃないですか、だめです」
 タベルナは焼き上がった方のパネトーネを箱に入れて戸棚にしまうと、台布巾を出して辺りの清掃に取り掛かった。どんなに料理に成通していようとも、完璧に汚れを防げるかというとそうでもない。
「余は多少小麦粉が身体に付いたって構わんぞ。そういうのもいい」
 大司教はニヤリと笑い、普通じゃない行為の様子を想像しているようだ。
「違います、厨房が汚れるからいやなんです。ここはわたしにとって神聖な場所です。猊下だってそうした場所、ありますでしょう。例えば礼拝堂だとか」
「いや、別に」大司教はさほども心を動かされた様子もない。「むしろ神聖だからこそそういう場所でいたしたいものだろう。じゃなきゃこの前のように鐘楼でなんかやらない。お前だって、信心深いふりして愉しんでいたんじゃあないのか」
 痛い所を突かれ、タベルナは胸を手で押さえた。信心深くないから信心深くあろうとしている、そう言われるとそうかもしれない。信仰心が厚ければ大司教となんて一緒にいないだろうし、出家しているはずだ。
「何を後悔している。済んだ事はもうどうにもならないから監獄と教会があるんだ。余の故郷には目も彩な大聖堂と心臓まで凍り付くような鉛の監獄というものがあってだな……」
「監獄と教会を同列に語らないでくださいよ」
「同じようなものだろう。まあお前は取り敢えずまた教会に来い。話を聞いてやろう」
「また懺悔室でわたしに変な事をするつもりでしょう。発禁図書のような。もう絶対あんな場所でなんかしません!」
「お前わかってないな、ロマンが。だからお前は青二才なんだ。いや、おぼこか? まあとにかくお前は駄目だ。ダメルナだ。今度からそう呼んでやるよ」
「猊下が何とおっしゃろうと、もうここや教会でそういう事はしません」
 大司教の子供じみた暴言にも煽られる事なく、タベルナはぴしゃりと言い放つ。
「じゃあどこでならするんだ!」
「やどりぎの下でならキスでもなんでもしますよ」
 タベルナは反射的にそう返す。自分でもどうしてそんな事を言ったのかはわからない。ただそういう時期だったから、としか言えない。そう、クリスマスが近いから。
「ああ! じゃあその言葉、よくよく覚えておけよ!」大司教の捨て台詞がクロスボウの矢のように勢いよくタベルナに飛ぶ。「死んで忘却の淵をさまよう時でもな! 早漏娘が!」
 そう言い放つと大司教は踵を返して地上階へと続く石造りの階段を靴音激しく登って行ってしまった。
「そ、そうろうじゃないですわたし……。今だってがまんしましたし……」
 石造りの階段には長く長く大司教の影が尾を引いていたが、タベルナのささやかな反抗の声はまったく届いていないようだった。

 

 たっぷり膨らんだドームに鈍く輝く包丁が突き立てられる。小気味のいい乾いた音と共にそれはきれいに真っ二つに分断された。
「うおお」
 ナイフ使いが感嘆の声をあげる。白い断面に散る昼間の星のように美しい果実たちがそうさせたのだ。
「こんないいもの食べていいの、ここに来た日以来だ」
 フォスターが慣れた手つきでケーキを人数分に切り分けながら喜ぶ。
 大司教邸に勤める料理人が皆経験する事なのだが、初めて仕事に就いた日には好きなだけ料理を食べてもいい事になっている。
 そうする事で味を覚える事と、足るを知る事ができる。そして一番の効用は盗み食いなんてする気が無くなるという事だ。おそらく大司教の最大の狙いはこれだろう。自分の卓に上るべき代物が一介の料理人の胃袋に収まるなんて、そんな事は許されないのだ。
 それでももし禁を犯した者がいたならば、怖れを知らぬ者だって震えあがる様な刑が待っているに違いない。大司教は領内においては法で秩序で君主な上に足るを知らないから、自分の気が済むまで下手人を好きなように甚振るだろう。
 等分に切り分けられたパネトーネをタベルナは手際よく蝋紙で包み、帰りしなの料理人たちに手渡していく。
「一年間お疲れ様でした。来年もよろしくお願いします」
 まずは最年長の料理人に。彼は五十がらみの熟練も熟練であったが、嫌な顔一つせずタベルナの下で副官として働いてくれる。本当に気分のいい料理人だった。
「ご家族でどうぞ」
 純白の切細工の施された紙の中にはケーキが五切れ。きっと今日は息子夫婦もやってくるだろう。
「珍しいものだよ、クリスマスどころか、年が明けるまで順に休みを取っていいなんて」
「猊下は寛大ですから」
「最近どういうわけかそうらしい」
 年嵩の料理人は嬉しそうに口角を上げ、やどりぎの飾りが吊るされた勝手口をくぐって家路についた。
 タベルナはそうやって順に料理人達を見送る。
 ふと手元を見れば残りの包は一つになっていた。
「フォスター、早く帰ったら」
 当たり前だが厨房の人影も一つで、それはタベルナの気の置けない同輩だった。さっきから箒を持ってみたり、干してある布巾の位置を微妙に整えてみたり、何かしらをしているふりをしているのはタベルナも目の端で捉えてはいた。
「タベルナは?」
「わたしはお皿を洗って、もう少し掃除をしてから帰る」
 パネトーネを載せていた五つの大皿は今や空っぽ。自分でもよくこんなに大きなものを沢山焼いたと思う。
「じゃあフォスターもそうする。二人でやる、早く片付く。ね」
「でも待っている人がいるんじゃないの。早く帰ってあげたほうがいいよ。数少ない休暇でしょう」
「いないいない! フォスターさあ、魚屋の娘と付き合ってたじゃん」
「いや、知らない」
「付き合ってたの。でもこの前ふられた。赤毛はやっぱタイプじゃないって」
「それは残念だったね」
「うん。だから今日は傷心のフォスターを慰める日だよー。タベルナはフォスターと夜の街に繰り出すんだあ。そして酒場をはしごするよー」
 と、わざとらしい片言で取り入ってくるフォスター。不自由な言葉で一生懸命喋る外国人にそうそう冷たくする人間はいない。だが最近はそれを知ってわざとやっていると周知されて、フォスターの魔術は効果を失いつつある。
「ええー。勝手に決めないでよ」
 誰に対しても物腰穏やかでいようと心掛けているタベルナでさえ、フォスターには雑な対応になってしまう。わざと片言で話すのをやめればその限りではないのだが。
「誰かと約束?」
 フォスターの目の底が好奇に鋭く光る。タベルナはその嘘を許さないような目から逃れようと窓の方へ顔を背けた。
 大司教と何かあるかと淡い期待を抱いてはいたが、しかしそう夢のようにうまくはいかないだろう。
 おそらく彼はこれから側近達と小金が移動するようなカード遊びでもしながら酒を嗜むのだ。そして夜半を過ぎてようやく寝室へ。寝室ではおそらく女があられもない姿で寝そべり彼を待っている。
 彼には数多の愛人がいるという話だ。きっと星を数えたほうが楽なくらいの人数。
 愛していると言われたような気もするが、彼が博愛主義者だとしたらその言葉の価値も暴落する。多分、おそらく、きっと、タベルナのその考えは間違っていないだろう。何せ彼は聖職者。汝隣人を愛せよとの教えがあるくらいだし、博愛主義なのは確定だ。姦淫してはならないのはシナイ山のふもとに居るものだけ。
「ううん、約束なんてないよ」
 タベルナは深々と降り積もる雪を見ながら言った。
 それに自分は昨夜彼を拒絶したのだ。今更都合の良い展開を期待してはいけないだろう。
「フォスター異国で一人、超心細い。タベルナも家族いま居ないって。ならちょうどいいねー」
「お誘いは嬉しいけど」タベルナは料理を載せる昇降機を目で辿り、厨房の天井を――食堂の床の裏側を仰いだ。「でもやっぱり行けない」
 大司教と共に居られないとしても、少しでも側に居たいと思ったのだ。
「なんでー」
 一方のフォスターは子供のように唇を尖らせた。
「猊下に急に何かこしらえろと言われるかもしれないでしょう。フォスターもここに居たらどう。そうしたらわたし話を聞くよ」
「や、ならいいや。ここにいたら大司教が料理作れって言ってきた時に働かなきゃいけなくなるし。それはやだ。帰るからパネトーネちょうだい」
「そう言うと思った」
 タベルナは呆れに笑いを漏らしながらフォスターにケーキの包を手渡した。
「おつかれさまでした。来年もよろしく」
 タベルナがそう言い終わるか終わらないかのうちに、フォスターは紙をその場で剥ぐと中身を一口頬ばった。
「ベネチア風だ。これ、初めてここで食べたブリオッシュよりおいしい」
「そう? ありがとう」
「うん、おいしー」
 そう言いながら、フォスターは何故か上体をタベルナの方へ傾けて顔を近づけてくる。
「わたしの顔に何かついている?」
「ううん。キスしようとおもった」
「なんで!?」
 タベルナは機敏な動作でフォスターから離れようとしたが、すでに薄い肩をがっちりと捕まえられてしまっていた。
「や、やめようかそういう事は」
 タベルナは引きつった顔で拒絶する。
「なんでえー」
「いやあ、だめでしょう」
「どしてえー」
「疲れてるんじゃない? 男どうしだよ」
 北海の島国から来たと自称する割に、この男が妙に好色だという事は知っていた。しかしまさか男にまで欲情するとは。
「タベルナほんとに男? そう見えないし、フォスターいま傷心だし、女の子みたいな顔してればもう何でもいい。女の顔した化けネズミでもいい。それにほら」フォスターはタベルナの頭上、勝手口の上を指差す。「やどりぎの下では誰にキスしてもいいって決まりだよー。だから男にしたって別にいいはず! 神様怒らない。ほれ抵抗するなー」
 何を血迷ったか迫ってくるフォスターの顔を反らせようと、タベルナは上体の回転を利用しながら勢いをつけて手を付き上げた。
「だからやめてって言ってるでしょ!」
 パン生地を捏ねて鍛えたその掌底は運良くフォスターの顎を捉え、慣性の力を借りて会心の一撃と化した。