大司教のいとも絢爛なる幸運 - 4/9

「へぶ」
 一瞬ばね仕掛けの人形のように後ろに仰け反ったフォスターは勢いよく背中から床にくずおれた。もうあと数インチ後ろに倒れていたら頭が食器棚の角にぶち当たってフォンダンショコラになっていただろう。
「いだいー! タベルナ格闘技でもやってんの? ギリシャの赤い風? 暴力はんたいー」
 フォスターは床に伸びたままの体勢で目の周りを真っ赤にしてタベルナを糾弾する。
「やった事ありません。これに懲りたら男に言い寄るのはやめるように。本当の格闘家だったらこれじゃあ済まない。それにフォスターなら本物の女の子の一人や二人、すぐやどりぎの下まで誘き寄せられるはず。がんばれ!」
 そしてタベルナは勝手口を開けると襟首をつかんでフォスターを外につまみだした。
「言われてみればその通り! よく気づかせてくれた。手近なもので済ませたってむなしいだけだもんねー。またねータベルナ」
 暴力的に雑に追い出されたのにも関わらず、フォスターはそう快活に笑いながら厨房を後にした。
 夜空から落ちてくる雪はすぐさまフォスターの足跡を消し去り、辺りの幽かな音さえも漏らさず吸い取ってゆく。タベルナはフォスターの背が闇に溶けてしまうまでそれを見送ると、勝手口の扉を閉めた。穏やかな風がやどりぎの飾りを揺らし、葉がそよぐ。
 火の消えた薄暗い厨房に一人残されたタベルナはやっと訪れた清らかな静けさに背中を預けながら頭上の飾りを見上げた。
 小鳥の羽根のような葉を蓄えた枝の一本一本を束ねるリボンは赤い天鵞絨で、それを見ていると聖職者の法衣を思い出してしまう。そしてそれをいつもゆったりと身にまとっている人物の事までも。
 皆が皆、家族と過ごす日だからこそ一人は寂しい。タベルナはフォスターのように女の子を引っ掛ける趣味も手管もない。それに別に女の子が好きなわけでもない。愛しているのは、そしてこんな夜を共に暖かな気持ちで過ごしたいのは、この世でたった一人だけ。
 こんなに切なくなるならさっさと教会に行って蝋燭でも灯した方がずっと実りある時間を過ごせるのではないだろうか。
 だがタベルナの信心の源は今のところとりあえずこの邸宅にある。それが不在である場所で祈りを捧げるのも嘘っぽい。
 あのベルベッドの手触りのように耳に心地よい声色で行われる説教が、十重二十重に錯綜した繊維をまとめて織り上げるようなあの歌声が、タベルナに心からの祈りの気持ちをもたらすのだ。
 彼の存在こそが、彼を創り給うた神聖な何かの御技が確かにあるという証明だとタベルナは思う。
 あれでもう少し彼が職務に熱心なら、そしてその魅力を自分の刹那の欲求を満たす以外にも使う気になったのなら、濡れ手にあわなどという表現では生易しいほどに敬虔な信者が増えるだろうに。そう、例えるなら入れ食いだ。彼は人を釣る。
「オクタビウスさま」
 タベルナは小さな吐息を漏らした。それは尊大で傲岸不遜な男の名だったが、タベルナにとっては実に神聖なものだった。
 吐息に神聖な名が宿ったところでタベルナは仕事に戻ろうと――したがその唇は何者かによって奪われていた。
 相手はタベルナの身体をすっぽり覆い隠せるほどの大男。触れた服の手触りはよく知ったもの。そしてタベルナのブランデー色の髪をくしゃくしゃに乱す手はいつもと変わらず温かい。手が冷たい人は心が温かいと言うが、では逆は。いや、そんな事どうだっていい。たとえ冷血漢だとしても、何億何兆もの女と寝ていようと、今ここに居てくれさえすれば。本当に、彼は釣りが上手い。
 接吻を終えた大司教はタベルナの頬に手をあて、冴えた悪戯を閃いた悪童のようににやっと笑った。
「さて料理長よ、余とキスでもするか?」
 もうしたじゃないか、という言葉は感極まって喉の奥へと落ちた。喜びと狼狽がタベルナの心に去来する。
「えっと、何かお食べになりたくていらしたんですか」
 実に間の抜けた質問であったが、自分のために来てくれたと大司教の方から言ってはくれないだろうかという小賢しい企みもあった。
「余は冬眠前の熊ではない。いつでも腹を空かして徘徊していると思うなよ」
 心外だというように大司教はタベルナを睨みつけた。
「ではどうしてここに」
「やどりぎがあるからだ。お前言っただろ、やどりぎの下でならキスでも何でもすると。余はお前に”キス”と”なんでも”とやらをしてもらいに来たんだ。意味わかるな?」
 大司教は腕を組み、タベルナを見下ろした。その顔に再び悪童の笑みが宿る。
「さては猊下、酔っていらっしゃいますね」
 タベルナは熱っぽい息を吐く赤らんだ顔の大司教に対して肩をすくめる事で呆れと拒否を表した。
 今夜は誰も彼も浮かれて妙な事をしようとする。一年の締めくくりとも言える日なのに、タベルナに絡む者達には信仰心の芽すらない。呑んだり打ったり買ったりする事ばかり。
 タベルナは大司教が求めるような事をしたくて彼を想っていたわけではないのに。
 まあキス……くらいならいいかもしれないが、”なんでも”というのはちょっと遠慮したい。それも性質の悪い酔っ払いとは。
「酔ってない」
 大司教は謂れなき誹謗とでも言いたげに唇を尖らせる。まるで子供のようで、タベルナはその振る舞いにほだされそうになるがそれをぐっと堪えた。
「酔っていないという人は大抵酔っているんです」
「ああそうだよ、料理長殿の言う通り!」
 大司教は懐から取り出したスキットルを咥えて酒を煽った。
「なら暖かいお部屋に戻られては。凍死してしまいますよ」
「やだ。今夜お前は余と”何でも”する運命なんだ」
 大司教はまた酒を口に含むと、嚥下する前にタベルナを引き寄せた。
 再び落とされた爆撃は威力も精密さにおいても十二分なものだった。
 タベルナの柔らかな幼ささえ感じさせる唇は大司教の唇に割り開かれ、侵入してきた生温かな舌を伝ってアルコールが流れ込んでくる。後ろ頭をがっちりと押さえられていては吐き出す事もできず、タベルナはそれを飲み込むしかなかった。
 口内と喉の敏感な粘膜を焼き尽くしながらアルコールが胃に落ちる。すると頭の奥が爆発するように熱くなる。タベルナはそんなに酒に強くはなかった。
「んふぅ、んー」
 漏れる声はすでに酒に溺れ、色づいていた。
 タベルナの舌に肉厚のそれが吸い付いて来て、口に残ったアルコールを塗りつけるように絡みつく。
 その動きの淫らな事といったらない。その行為と酒の効果が相まって、タベルナの身体が発火したように熱を持ち、下腹部をもどかしくさせる。
 両の腿をすり合わせれば、半ば出来上がった男根が震えた。その奥の女の部分も熱くなり、感じ始めるのも時間の問題。
 そうした原始的な欲求の前では静謐な信仰心も消え失せる。大司教そのものを求めてしまうのだ。
 タベルナはおずおずと自分からも舌を絡ませ返した。舌が相手のそれに触れる度に腰が痺れ、緩やかに踊る。
 タベルナが行き場のないもどかしさを持て余している事がわかったのか、大司教がタベルナの細い腰に腕を巻きつけ、互いの身体を密着させた。そしてタベルナの股の間に彼の大腿が差し入れられる。
 タベルナはたまらず貪るように腰を前後にひくひくと動かしてしまう。自分から怒張しかけた肉竿と濡れた秘芯を大司教のがっしりとした腿に沿わせて蹂躙させる。
 薄い身体が円熟した炎のようにねっとりと揺れ動き、二元性を孕んだ肉体が女の側へと傾く。先走りの液体と愛液が混ざりあい、くちゅくちゅといやらしい音が股間から漏れ出す。
 そのはしたない行為に大司教が嘲笑うかのような密やかな吐息を漏らす。そろそろ息が切れてもいい頃合いだというのに、その接吻はいつ果てるともしれない。
 さすが頌歌に長けるだけあってか大司教の方は息が長い。執拗な口付けにタベルナの息が詰まるが、それさえも心地よい。大司教の吐いた息ならばたとえ空気を汚染する物質であったとしてもタベルナにとっては清いものだった。
 うっすら開いた瞳は酔いの涙にぼやけ、見えるのはやどりぎの飾りだけ。タベルナはうっとりと両腕を大司教の背に回した。広い背は天鵞絨の手触りで、柔らかく暖かい。
「これでお前も酔っ払いだな」大司教は最後にタベルナのふっくらした唇を舌でなぞった。「そうだろう?」
 耳元で囁いてくる甘い声色にタベルナは溜息をついた。呆れのためのそれではなく、感嘆と喜びと諦観の。
「酔ってません、わたしはまだ……」
 腰が張り詰めて苦しいだけだ。そのせいで理性が薄れかけているのであって、酒のせいではない。
「そう言う奴は酔ってると相場が決まっているんだろう。ここもこんなにして」
 大司教がタベルナの股間に手を近づけ、触れるか触れないかで撫でつける。
「や、んああっ」
 たったそれだけで限界まで欲望の溜まりきっていたタベルナの膨らみは暴発した。
「ふあっ、ああぁ……っ」
 服の中でびちゃびちゃと肉棒が若く青臭い精液をだらしなく垂らす。
 突き抜けるような快感にタベルナは仰け反りながら絶頂の喘ぎを漏らした。背と腰の骨の髄から迸るかのような射精は全身の筋肉を一瞬にして硬直させ、そして用が済むと一瞬にして弛緩させた。
そのまま後ろに倒れそうになったタベルナの背が大司教の腕によって抱き留められる。
「これだからやりたい盛りの餓鬼は。堪えるってものを知らない」
 そう詰られようと、タベルナは絶頂の疲労に大司教にしなだれかかるしかない。
「ひどい……」
「何がひどいって。ひどいのはお前の早さだ。この早漏が」
 大司教はぐったりしているタベルナを床に押し倒す。手心など加えてくれるつもりはないらしい。
「あ、あ、だめ、です。ここではしないって言いました、よね」
 タベルナは涙目で大司教を見上げるが、そんなものは大司教にとっては食事の味わいをより引き出すためのアントルメの役割しか果たさない。
「見えないのか、やどりぎの下だぞ。何でもするとお前は言ったではないか。いいか、今日こそお前を余の下でひいひい言わせてやる!」
 宣戦布告と共に見下ろされ、タベルナは本当に「ひい」と小さな悲鳴をあげた。
 タベルナの服は大司教の手によって容易く剥かれてしまう。そして胸の膨らみが目立たないように巻かれた布を引きちぎられる。