「ああ、寒い、寒い。こんな時にはモルドワインだ。な!」
と、わざとらしく騒ぎ立てながら大司教が温かな瓶から直接ワインを喉に流し込む。その口の中にはオレンジピールが既に詰めこまれている。どうやら舌の上で混ざって同じ味になれば形などどうでも良いという事らしい。
「もっと綺麗に呑んで欲しいです。嗜むように」
これでは折角丁寧に刻んだ素材も、入念に温めたワインも浮かばれない。
ただ、寒いというなら酒を鯨のように飲むのも分からないでもない。お互い半裸のまましばらく眠ってしまったから、今はとても身体が冷えている。
「いつもはする。いけ好かない奴の前ではな。まあ余へのささやかなプレゼントだと思って黙っていろよ」
「プレゼントなら、他にちゃんとあります……ありました」
「なんだ?」
大司教はニヤリといやらしく笑う。相手が思った以上に自分を想っているという勝利の味を噛み締め味わうかのように。
「パネトーネです。ですが故郷を思い出してお嫌だとうかがったのでお渡しできませんでした。まだ代わりの物を用意できてはいないんです」
「なんだ」同じ言葉ではあるが、それは先程とは異なる意味合いだった。「あれがそうだったのか」
「ええそうなんです。でも他の物にします。何がいいでしょう」
「直接聞くなんて、ダメルナ、お前はやはりロマンというものがわかってない! いいんだよパネトーネでも。中身が分かっていないうちは最上の贈り物だ」
「でも開けたらがっかりなさるでしょう。そしてわたしを貶します、きっと」
「そりゃあ貶すさ。貶すね。貶すのは余の仕事で貶されるのはお前の運命だ。それにパネトーネが嫌いとは一言も言っていない。パネトーネから思い起こされる物が好かんというだけで。だからお前のは謹んで貰ってやろうではないか。まあ、お前の水兵と同じプレゼントというのはいささか気に食わんが、余は寛大だからな、料理長に二度手間はかけん」
「そうですか、なら」
戸棚にしまいっぱなしだった青い大きな包を取り出そうと背伸びするタベルナに、後ろから大司教の声が覆いかぶさる。
「まあ悪かったよ、あんな事を言って。金のこともな。他人の為に作っていると言われていい気がしなかった。当たり前だろう、厨房だけじゃない、お前も余のものだ」
「そうですね。わたし、あなたのものです」
後ろから回された腕に手を乗せ、タベルナは呟く。
「これからお前の大好きな教会にでも行くか。拝んでいい気分になるのもたまに悪くはないだろ。おかしいな、今は何故かそう思う。疲れてるのかもしらん」
「行かなくても、わたし大丈夫です。猊下がいて下さるなら、ここも教会と一緒です。わたしあなたの中に神聖なものを感じるんです。神様があなたを作り給うたと思うから」
「薄汚い方法で清い道を渡り歩いてきた男がお前の信心を引き出すのか。おかしなやつ。自慰の依代と言われた方がずっとまともで健全だ」
「ええ、わたしはきっと不健全です。猊下は悪魔のような方ですから、そんな人を神様がお作りになられたと思うなんて」
「悪魔だと、褒め言葉にしておいてやる」
タベルナの言葉を受けて大司教はやはり悪魔のように唇を裂いて笑った。そしてその鋭い鉤爪で受け取ったパネトーネの包装を引き裂いた。
「は、忌々しくも懐かしい香り」
大司教はそう言うが、タベルナにとっては幸せの香りだった。かつて確かに手にしていた幸せの象徴を思い出す。故郷だとか、家族だとか。その点においては大司教とは逆の感性を持っていた。
大司教はナイフ立てから一番鋭い一本を取り出すと、外科医のように手慣れた所作でパネトーネを分解し、その塊を頬張る。
「お味はいかがです」
頑健な顎を咀嚼に動かしながら大司教は厳かに頷いた。こう口数少ない時は大抵十二分に満足している時なのだ。よかった、とタベルナは胸を撫で下ろす。
嚥下を終えた大司教がやっと口を開く。
「さすが余の料理長。これにまつわるなべての胸の悪くなるような思い出、それがすべてお前の小さな胸の思い出に塗り換えられた」
どうしてそうなる。タベルナは胸に手を置いたままがくっと肩を落とした。しかし落ち込む暇はない。こうして大司教と一緒にいるからには。
「そうだ料理長、余はもっとしょっぱいものも食べたい。オムレツを」
「え、今ですか」
「この甘ったるいケーキを平らげるには箸休めが必要だ」
そう大司教に乞われれば従わない訳にはいかない。
別に今全部食べなくてもいいのに、と思いつつもタベルナは勝手口近くに置いてある木箱から卵を一つ選び出す。
「料理長、余もお前に贈り物をやる」
什器棚から取り出したボウルに卵を打ち付けんとするタベルナに大司教が言う。
「なんです」
タベルナは期待に鼓動を弾ませながらもボウルの縁に卵を軽く叩きつけた。
「開ける前に聞くのは野暮だ。ロマンを愉しめ」
包みも貰ってないのに。そう疑問を抱きながら白い殻の亀裂に両の親指を添える。
「タベルナ、お前の一年分の幸せは確約された」
くしゃ、という卵の割れる小気味のいい音と共に投げつけられた言葉の意味はすぐにわかった。
「双子!」
鈍く光る銀の夜空に二つの月が昇る。
「どうだ、余の贈り物は」
クリスマスの日に双子卵に巡り合えば一年幸せに過ごせる。そんな言い伝えがある。すでに時間は夜中の十二時を回り、イブの夜は終わっている。今はもう二十五日。
つまり大司教は「お前の欲しがっていた幸せだ」それをくれたらしい。
「猊下、オクタビウスさま、嬉しいです」
「だろうな。顔を見ればわかる」
大司教は得意げに顎をあげ、再びパネトーネを口に入れた。
「どうやって双子の卵を割らずに見分けたんです」
「悪魔の神通力でな。というのは冗談で実は……」
言葉の最後まで待たずにタベルナは思わず大司教の唇を啄んだ。
それ以上聞く必要はない。素人目にはわからないが、熟練の物には外から見ただけでどれが双子卵か分かると聞いた事がある。そして大司教が養鶏場の老人に無理言って双子卵を一ケース分かき集めさせた事くらい想像に難くない。
「わたし幸せです」
タベルナは大司教の膝の上に座し、その大きな身体を抱き寄せた。
「そりゃあそうだ。双子卵が出れば幸せになるんだもんな。余が手で掴める範囲の幸せはこれだけだった。ちっぽけな卵と、迷信程度の幸福」
「オクタビウスさまがわたしのためにここまでしてくださったから、幸せなんです。この上もなく」
「じゃあつまり、余は手で掴めたというわけだ、実体のない卵一つ分以上の……なんというか、幸せを」
「オクタビウス様のおっしゃった通り、わたしの幸せは確約されたんです」
タベルナはもう一度大司教の唇を深く吸った。
幸運を一口噛みしめてからタベルナは気付く。幸運は確約された。そう、悪魔によって。
つまり悪魔と契約したという事になるのだろうか。まあ、すでに見返りなく魂と信仰心を捧げているのだ。そろそろその報いがあってもいい。釣った魚が飢える前に、餌をくれたって。
「おい、ところで余のオムレツは。お前本当、釣った魚に餌をやらんのだな」
タベルナは悪魔の命令に立ち上がるしかなかった。
幸運の対価は、そう、魂と服従。あるいは、ただより高いものはない、とも言うかもしれない。
大司教のいとも絢爛なる幸運 終