高い高い伽藍に清廉な讃美歌がこだまする。低い声高い声、百を超えるそれらがまるでタペストリーのように折り重なって、重厚だがそれでいて天井まで突き抜けてしまいそうな清らかな響きとなっていた。その中には一等よく響く低音があって、それはすべての経糸と緯糸を統制する杼なのだ。そしてその杼を操っている人物こそが、天に献上する織物を造り出す職人のようであった。
天の声のように頭上から降りてくるその杼を追って天を見上げると、淡い色使いの雲が湧いていて、その合間から天使やら黄金の馬車やらがタベルナを見下ろしていた。実に芸術的な天井画であった。
そしてそのまま声にいざなわれるように光差す東の祭壇へ顔を向けると、ばら窓の下で柔らかな光を浴びながら堂々とその声を響かせている一人の男と目があった。恐らく相手はずっとタベルナを見ていたのであろう。
祭壇はタベルナのいる場所からはずっとずっと離れた場所にあったが、タベルナは男がどんな顔をしているか容易に想像がついた。きっとタベルナが予想通り自分を見た事に気づいて、馬鹿にしたように笑っているのだ。
タベルナはグリドルに突っ込んだアーモンドが発火したかのように赤面し、うっ、と顔を地面に向けた。
「具合悪いかな、タベルナ」
隣にいた長身の男がこっそりとタベルナに耳打ちした。燃えるような赤毛の、目の覚めるような偉丈夫だった。
「ううん」
「だよねー。礼拝堂は恋人と目配せする場所じゃないねー。フォスター見てたよー」
フォスターは外国訛りの怪しい言葉でタベルナを冷やかした。
「誰、相手は。きっと前のほうにいる貴族だよねー」
「当たらずとも遠から……いや違うってば」
タベルナと同じ時期に職についた同輩なのだが、フォスターは今や料理長であるタベルナの下で働くという歪な状態に置かれている。しかし何事も深く考えず、そんなに熱くならず、適当に熟すのが信条の彼にとってはそんな事は些細な事であるようだった。
それにフォスターが料理人を目指したのだって、ただ女の子にモテたいからという噴飯ものの理由だ。地位や名誉云々というのは彼の世界では重要ではないのだろう。
しかしこう適当とはいえ、彼はタベルナの料理の腕を認めて評価している節もあるようだし、この気の置けない青年の腕もタベルナと同じくらい確かだ。特にそのナイフの扱いには目を瞠るものがあり、タベルナが料理長として働くのには必要不可欠な人物であった。
それになんだかんだ適当な事を言いつつも、先の無茶な饗宴の開催命令を聞いても自国に逃亡せずにタベルナに手を貸してくれた事を鑑みるに、実は責任感だとか秘めたる情熱だとか譲れない物だとかはきっとあるのだろう、とタベルナは勝手に思っていた。
ただ以前、タベルナが彼にどうして逃げなかったのかと聞いた時のフォスターの答えは酷いものだった。
言葉が分からなくて逃げそびれた。いつもの片言はどこへやら、真に迫った青ざめた顔で彼は確かにそう言ったのだ。だから本当の所、責任感だとか秘めたる情熱だとかの存在も疑わしい部分はある。
「あー、もしかして子爵夫人かなー。彼女見てたよー超見てたよー。いや違う、あれはフォスターを見てたっ!」
「だから、静かにしてってばっ」
タベルナはそれだけ言うと、もう話は聞きませんと態度で示す為に前を見据えて讃美歌を歌った。けれども間違っても祭壇の方を視界に入れないように、焦点をずらして。未だ男がタベルナをじっと見つめて傲岸不遜な笑いを浮かべている気配を感じていたからだった。
一方もう一つの差し迫った危機である隣のフォスターをこっそり横目で伺えば、彼もきちんと前を向いて適当に讃美歌を歌っているふりをしていた。
ふう、とタベルナが安心の吐息を吐いた時だった。
「フォスター、タベルナがどこ見てたか知ってるよ。ウェーバー大司教だねえ」
前を向いたまま放たれたフォスターの捨て台詞は、タベルナの羞恥心をすべて引きずり出して滅茶苦茶に蹂躙していったのだった。
礼拝が終わり、大挙して出口に向かう人々に混ざってタベルナが帰路に就こうとすると、フォスターがニヤニヤ顔でタベルナの顔を覗き込んできた。
「アレー、怒ってるかな、タベルナ怒ってるかな??」
「怒ってない。呆れただけだよ。あなたの考えにね。わたし別に猊下を見ていたわけではないからね」
タベルナは早口でフォスターに釘を刺した。
「あ、はーい、わかりましたー。じゃ、後で次の饗宴のキュイジーヌを試食しようねえ」
さすが適当の二つ名は伊達でなく、フォスターはタベルナの言葉をはいはいと聞き流し颯爽といくつもの椅子を飛び越えて礼拝堂を後にした。人ごみの中に見知った誰かの影を見つけたのかもしれない。
タベルナは最後にもう一度だけ祭壇を見た。そしてそこにもう大司教の影が無い事を知るや、ほっとするやらがっかりするやら、妙な気分になるのだった。
大饗宴の最後の晩以来、タベルナは大司教と出くわすや気まずい気分に支配され、必要以外の会話がままならなかった。姿を見るや顔からコークスをぶち込んだ竈のように火が出て、けれど喉はワインセラーのように冷えて、そして舌と頭は毒でも舐めたかのように痺れてしまう。心臓は俎上で暴れる獲れたての魚だった。
あの甘い事後の会話は夜明けの高揚感のなせるものだったのだ。今はまともに顔さえ見られないし、声を聞いただけで卒倒しそうになる。
昨日なんて大司教に背後から突然声をかけられたせいで、驚いて果物ナイフでオレンジごと親指を切ってしまった。大したことのない怪我であったが、こうして気にするとやっぱりまだ傷が少し痛んだ。
そんなこんなのせいで思考力も格段に鈍り、来週に迫った饗宴の準備もまだままならないのだ。夜もあまり眠れない。かといって調理台に向かっても、芋づる式に考えてしまうのは大司教の事ばかりだった。
まともな仕事にならない事は本当に困りもので、ならば大司教に思い切って会ってみようと決断して今日の礼拝に臨んだのであったが、やはり遠くからとはいえ本人を目にしてはその命がけの決断も情けなく鈍るのであった。
もうだめだ、と、タベルナが胸元に手を当て、肩を落としてとぼとぼ礼拝堂から出ようとした時の事だった。
突如腕を何者かに掴まれ、タベルナは狭くて暗い小部屋に連れ込まれた。ぼんやりしていたせいで、声をあげる間もなく容易く引き入れられてしまったのだ。
しかし慌てて暴れ出そうとする前に、よく知った香りと温かさに包まれる。目の前には緋色の法衣と十字架。
「ずっと余を見ていたな」
その声は今まで聞いたどの声よりも低く美しく、タベルナはうっとりとそのまま身体を預けてしまいそうになる。
けれど。
「ふはは、やっぱりお前余が好きなんだ! お前は余に負けたな。恋は多く愛した方が負けなんだ」
そんな幻滅するような台詞に、やっとタベルナは正気を取り戻した。
「ややややですっ、やめてください猊下っ」
腕の中でじたばたするタベルナを思いっきり押さえつけ、大司教は抑えた声で恫喝する。
「お前は陸に打ち上げられた魚か! ちょっと落ち着け。懺悔室が壊れるだろうが。そしたらお前弁償するの? できるの?」
タベルナは仕方なく一度ぐったりと身体の力を抜き、大司教の胸にすべて委ねた。
「おお、やっと従順になったか。感心感心。それでこそ余の……」
そして気を抜いた大司教の腕の拘束が弱まった所で、思いっきり厚い胸板を押して支配下から逃れた。
「はあ、はあ、だからやめてくださいってば!」
立ち上がったタベルナは肩で息をしながらなるべく抑えた声で叫んだ。
「お前やっぱり料理だけでなく格闘技の心得が?」
懺悔室の椅子に情けなく転がった大司教が憮然とした表情でタベルナを見上げた。
「いいえ」
「礼拝の間ずっと余の事を見ていたよな」
「いいえ」
「昨日の指の怪我は余のせいだな」
「いいえ」
「格闘技の心得が?」
「いいえ」
「余の事嫌いだよな」
「いいえ! ……うぐ」
「やった! 勝った! 嫌いでないという事は好きなんだろう!」
鬨の声をあげて飛び起きた大司教はタベルナにずいっと迫った。
「嫌いの反対は決して好きでは……」
タベルナは顔を青ざめさせて後ずさるが、狭い懺悔室は半歩足を下げただけでもう壁である。
ああ、貞操の危機が、とタベルナは涙目で顔を背けた。
「嫌いでないならそれでいい。まあ座れ」
だが大司教はタベルナの予想を裏切って、いつもの悪魔的なせせら笑いも、怒りに満ちた薄ら笑いも浮かべず、割と穏やかな表情でタベルナにそう促した。
「はい」
タベルナは毒気を抜かれて言われるままに椅子にすとんと腰を下ろした。その隣に大司教も静かに腰かけた。
「勝ち負けに拘る時点で余は負けているのかもしらん」
そしてぽつりと呟いた。
そんな大司教の横顔が少し悲しそうに見えて、タベルナは少し切なくなる。
「愛する事に勝ち負けはありませんよ」
「愛情にはないだろうが、いや果たして恋愛にはある。でなきゃどうして余はこんなに苦しみに苛まれるんだ。そしてなぜお前は余を避けるんだ。その上次の饗宴のメニューすら見せてもらっていないんだが。もうね、いい加減にしろ! 仕事しろ!」
そこで大司教はタベルナを睨み付けた。
「あの夜はなんだったんだ、遊びか! 聖職者で遊んだのか! 地獄に落ちるぞ! 磨いたばっかりの聖堂の床で滑って転んで頭打って、ああ、死んだ、と思ったけど奇跡的になんともなくて安心して起き上がろうとした所で上から落ちてきたシャンデリアに潰されてイタイイタイって唸りながら緩慢に死ぬぞ!」
遊びだなんだって、それ以前に聖職者が暴虐で好色ってどうなの、とタベルナはふと思ったが、それについては一旦おいておいた。
「だ、だってあの夜はわたし捨て身でしたもの。だから猊下を、あの、あれしてしまいました。けれど今思うに畏れ多くて、あなたを見るだに取り乱してしまいそうになるんです」
だから猊下に合わせる顔がありません。とタベルナは胸を押さえて顔を真っ赤にして俯いた。