その小さな重みになんども唇を軽く啄まれ、ドゥーベ氏は薄く眼を開けた。
「たくさん出してしまいました」
ドゥーベ氏は腹の中で凝っているそれを感じながら嘆息した。
「知っている。いつもの事だろうに」
「今わたくしとっても満足して……ふわ」
イザドラが唇に手を当て、小さく欠伸を漏らした。
「眠いのかね」
「ええ、ずっとよく眠れなくて。だって、あなたが恋しくて恋しくて、夜も昼も目が冴えるのですもの」
ぼやけた声でイザドラが訴えた。
「私もだ」
ドゥーベ氏は重たい身体を起こし、イザドラの手を優しく引き、隣室へ誘った。
豪華ではないが過ごしやすそうな部屋の中で、お互いに服を脱ぎ、寝台に横たわる。
「おうちのベッドよりも小さいわ」
ドゥーベ氏の大きな身体の上に寝そべったイザドラが言った。
「仕方あるまい。女を連れ込む部屋ではないんだ」
「女じゃありません、妻です。それに、不満を言ったわけではありませんの。なんだかこういうのも楽しいと思ったのです。道ならぬ逢瀬のようよ」
イザドラはドゥーベ氏の首元でふふふ、と笑った。イザドラの小さな胸が、彼の厚い胸板に押し付けられ、とろりと流れる。
お互いの素肌が密着する感覚に、ドゥーベ氏は満たされるような法悦を覚えた。肉の交わりで感じるそれよりも、彼はこちらの方が好きだった。
「少し寝たらどうかね」
「ブリュノさんもここにいてくださるの」
「ああ」
期待を滲ませた笑顔で聞かれると、否定などできない。
「でも、お仕事はいいんですの」
「いい。今のところは」
「ブリュノさんがお仕事しなくても、警察のお仕事は滞りませんの。なら警視総監もあまり大したことありませんのね」
では一日中お淫らしても大丈夫ですのね、とイザドラは小さく呟いた。
「と、滞るぞ、大いにな! 警察の全職務は私にかかっているのだよ」
誰のためにここにいると思っているんだ、とドゥーベ氏は眉を顰めた。
尖らせたドゥーベ氏の唇に、イザドラの微笑の吐息が被さる。
「ではあなたがいなくなったらこの国は終わりね。略奪と暴行が横行して、悪徳が栄えるのね。警視総監が小娘に密室で監禁凌辱されて喘いでいる間に、国王殿下が貴族を殺して、貴族が農民を殺して、農民が国王を殺すのね」
イザドラが、その細い腰に巻きついたドゥーベ氏の腕を抑制し、寝台に縫いとめた。
その冴え冴えとした畏怖の念さえ覚えてしまうような美しさに、ドゥーベ氏は目を見開いた。思わず生唾を飲み込んでしまう。
「イザドラ」
「でもそんな事どうでもいいわ、本当にどうでもいい。わたくしあなた以外に興味ないの。他は好きでも嫌いでもないの。お淫らな事に耽っている間に、外の世界が滅びて人の世が終わっても、別にいいわ。というより、そうだったらいいのに」
そうしたら、二人だけの世界よ、とイザドラは妖しく微笑んだ。
確かに、この世にイザドラと二人きりだったなら、どれだけいいだろう。煩雑な仕事もなく、明日の事も考えず、好きなだけ彼女の言う“お淫ら”とやらをして、そして……。
ドゥーベ氏はまたイザドラに襲われる事を覚悟し、その名を舌に乗せた。
「イザドラ」
イザドラがドゥーベ氏の腹にまたがり、ベッドサイドのオードトワレに手を伸ばした。そして、それを一滴、彼の胸の中央に垂らし、両手で塗り広げた。
混ざり合った二人の体温で香りが揮発し、爽やかな蘇合香の匂いが漂う。
それはイザドラがドゥーベ氏のためにわざわざモンペリエから取り寄せた物だった。彼に香りの良し悪しはわからなかったが、彼女がその香りを嗅ぐために胸にすり寄ってくるのがいいので使い続けていた。
「女の匂いがついていては困るでしょう」
イザドラはそう言うと、寝台から降りた。
「行ってしまうのかね」
「ええ。だって、やっぱりよくないわ、これ以上旦那様の崇高なお仕事を妨げるなんて」
「風呂に入って行ったらどうだね」
「あら、お風呂のお湯は誰が持って来ますの。どうせ彼でしょう、あの間の悪い可哀そうな彼。わたくしは一向に構いませんけれど。それに、二度ある事はなんとやらと言うわ」
「……帰りなさい」
ドゥーベ氏はフォルトナートの間抜けた面を脳裏から必死に振り払った。
「そうします。わたくし本当は、あなたに蔵書票をつけて、本棚に詰めておきたいけれど」
ドゥーベ氏に背を向けたまま、イザドラは寝台の前に置かれた大きな一枚鏡の前で服をまとい始める。
寝台から起き上がりコルセットの紐くらい締めてやろうと思うのだが、ドゥーベ氏の身体は疲労に悲鳴を上げる。
「私は君をキャビネットに入れておきたい」
彼は腕だけ伸ばし、イザドラの身体に触れた。
「ラベルには“この世の美しいもの”と書いて」
鏡越しに見えるそのかんばせは柔らかに綻んでいる。
身支度の終わったイザドラはくるりと向きを変え、愛らしい顔で彼を見下ろした。
「がんばって、お仕事早く終わらせて、帰っていらして」
ドゥーベ氏は頷いて誓いの言葉を言おうとしたが、続いたイザドラの言葉とすこぶる笑顔に大いに震えた。
「帰ったら覚悟してくださいませね。皆さんがおっしゃる通りに、一週間は飲まず食わずで楽しみましょう」
「な、なに! しないからな……そんなに、しないからなっ!」
「まあブリュノさん、あなた皆さんの期待を裏切るのね」
「期待ではない、あれは……」
イザドラはドゥーベ氏に妖しい満面の笑みを返した。
「でもあなたはきっと、帰ってくるなりわたくしを押し倒して行為を強請るわ。だって、わたくし思いつく限りの愛の言葉をあなたによく似た男の身に刻んだもの。聞くといいのだわ、彼に。そうしたらあなたのお仕事には拍車がかかるし、妻が恋しくもなります」
そして彼女は王者のようにゆったりとした足取りで警視総監の仮眠室を後にした。言葉の意味をいまだ理解しかねて呆けている夫を残して。
隣室からもイザドラの気配が消えた頃、ドゥーベ氏は一つの答えを見つけた。
軋む身体に鞭打って寝台から跳び起きて鏡の前に立つ。そしてそれに背を向け、硬い上半身をひねった。
確かにそこには思いつく限りの愛の言葉があった。
鏡の中の彼によく似た男の大きな尻には、黒いインクで言葉が彫られていた。
それは所有者を示す署名でもなく、彼の淫らな性質をあげつらう罵倒でもない。ただイザドラの純粋な愛だけが鏡文字でしたためられていた。それも精緻なバタルド書体で。
まったく、イザドラの思いつきは大抵碌なものではない。
こうまでされては、あまり長い事一人で妻を待たせてはおかれまい。
ドゥーベ氏は諦観のような、それでいて天使の宿ったような優しい溜息を吐いたのだった。
寂しい時の彼 おわり