寂しい時の彼 - 3/10

 手紙の検閲許可証、盗品の返却許可証、捜査報告書、市井の民の嘆願書、ありとあらゆる紙切れに署名、署名、署名、嘆願書には形式的な返事。上から下まで一瞬で睥睨し不備を検め、流れるような所作で文字を認める。
 紙の山が減ってきたと思えば、世話焼きの中年女が食事のおかわりを有無を言わさず盛り付けるかのように、部下が次の山を持ってやってくる。この世のどこに、この街のどこに、こんなに沢山の紙があるというのか。それとも、この世の紙がここに一堂に会しているのか。
 崇高なはずの仕事はすでに糸紡ぎのような単純な流れ作業と化していた。これが彩色写本の複製であれば、少しは慰めにもなろうが、反射的に行うこれはまるでハイパーグラフィアで、これが警視総監の仕事なのかとかつては自問したものだ。
「何故年末になると、泉が湧くように紙束が現れるのだろうな」
 独り言のつもりであったが、それは両手いっぱいの新しい紙束を持ってきた部下のフォルトナートを震え上がらせた。名もなき獣の地を這う呻吟のようなそれは、新人である彼に恐れを抱かせるのには十分だった。
「えっ、ええと、どうしてでしょうね」
 フォルトナートは執務机の空いた場所に、山が崩れない様にそっとそれを置いた。
「僕には皆目分かりません、ええ」
 と、言ったきり、フォルトナートは黙り込んで机の前で、母親に何か頼みごとをしようとしている子供のようにもじもじしている。
「まだ何かあるのかね」
 警視総監は顔を手元に向けたまま、フォルトナートに問う。なんという怯え様。きっと署内の根も葉もない噂を信じているのだろう。曰く、警視総監が家を長く留守にする時は、奥方に貞操帯を嵌めて監禁するとか。曰く、戻ったら一週間は寝かせず食べさせず凌辱し続けるとか。それってさすがに時代錯誤だし物理的に無理だし。てかそんな事しないし。
「は、はい。あの、これ、先日、邪教集団の連絡網を断つために、郵便物を検閲していて発見しました」
 たどたどしい口調と共に懐から出されたのは、一通の手紙だった。
 一瞥すると、まず目に入るのは、まるで大昔の神父達が薄暗い修道院で行った装飾写本のような偏執的なバタルド書体。連想されたそれから彼の脳裏に浮かぶのは、写本を蒐集し、また愛してもいる奥方の姿。宛先は辺境の領地にいるB……侯爵令嬢に宛てられた物。奥方とは知り合いだったはず。底模様のある純白の便箋はお気に入りのもの。中にきっちり折りたたまれて入っているであろう、揃いの便箋のレターヘッドさえありありと思い起こせる。そしてそこはかとなく漂う蜂蜜の馥郁たる香り。豊かな髪の毛や首筋からいつでも匂い立つそれ。
「これは……」
 イザドラの。
「ええと、差出人に奥様のお名前が」
 裏返さずとも分かるが、見てみれば確かに奥方の名が記してあった。そして、鮮血の滴りのように真っ赤な蝋封。
「何故これが」
 警視総監はやっと部下の顔を見た。鋭い顔でまともに一瞥くらったフォルトナートは息をのんで、まるで見る者を石に変える怪蛇の目から逃れるように目を逸らした。
「おおおおそらく、郵便馬車を検めた時に紛れ込んだのだと思います。べべ別に閣下の奥様が一枚噛んでいるとかそういうわけではないです、ないです……」
 そんな事は百も承知だ、と警視総監は鼻で笑う。
「何故私の下へ」
 手紙をまるで決定的な証拠物件かのようにフォルトナートの眼前に突きつけ、揺らす。まるで尋問だ。
「いいい、一応、閣下にお渡ししておけと、ベルビュ殿が」
 腹心の名前が出た事に、彼の表情が和らぐが、それは本当にほんの少しで、イザドラくらいにしか見分けられない程度だ。
 だが、封筒から漂う蜂蜜の香りに、煩雑に忘れていたイザドラへの偏執が呼び起こされる。少なくとも七日は会っていない。当初の予定では一週間ですべての仕事が終わるはずであったのに、紙束は腐乱死体から蛆が湧きたつように増え続ける。こうなったら元凶をとっとと埋葬するか、燃やしてしまうかしかないのだ。
「用がすんだなら行きたまえ。お前にも仕事があるだろう。それとも人妻の手紙を右から左に動かすのが君の、崇高な、仕事、かね」
 警視総監は勝手に妻の手紙を懐に入れて持ち運んでいたフォルトナートにちくちくと嫌味を投げつける。
 フォルトナートは真っ青になって泣きそうな顔をしながら、警視総監室から猟犬に追われる兎の様に逃走した。
 警視総監は忌々しげに紙の山壁を睨みつけ、机を両の拳で叩きつけた。
 こんなものは山羊に食わせてしまえ! そして、その山羊にスパイの足の裏でも舐めさせておけばいい。そうすれば石のように無口な奴らだって、九官鳥のように饒舌になるだろう。あるいは広場で燃やしてしまえ! そして、その火に夜盗をくべておけばいい。気絶したら唐辛子を火にぶちこんで叩き起こし、決して安らかには死なせるな!
 警視総監の思考は外に漏れていたようで、それも、かなり大声だったようで、扉の外のフォルトナートの悲鳴が聞こえた。
 彼は冷めたコーヒーを一口飲み、よくないとは分かっていても奥歯をきつく噛んだ。儀礼的につけている重たく大きい前時代的なアロンジ鬘のせいで、頭痛は既に二日目の朝から始まっていた。今朝は寝台から起き上がるのも難儀する程までに酷くなっていた。薬は今まで通り何の役にも立たず、益々彼を苛立たせるだけだ。
 イザドラがいなければ駄目だった。イザドラがいなければ。
 イザドラも自分を同じくらい想ってくれているだろうか、警視総監は封筒を鼻に近づけながら思いを馳せる。きっと、イザドラは自分が彼女を想っているよりも、自分を想ってはいないに違いない。さほど淋しさも感じていないだろうし、もしかしたら何も感じていないのかもしれない。
「嗚呼……イザドラ」
 警視総監は便箋の香りを思いっきり吸い込む。彼を落ち着かせ、時に昂らせもするのは、ラベンダーの香りでもチュベローズの香りでもなく、イザドラのそれだった。
「イザドラ」
 彼女は本棚に納められている稀稿書と稀稿書の間に永遠を見る。フランボワイヤン様式と、雪解け水に浸されて剥がれた石畳の関係について、人工言語で思いを馳せる。思いつく限りのありとあらゆる航路を色分けして航海図に書き込み虹とする。押せば必ずくしゃみが出るつぼがあると信じている。ボスの絵画を聴き、ブスクテフーデの旋律を見る。飛び盛る羽虫を五次元の化粧箱に閉じ込める。トルコ絨毯の模様に幻想の都を創る。手入れの行き届いていない古い時計の部品の香りと、コントラバスのエンドピンが床を引っ?く音を床に耳をつけて聞く事を愛好している。
 そんなイザドラの宇宙に自分の存在は別段大きな位置を占めていないのかもしれない。それどころか、観測すらされていないのではないだろうか。
「イザドラ……」
 少女なのに女、不道徳だが純粋、嗜虐的だが惻隠と慈愛に満ちている、ありうべからざる異形の神。
「ああ、は、ぁ……イザドラ」
 ドゥーベ氏は下腹部に手を遣る。男根は封筒の香りと卑屈な考えにすっかり中てられて、硬く、大きく、凝り固まっていた。キュロットの中に手を忍ばせ、ゆっくりと扱き上げる。
「くう、っあ、ああ、イザドラ、イザドラっ……」
 彼女は彼の部屋に入る時、独特の節をつけた軽快なノックをまったく同じ調子で三回する。部屋には左足から入る。回廊は左周り。一枚板の鏡を怖れ、コーヒーの深淵から目を逸らす。
 冷たい手、冷たい身体……冷たい心。
「ああ――!」
 ドゥーベ氏は絶頂の寸前に男根を外に露出させ、イザドラが彼の名を刺繍してくれたハンカチの中に欲を吐きだした。
 冷たい執務机に頭を凭れかけさせ、しばらく放心した後、彼はまた書類に立ち向かっていった。