寂しい時の彼 - 4/10

 感覚の鋭敏な中指の腹で金箔の幽けき凹凸をなぞる。羊皮紙は貝紫で紅茶色に染められて、彼の硬い髪の毛のようだ。褪せかけたインクは、渋みがあって彼女を真摯に見つめる瞳のよう。革帯は引き締まった唇の感触に似ている。顔を埋めると彼の香りがする。
 これが彼女の夫のように、触れられる事で羞恥と歓喜にうち震えてくれたなら。
 イザドラは先日見つけた、芸術的なまでに美しい彩色写本を胸に抱いて嘆息した。それは路上の古書店にうち捨てられるように置かれていて、二束三文の値段であった。表紙は摩耗し、飾り絵のあったであろう所々のページは抜き取られていたが、イザドラにはとても価値のある物に思われた。果たして少々手入れしたら見違えるほどに美しくなった。これを元の古書店に持って行ったら、きっと惜しくなって返せと恫喝されるだろうから黙っている。
 イザドラは空中楼閣のような書棚に取りついた梯子を滑らせ、ゴシック装飾の真下の一角に登る。その巨大な書棚は、写本・断章などの稀稿書から、一見無価値そうだが直観的に美しい紙片が整然と並んでいて、さながら美の殿堂だ。重厚で荘重な背表紙がいつでもイザドラを見つめ返す。題名も分からぬその写本は、“この世の美しい物”の棚に入れられた。
 彼女の夫はイザドラの蒐集癖に理解を示してくれる。というよりも、そういった趣味を持つイザドラそのものを愛してくれるとても貴重な人物であった。金食い虫と罵る事もなく、それどころか自ら、暇があれば古書店を回って奇書怪書発禁本を発掘してきてくれる。
 部屋の片隅には夫のキャビネットがあって、中には鉱石が所狭しと展示してある。ここは、元は夫の蒐集部屋であった。彼も石を集める事を愛好していたから、イザドラの趣味もまた、尊重し愛してくれているのだろう。
 イザドラの蒐集は、最初は室の一角で細々と行われていたが、実家で集めていた書物棚を移設したところ、今や窓際まで夫のキャビネを圧迫し、イザドラの私設図書館の様相を呈し始めていた。
 だからと言って、なにもイザドラが無理を言って置いているのではない。夫がこの室を小博物館にしようと言い出して、何度も彼女の実家を往復して本を運んだ結果がこれだ。
 もしかしたら夫は軽々しく妻の趣味を許した事を後悔しているかもしれない、とイザドラはたまに不安になる。訊ねてみても夫は、気にする事はない、この展示をとても気に入っている、とイザドラに優しく言うが、さて本心はどうやら分からない。
 焚書にしたいと思っていたらどうしよう。他人に燃やされるくらいなら自分で燃やすので、出来れば早めに言って欲しい、とイザドラは密かに思う。
 最近はボスの絵画の複製――夫はこの絵をとても気味悪がった――や、奇妙な形の珊瑚や貝殻、由来の怪しい幻想品なども置き始めたので、もう驚異の部屋と言っても差支えないかもしれない。
 だが、他の金満家で知的好奇心の鋭敏な貴族がするように、この驚異の部屋を他人にひけらかす事はしない。どちらもはっきりと言葉に出す事はなかったが、ここは二人以外の知的生命体には決して侵す事の出来ない聖域なのだ。
 夫が屋敷にいる時は、殆どの時間を二人きりで、ここで過ごす。朱色のふかふかした長椅子に並んで腰かけて、イザドラは石を磨き、彼女の夫はイザドラが蒐集した稀稿書を読み耽る。イザドラはたまに隣の夫を盗み見るが、熱心に読書をする彼の横顔はとても美しい。彫りの深い聖人像のような顔に影が差す。双眸は幽かな光の反射に暗く耀いて、メダイのよう。まるで禁欲的な修道士だった。
 時折彼が、金箔の膨らみや、ペンの穿った窪みを興味深そうに、優しく撫でる時、イザドラは震える。自分が愛撫されているような気がして。
「ん、ブリュノさん……」
 イザドラは長椅子にだらしなく伏せる。夫がいないと椅子もやけに広い。腰をくねらせ座面に下腹部を擦りつけながら、ローブの胸元を引き下げ、小さな胸をベルベットのクッションに押し付ける。鼈甲の髪留めが外れて、長い髪が零れるように垂れ、床に溜まる。
「あ、はぅ、すき……ぃ」
 頭痛がすると言ってはここでイザドラに縋りつく彼。でも最近は前ほど痛みがない事を知っている。顔色もいいし、震えていないし、脂汗だってかかなくなった。だがイザドラは彼を抱いて、頭を撫でるのが好きだったから、特に何も言わない。
 それに、彼が寄る辺のない子供のように抱きついてくると、信頼されているのだと嬉しくなる。そんな時は、指を柘植の櫛の代りに彼の髪に絡ませて、愛情を籠めて解す。こめかみに白い毛が混じっているのを見られる事や深い皺を間近で見られる事を彼は嫌がったが、イザドラはそれさえ愛おしかった。それに、そんな所に彼の色香を感じるのだった。
「ブリュノさん……」
 ああ、警察は男ばかりでよかった!
 イザドラはクッションをきつく抱き、上がっていく熱に細かく息を吐く。もし宮廷に頻繁に出仕しなければならない大臣や官職だったら。宮廷には美しい貴婦人が沢山いるから心配だ。あんなに男前なのだから、籠絡されて略奪されてしまうかもしれない。あんなに肉の快楽に弱いのだ、肉感的で蠱惑的で理知的な女に肉弾戦に持ち込まれたら、きっとガレー船を漕ぐ奴隷のようになってしまうのに違いない。
 つまり、最初は厭だ厭だと反抗的であっても、その苛烈さに思考を奪われ、そのうち何も疑問に思わなくなってしまうということ。
「や、だめ、だめ、ぇ、ブリュノさん……」
 でもそんな女がいたら、皮を剥いで引っ張って引っ張って引っ張って磨いて薄い人皮紙にして、その鎖骨をペンに、その血をインクに、その臓物を顔料に、その髪の毛を閉じ紐に、その縫工筋をベルトに、その脂肪を灯りに、わたくしが考え得る最もお淫らな肉欲と、最も残虐な悪徳についての装飾本を書くわ。題名は、ドゥーベ夫人の世にも淫猥なる教典。余った部分は、ディアンヌドポワチエの眼球だとか、フレデゴントの小指だとか、カトリーヌドメディチの鼻だとか、フォンタンジュ嬢の心臓だとか嘯いて、キャビネットに飾るわ。
「あふ、んん、んく」
 彼は、燃え上がる深海の理想の宮殿。大草原にぽつんと建ち天に延びる石段。鋭角の円。いとも絢爛たる魔導書。天誅を与える為に槍を振りかぶり、猛禽の羽を広げた怒りの天使像。上品なシルエットのポートレイト。誠実な野獣。底の見えない澄んだ泉。老成しているのに幼い、禁欲的だが淫靡、嗜虐趣味で被虐趣味、ありうべからざる異形の奇跡。
「ふえぁ、ぁ、でないぃ、善くならないっ、どうしたらいいのブリュノさん、ぁ、ああ、あ、こわれちゃう、わたくしこわれちゃうの、ブリュノさん……」
 イザドラの伏せた瞳から大粒の涙が零れた。腰が甘く痺れたまま、ずんずんと熱が溜まってゆく。この一週間、ずっとこうだった。夫を想って昂り、しかし絶頂には至れず、もどかしい感覚が残る。侍女には熱でもあるのかそれとも病気かと心配をかけ通しだった。まあ、ある意味での熱もあるし、病気は病気だ。
「も、だめ。行かなきゃ……」
 イザドラは服装を正し、乱れた髪を結い直すと、驚異の部屋を後にした。

「わー、これすっごくおいしいですね!」
 フォルトナートがあほ面でキッシュを口に詰め込んだ。
「馬鹿おまえ、これどれだけ高いか知ってるのか、目抜き通りの高級……」
 ベルビュが親猫のようにフォルトナートの首の後ろを掴んで窘めた。
 仕事は半人前以下、しかし食欲は三人前以上。間が悪い、いわゆる間抜け。こいつどうなってんの、とベルビュはいつものように苛々した。
「あら、いいんですのよ、沢山ありますもの。他のみなさんもどうぞ」
 応接間の椅子に腰かけた警視総監の奥方が相対するベルビュとフォルトナート、そして周りを取り囲む夫の部下達に微笑みかける。長テーブルには王室御用達の高級デリの料理が次々と運ばれてきて、歓声とも戸惑いともつかないざわめきが辺りから漏れる。部屋の扉は開いたままで、その外も人で溢れている。皆一目、警視総監の奥方のかんばせを拝みたいのだ。
「シャトードブリューエバルトも五十箱運ばせましたわ。仕事納めの後にでもよろしければ」
 奥方の口から突如出てきた大量の高級ワインにベルビュが噎せる。黙っていれば整って見える顔が台無しだった。
「ごじゅ、五十!? 五箱ではなくて」
「いつも主人がお世話になっているのですもの、遠慮なさらずに」
 奥方は涼しげな顔で出された紅茶を飲んだ。ベルビュは輸入物のコーヒーを勧めたが、好みではないらしく断られた。
「わー、すごい! おいしい! お金持ちはやっぱり違う!」
 フォルトナートはタルトを口に押し込みながら白痴のように賛美した。
「ところで、主人はまだですの」
「先ほど私が呼びに行きましたので、すぐ来ます」
 六頭立ての立派なベルリン四輪が署の門を強行突破し、降りてきた貴婦人が上司の姓を名乗った時、ベルビュはこれまでにないくらい全力で総監室に走ったのだ。
 連絡が遅れては、きっと警視総監は機嫌を損ねて今以上に荒れる。だからアホには頼めない。自分で行かなければならない。そう思っての事だ。
「ありがとう、ベルビュさん。主人は仕事中はどんな様子ですの。わたくし、仕事をしている彼をよく知りませんの」
「熊のようにうろうろしていましたよね!」
 タルトを一気に嚥下したフォルトナートがすかさず発言する。
「ちょっ、ばっ、おま……」
 この馬鹿!
 ベルビュはフォルトナートを口汚く罵りそうになった。しかし淑女の、それも自分の上司の奥方の前でそれもどうかと思ったのでぐっと言葉を飲んだ。
「まあほんとう」
 くつくつと笑う美しい奥方に気を良くしたのか、フォルトナートは厭に饒舌だった。
「ベルビュ殿もさっき一緒に見てたでしょー、唸りながらあっちにうろうろこっちにうろうろしてたじゃないですか。まるで曲芸を覚えている最中の熊ですよお」
「お前死んだな」
 ベルビュの顔がカーニバルの月の面のようになっている事に気付いたフォルトナートが視線を巡らせる。
 イザドラの華奢な撫で肩の上に乗っている、骨ばった大きな手。烏の濡れ羽色の黒い袖は、本当に烏の羽のように広がって、奥方の胸まで垂れている。そして、コンキスタドールによって滅ぼされた文明の、生贄を欲する邪神像のような顔。
 それの通ってきた跡は、蝗の騎行した跡の様に人垣が割れていた。
「あははあはあはあ」
 フォルトナートは余所行きの硬い笑顔で曖昧に頷いて、ベルビュの背中が見える辺りまで下がった。
 ベルビュは口を、ばーか、という形に開いて閉じた。
「イザドラ」
 死の宣告のような声だった。だが奥方は鷹揚な仕草で顔をあげ、うっとりと夫の名を舌に乗せた。まるで甘い物でも味わうかのように。
「まあ、ブリュノさん……」
 洗脳されているのだ、とベルビュだけではなく誰もが思った。
「相談もなしに突然押し掛けるとは、どういう了見かね」
 見下ろす顔は険しく、その筋の人間のように凶悪だ。
「まあ、ご迷惑だったかしら。みなさん籠りっきりはよくないと思って、差し入れを持って来たんですの」
 奥方が肩に乗せられた手の上に、自身の手を重ねる。一瞬、警視総監の手が密やかに震えたのを、ベルビュは見逃さなかった。
「もういい、こんな所にいては邪魔になる。来たまえ」
「はい」
 警視総監は奥方の細い腕を持って無理矢理立ち上がらせ、それをきつく引いて部屋を出た。去り際に奥方に謁見していた部下達を睥睨し、浮足立たせる事も忘れなかった。
 ああ、きっとこの後、あの小さな奥方は、警視総監の気の済むまで犯されるのだ。と警官達は羨望とも、憐憫ともつかないような感情を抱いたようで、残念そうなため息がそこここで沸き起こる。
 ただベルビュだけは、こう思っていた。
 あの人も臆病になるくらい人を愛するということがあるのだ。