「ねえねえ、さっきの、誰」
闘技場の回廊で半歩前を歩く娘が顔だけ振り向き問うてくる。さしづめ手にした報酬の重みと月桂冠の触りのよさに飽きたのだろう。
「知らん」
セジェルは数歩先を見据えたまま素っ気なく返した。試合の後、ルシャリオとは会えていない。他の者は無事なのか、どこの訓練所にいるのか、どうして剣奴に身をやつしているのか、聞きたいことは数多あった。
「知らないわけないじゃん。途中で助けてもらってたのに。最後は説得して降伏させてた」
「くどい」
また試合を消化していればいつかは再び見える事ができるだろうか。いや、あれが最後かもしれない。
「頼みがある」セジェルは意を決して娘に声をかけようとした。曰く、ルシャリオの消息を探って欲しいと。
しかしその言葉は娘のこ汚い悲鳴に掻き消された。
「ごあっ」娘はさして高くもない鼻を押さえて後退りながら目の前にやにわに躍り出た男を罵倒した。「気をつけなさいよ! あら、イケメン」しかし気色ばんだ声は急速に別の色を含んだ。
「将軍! あなたも剣闘奴隷になっていたとは」
ルシャリオは興奮してまくし立てた。己の腹と激突した障害物になど目もくれずに。そういう所には少々鈍感な男なのだ。
「色々あってな」
セジェルは自分の腰高にある娘の頭を押さえつけ、自分の後ろに押し退けた。大人の会話から子供を遮断するかのように。だがそれで諦める女ではない。
「わたしヴィットリア。議員のヴィクトリウスの娘。あなた将軍の友達? わたしいつも将軍にはよくしてるの」
持ち前の反骨精神でセジェルの手を払い除け、ルシャリオの服の袖口を軽く引っ張り気を引き自己主張を開始する。
「将軍、この娘はなんです」
やっとルシャリオは娘に気づき、己の袖口に鰐のように食らいついて離さない細い指を丁寧に外した。そういう事をするから女が勘違いするというのである。嫌なら振り払えばいいだけだ。そうしないからいつも勝手に女に気を持たれるのだ。
「口を慎めよ、俺の主だ。こう見えてこの女、気性が荒くて癇癪持ちだ。不用意な事を言えば瞬きする間もなく首を刎ねられるぞ」
「やめてよ、それって全部自分の事じゃないの、尊大な名誉将軍さま。わたしこう見えて尽くすタイプなのよ、ルシャリオくん」
セジェルは妙なしなを作る娘を引っ叩きたくなった。こう見えようとどう見えようと、見えたままの人間だ。つまり、若い偉丈夫の前でだけ身体をくねらせる阿呆。
「ねえねえ、あなたは何ができるの? うちに来ない? また将軍と楽しく勇猛に働けるよ」
「先ほどご覧になられた通り、将軍ほどではありませんが十分に戦えます。戦いよりも得意な事といったら戦車の操縦でしょうね。スラローム、峠のドリフト、縦列駐車、なんなりとお任せ下さい。後は船の帆を縫うのも得意ですから、裁縫仕事なんかも少しは」
ルシャリオは人当たりよく、朗らかに自分を売り込んだ。セジェルへの純粋な忠誠心が彼をそうさせたのだ。生きて会えたのだから、また何としても傍に仕えたいと。
「へえ、じゃあ今度ペプラムのついた服を作ってもらおうかしら。ギリシャ風の」
「その、ペプラムだかいう物の作り方はわかりませんよ」
「ああ、では不採用だな」
蚊帳の外のセジェルがここぞとばかりに横槍を入れる。
「ちょっと将軍は黙っててよ。ねえねえ、将軍の右腕殿。猫はすき?」
「好きです。実家で五匹飼っていました」
「採用!」
娘は元気よく手を上げた。
「採用なのはいいのですが、わたしの雇い主と話をつけなければなりません。快く移籍を許してくれるかどうか……」
ルシャリオが気落ちした顔を俯ける。余程悪辣な雇い主なのだろう。
「おいこのアマ! また俺様の剣闘士に手ぇ出そうってんじゃねえだろうなあ!」
そこに現れたるは突き出た腹を揺らして闊歩する卑しい顔つきの男だ。両頬のたるんだ、無精髭のある相貌は下士官崩れか盗賊か、あるいは両方経験しているかもしれない。背後にはセジェルに負けず劣らず筋骨隆々の男達を引き連れており、さながら傭兵隊だ。軍隊と言わないのは、男達の着ているものから武器からなにから、すべてがみな不揃いだった事と、統制の取れた歩き方にはおおよそみえなかったからだ。
「でたっ、奴隷商人!」
娘はけたたましい糾弾の叫び声をあげた。
「奴隷商人じゃねえ! 経営者だ、剣闘士の訓練所の!」
「ていうか、またって何よ、またって。わたしを尻軽みたいに言わないでよね、まだ処女なんだから」
果たして処女が剣闘士を引き連れた男に詰め寄るだろうか。セジェルは片眉を嫌味っぽく跳ね上げた。
「てめえは俺が競り落とそうとしてた奴隷を、そうだ、そこのそいつだよ」剣闘奴隷の元締めはセジェルを不躾に指差した。セジェルがその指を手の甲で払い除けてもめげずに再び人差し指を立てる。その所業、どこかの誰かによく似ている。「金に飽かしてかっさらって行きやがった!」
「奴隷市ってそういうものよ。もしかして知らなかったの」うっそー、と、わざとらしく口元に手を当てて驚いてみせる娘。
「てめぇのやり口が気に入らねえって言ってんだ。こちとら決まった予算の範囲で買い物にきてんのに、抜きんでた大金初っ端にポンと入札しやがってよお。性格がネジ曲がってるにも程がある。これだから金持ちの貴族はいけすかねえ」
娘の性格がネジ曲がっているという点にはセジェルも大いに賛同できたが、セジェルを獲得した時の娘のやり口は実に鮮やかであったと認めている部分もあった。
最初は他の奴隷に対して小遣い程度の額を提示し、他が娘を完膚なきまでにやり込めようと値を釣り上げた所でしおらしく引き下がってみる。それを繰り返し、他の客の予算をじりじりと減らしてゆくのだ。そして狙う獲物がきたならば、少しも欠けていない己の有り金を惜しげもなく投げ込む。他の客共が娘を見くびっていたからこそ使えた手だ。同業者であれば警戒されただろう。
すべての商品に対して手当り次第に手をつける娘をセジェルも最初は金持ちの物見遊山か、考えなしの阿呆かと思ったが、それを作戦と気づいてからは、他の客共が次々と娘の思惑通りに金を投じてゆく姿に小気味よさを感じていた。それを目の当たりにしたことで、すべてを喪い自棄を起こし鬱屈していた気持ちが刹那忘れ去られていた。娘の言葉を借りれば、スペクタキュラー! といったところだ。そして興味が湧いたものだ。この小娘が真に狙う品はなんなのかと。まさにその品がセジェルそのものだったのはお笑い草だが。
しかしそこまで策を弄して物にされて嬉しくないと言えば嘘になる。負け惜しみだろうが、誰もが娘にこう言った。エジプトの将軍だなどと法螺を吹く男に大枚叩く価値があるか、と。「ある。わたしはこの人がエジプトの将軍だって信じてる。だからそれに相応しい値をつけたまでよ」娘はてらいもなくそう言ってのけたのだった。
「だからもしや、こいつにも手を付けようってんじゃねえかと思ったんだよ。そういやこいつもなんだかんだ言ってたなあ、エジプト艦隊の副官だとか。そんな奴が普通の奴隷市に降りてくるかっての」
剣奴の元締めはそう吐き捨てた。確かに将軍だの副官だのとなれば、捕虜として軍が身柄を拘束し、手練手管を使って敵国の情報を聞き出さなければならないのだ。そして情報を絞り出した後も捕虜交換の手札として使える。それをむざむざ奴隷市に下げ渡す事などあり得ない。
「その人いくら。そこの副官殿」
だから娘のようにそれを信じる者はいささか世間知らずかお人好しといえよう。そのどちらにも、阿呆な、という形容詞がつく。
「言ってる傍からそれかよ。嫌だね、いくらの値がつこうがてめぇにゃ売らねえよ」
「性格悪いよね。根に持ちすぎじゃない? 自分のものにならなかったからってデビュー戦で将軍を潰そうとしたし。聞こえてたんだからね、おじさんが自分の剣闘士に将軍を殺すように言ってたの」
その言葉に怯んだのは元締めだけではない。大勢引き連れた剣闘奴隷の中の一人もまた、みっともなく身を震わせていた。バツの悪そうな顔で身体を小さくしているのは、初の対局で当たった大男だ。短剣で刺してやった腕はもう完治しているようで、巨大な棍棒をしっかりと下げていた。これから他の対局があるのかもしれない。
「剣闘試合で殺す殺されたって流れになるのは当然だけど、私怨で無理にそうさせようとするのは超かっこ悪い。やるんなら、わたしと直接やりあえばいいのよ。そういうわけで、その人言い値で買うわ。今日の大混戦の報酬の一割でどう」
娘はルシャリオを人差し指でさしたあと、その指を天に向けた。
「お前の言い値って事かよ! どう考えても少ねえだろうが。せめて全額よこせよ」
元締めの方も負けじと五本の指を立てた両の掌を娘に突き出す。
「じゃあそれで」
「いや、五倍」
「欲をかくわね。二よ、二」
「じゃあ三だ! これ以上は下げらんねえ」
「決まり!」娘はルシャリオの腕を掴んで引き寄せ、全報酬の入った袋を取引相手の手元へ放った。「商談成立ね。それは手付金。残りは使いの者に後で届けさせるから」
「本当だろうな」
元締めは素早く袋を懐に納めながら、胡乱な目で娘を睨む。
「三日以内に来なかったら家まで取り立てに来ていいわよ」
どうにも釈然としない顔で、元締めは来た時と同じように剣闘士達をぞろぞろと引き連れてセジェル達の横を通り過ぎて行った。
「わたしの勝ち!」
一団の背を見送りながら、娘はその頭に手ずから月桂冠を載せた。
「お礼を言わなければなりませんね」
ルシャリオが恭しく頭を垂れた。
「いやねえ、お礼はいいのよルシャリオくん」
娘は相変わらず身体を気色悪くくねらせる。そして上目遣いで遥か高みにある偉丈夫の目を見つめる。セジェルを見る時にはいつも顔ごと、ともすれば背筋までぐっと上げて真正面から睨み合おうとするというのにだ。
「それにしても、お金で解決する問題でよかったね。相手が守銭奴だと楽なものよ」
娘は馴れ馴れしくルシャリオの二の腕を叩いた。