村長は禿頭を撫でながら相対する異世界人を眺めて思案していた。
彼女が言うには、森の番小屋は手狭になったため、自由都市領の修道院跡地に引っ越すとの事。
それは非常に困る。この強大な力を持った異世界人は村を守る盾のようなものだ。折角流布した神の裁きの噂も浸透してきた頃でもある。裁きが下されなくなったと知られれば村は再び盗賊共のいい餌食に逆戻りだ。その上に先頃まで怨敵であった自由都市へ行くなど言語道断。それでは逆にこちらの脅威になってしまう。何としてでも村に住み続けてもらわなければならない。
こうした村長の懸念など想像だにしない異世界人は滔々とした調子で話し続ける。
「土地も上物もタダ同然だったのでおそらく心理的瑕疵物件でしょうけど、そんな事は些細な問題です」
「心理的……うん? そうか」
この異世界人の言う事成す事、何をとっても大抵よくわからない。セクハラとか、子供の権利とか、公衆衛生だとか。あの傭兵はこの異世界人に頻繁に曝露してよく正気を保っていられるものだとある意味感心してしまう。おそらく知力が無きに等しいと平気なのだろう。
「この村にもいい空き家はあるぞ。川沿いの農場なんて広くていいと思うがね」
異世界人は一顧だにせず首を横に振る。負けじと村長も破格の待遇を並べ立てる。
「他でもないお前さんと未来ある子供達のためならタダでも構わんし、家畜もいくらかつけよう。一人では大変だろうから手伝いの者も通わせるし……」
「ああ、はあ、しかし心機一転やり直したい気持ちもありますので」
「この村で何か気に入らない事でもあったかね」だとしたら、その原因をなんとしてでも排除せねばならない。人由来のものであったとしてもだ。一人の命よりその他大勢の命の方が重いに決まっている。
「この村の事は気に入っています。余所者の私を受け入れてくれた事も感謝しています」
“普通の”余所者なら叩き出してるけどな、と村長は心の中で毒づく。特に丘の上で羊を燃やす死んだような目の不審者は即刻傭兵に始末させるか、そいつ自身を丘で火炙りに処するところだ。
そんな心中と表情は切り離し、表面上は迷える若者を気遣う老人を装い問う。
「ではどうして。力になれる事ならどうにかするよ」
「どうにもなりません。他人は思う通りにはなりませんから」
そして異世界人は思ってもみない事を思ってもみない声色で宣う。
「失恋です」ひどく平坦で他人事のような声だった。
「誰が」「私が」「誰に」「エフ氏に」「失恋?」「しました」「ほう……」
バーーッカじゃねえの、と村長は叫びそうになるのをすんでのところで抑えて努めて真面目な顔を保つ。
どこからどう見てもこの異世界人とあの不逞傭兵は互いに相当強く想い合っている。
あの不逞傭兵の方は常々、長生きしたいから勝ち目のある方にしか与しないと公言して憚らないが、先の大戦ではおよそ負け確定の帝国陣営についたという。おそらくその理由は帝国側が押されれば帝国領の前線近くに位置するこの村、つまり異世界人と子供らの住処が掠奪蹂躙の憂き目に遭うのを案じての事だろう。
そしてあまり目立つ事はしたくないと村から出た事のなかった異世界人はふらりと前線に赴き、尋ね人の無惨な死体と共に帰還した。その後は異世界からの稀少な持ち物を売り払ってまで作った金で傭兵を蘇生し献身的に看護した。
それを知って然しもの不逞傭兵も完膚なきまでに打ちのめされた様子だったというのに。
「何があったっていうんだ」
「寧ろ何もありません。彼が私の事を嫌っているんです。再三言っても手は洗ってくれませんし、Fワードを使いますし、鼻で嗤います」私を嫌っている証拠です、と異世界人は何の感慨も汲み取れない表情で抑揚なく言う。「つらいです。こんな風に嫌われた事はありません」辛そうには見えないし、言っちゃ悪いが嫌われやすい性格に見える。
「あとは悲しみを持て余す異邦人です」悲しみも喜びも持ってすらいなさそうな異邦人が嘯く。
村長は椅子に掛け直して瞑目し、細く震えた溜息を漏らす。どうしようもない奴らだ、と。手を洗うだの洗わないだので村の安寧秩序を左右されてはたまったものではない。相手が人智を超えた力を持つ変わり者と、知力と信仰をすべて腕力と体力に注ぎ込んだような野蛮人でなければ、地べたに座らせてまとめて杖でぶん殴って幼稚な根性を叩き直している所だ。
「自由都市に越すのは無しだ」村長は異世界人の穴が空いたように真っ黒い目を有無を言わさぬ眼光で直視する。「あの傭兵はお前さんにくれてやる」それで手を打ってもらおうか、と打診するというよりは恫喝する。
一人の命よりその他大勢の命、それが根無草の余所者ならば尚更。
「近々あれをお前さんの家に行かせるよ」
「彼が言う事を聞くとも思えませんけど」
心を寄せる相手が何も言わずに去ると知っただけでは、あの性根のひん曲がった尊大な傭兵のこと、何も言わずに行かせてしまうに違いない。
「拝金主義者を動かすのは簡単だろう」
幾許か金を握らせて仕事として依頼すればいいだけだ。異世界人を村に引き止めろ、と。少し色をつけて報酬を用意してやれば、察しは悪くない男の事、言外の含みも汲み取るはずだ。即ち村に残らせるか、殺すか。
「お金を握らせて動くのは身体だけですよ」
ああ見えて傭兵には女々しく軟弱なところがあるから、殺すくらいなら必死で引き止める事だろう。そのやり方が穏やかなものか剣呑なものかは予想もつかないが。
「その後はお前さん次第だという事さ。一つ助言をさせてもらえるとすれば」素直に好意を伝える事だ、と村長が言い切る前に前のめり気味に穏やかでない言葉が被せられる。
「次に彼と会ったら殺してしまうかもしれません」
色恋沙汰で生きるの死ぬのの問題になるとは、この界隈も随分平和になったものだ、と村長は冷笑する。
「それで気が済むのなら、そうしなさい」
色恋に溺れた哀れな男を丘で火刑にするなり、お得意の蝋人形にするなり、余所者どうし一緒になってこの村に骨を埋めるなり、好きにすればいい。
傭兵エフは手水舎ラムという邪教の神への、いわば生贄の羊だ。
生贄の羊 おわり