雨の妃 - 1/5

 広い額に一滴の雨水が滴った。
 暗い灰色の低い空を見上げれば、雲は今更になってやっと雨の重みを手放す気になったようだった。
 窓から乗り出していた大きな身体を引っこめバランタンは苦々しく顔を歪めた。
「葡萄の収穫が終わるまで、降りませんわ」
 半月前、物見塔で確かにクロードはそう言った。
 眼下に広がる城下町のその先に広がる葡萄畑では、まさにあくせくと農民が働いていた。その時すでに、望遠鏡で見る北の山脈には厚い雲が垂れこめ、すこし風が強くなれば明日にでも葡萄畑に雨が降りそうであった。
「どうだろうな。明日、明後日にでも降りそうだが」
 だとすれば収穫の遅れで葡萄の質が落ち大損害なのであるが、葡萄畑だけで収入を賄っているわけでもないためバランタンは存外鷹揚であった。
「でも、村のファーブルさんがそう言っていましたもの。来月まで降らないと。彼は熟練の農夫だから、そうそう間違いませんわ」
「いいや、降る。私には分かるのだ」
 バランタンは物の見通しの甘い、そして他人を信じやすい妻に言った。
「どうしてお分かりになるの」
「天候が変わる時には古傷が痛む」
 今回もそうで、バランタンはちりちりと痺れるような幽かな痛みを背負っていた。幾重もの鞭の引き裂き一本一本に奔る痛みは、実に厄介で忌々しかった。
「まあ、ほんとう」
 かわいそうに、とクロードはバランタンの背を撫で、そのまま彼を抱き、押し倒し……。
 バランタンの痛みを癒すような甘い情事のあとに、クロードは彼の上にしどけなく横たわったまま、ある賭けを申し出た。
「葡萄の収穫がすべて終わる前に雨が降ったら、あなたの好きなようにしていいわ」
「いつだって好きなようにしている」
「わたくしをです」
 バランタンは顔を上げ、柔らかく微笑んでいるクロードを見た。
「なんだと」
「わたくしを好きにしていいわ。あなたの言う事、何でも聞きます」
「君は何が望みだ。賭けなのだろう、ならばそっちが勝ったら私に何をさせる」
 厭な予感を抱きつつも、バランタンは問うた。
「わたくしは何も」
 クロードはゆるくかぶりを振った。
「あなたはきっと、わたくしが勝ったらご自分で何か考えてくださるわ」
 そうでしょう、と言われ、バランタンは曖昧に頷くしかなかった。
 こうしてバランタンは負け試合をさせられたのだ。
 今や雨は矢のように降り注ぎ、遥か下方の石畳を激しく打っていた。
 城下の市民達は、急いで市をたたみ、洗濯物を取り込み、家畜を屋内へ追いやっている。
 バランタンは舌打ちした。
 残念なことに、葡萄の収穫は無事に今日の午前中に終わっていたのだ。
 天候が崩れる前に収穫が終わった、と喜色満面の農民が報告した時、城内はその朗報に湧いた。一方で、バランタンだけはいつも通り仏頂面だった。まだ怒りださなかっただけましだった。心の中にはすでに嵐が到来していたのだから。
 早く降れと何度雨乞いをしようと思ったことか。今更降ってきたのは、まるで当てつけのようだった。
 今となっては山も見えない程に雲は厚く、城壁には雷雲が迫っている。
 バランタンは癇癪を起して望遠鏡を床に叩きつけようとしたが、しかしそれを腰に差し、塔を降りた。
 勝ち誇っているクロードが、きっと今頃は鼠を探す猫のようにバランタンを探している事だろう。ならば自分から出向いて厭味の一つでも言ってやろうと思ったのだ。逃亡は彼にとって不名誉なことだった。
 しかし城内のどこを探してもクロードは見つからなかった。
 バランタンがどこにいようとも、クロードは彼を見つける事ができた。例え城下の雑踏の中でも、農村の葡萄棚の中でも。
 だから向こうもバランタンを探しているのなら、どこかで遭遇してもおかしくはない。それなのに一向に会えないという事は、向こうが彼を探していないという事だ。
 バランタンは凶悪な相貌をより一層歪めた。
 絶対に見つけてやる、と。
 
 
 収穫が終わったばかりの畑はやはり寂しげではあるが、来期への期待をはらんで眠っているだけなのだ。
「また来年ね」
 誰に言うともなく言い、クロードは慈悲深く微笑んだ。
 クロードは季節によって緑や赤や黄金に色を変える豊かな畑が好きだった。一日として同じ色合いになる事のないそれは、しかし来年になるとまた同じように蘇る。まるで永遠の命のようだった。
「もうそろそろ雨が降りますよ」
 老齢の農夫が葡萄の蔓を愛おしげに弄っているクロードに声をかけた。
「そうなの」
「雷雨になりますよ。秋の低い空にあの膨れ上がる黒い雲は」
「ファーブルさんの予言は当たりますものね。本当に、収穫が終わるまで天候が崩れなかったわ」
 そこに先兵が降下してきた。クロードは手の甲に落ちた滴を農夫に見せた。
「ね、この通り。さっきのも的中だわ」
 そうこう言っているうちに、濃い灰色の雲は雨水を一杯に抱えていたその腕を広げた。
「ああ、ああ、こりゃ大変だ、奥様こっちに!」
 農夫は帽子の唾を抑えながら、クロードを忙しなく手招いた。
「うちはお城に比べたら厩の腐ったやつのような住まいですが、雨を凌ぐだけでしたら不足はないでしょう」
「誰のせいであんな小汚い家だと思ってるんだい。奥さま、濡れますでこれを」
 少し離れた場所で籠の片付けをしていたファーブルの妻が、急いで自分のケープを外してクロードの頭にかけた。
「あら、いいのです。わたくし風邪はひきません。石でできているのですもの」
 クロードはファーブルの妻にケープを返した。
「それにもうすぐ迎えが来ます」
「約束なさったので」
「いいえ、約束はしていませんけれど」
 クロードは首を傾げている女から空の籠を一つ借りると、それを頭にかぶった。
「だから、目立つ所にいなければいけませんわ」
 なんとか家に主君の細君を連れ帰ろうとする夫婦を、クロードは宥め眇め家に帰らせた。そして畑の中心の一番大きな通路に立って夫を待った。
 クロードはよく知っていた。
 雨の到来を地団太踏んで悔しがった後、敵前逃亡をよしとしないバランタンが自分を探し始めた事。城内を一通り探した後、台所番から自分が共の者もつけずに農村に向かったと聞いた事。その後急いで厩舎に行き、この国で一番速い葦毛の馬に乗った事。
 そして、今頃彼がその馬の腹を蹴って雄々しい声を上げながら、雨に濡れるのも構わずに旧城壁を越え、ここに向かっている事。
 クロードはこれ以上ないというくらい美しい顔で微笑んだ。
 クロードはバランタンを愛していた。
 打たれた背中が痛いと泣いていた時は、忘れ去られた井戸の清廉な水でその痛みと恐怖を洗い流してやった。寂しい悲しいと言えば、それがいつなんどきであろうと傍で話を聞いてやった。父親に立ち向かうと決めた時には、詰めの甘かった彼のためにそれに止めをさしてやった。
 バランタンの望みならば、何でも叶えてやりたいのだ。
 それはバランタンが初めてクロードを悼んだ人間だったからだ。
 城壁の外に出られないのは可哀そうだ、と、かつてバランタンは言った。あの美しい葡萄畑を見られないなんて、と。そして、いつか必ず城壁を広げると約束してくれた。
「そ、そうしたらぼくとけ、結婚してくれる」
 バランタンは混じりっ気のない、真に黒い瞳でクロードに聞いたものだった。
 子供の戯言とは思えど、クロードは素直に嬉しかったのでそれに頷いた。
「でも、人は忘れる生き物だわ」
 クロードは噛んで含めるように、その子供に諭した。
 しかし忘れ去られたとしても、バランタンを恨みはしない。自分に思慕の情を一時でも向けてくれた相手を。
「わ、忘れない、よ」
 きれいだから、忘れないよ。優しいから、忘れないよ。吃音気味な声でそうバランタンは必死に言った。
 その頃城は老朽化し荒れ果てて、クロードはきちんとしたなりをしていなかったし、第一に優しいのはバランタンにだけだったのだが、子供なりに気を遣ったのだろう。
 そんな純粋な彼が、クロードにはいたわしくて、いたましくて、可哀そうで、愛おしくて仕方がなかったのだ。
 結局バランタンはクロードを忘れたが、しかし約束は果たされた。
 心のどこかに想いが引っかかっていたのだとクロードは思いたかった。
 バランタンの代になってからは城の修繕も進み、クロードの二目と見られないような容貌は美しく生まれ変わった。築城された四百年前よりも美しいのではないかと思われた。
 だから六人目の妻を失い、失意の中で彼の額に忘れ去られていた記憶の小さな滴が垂れた時、クロードは彼の前に現れたのだった。
 約束を果たすために。
 バランタンの記憶の滴はすぐに額から垂れて消えたが、彼も城の人々も、誰もクロードの存在を疑う事はなかった。
 クロードはこうして、バランタンの七番目の妻になったのだ。
 クロードがバランタンの前から姿を消す時は、彼がもうクロードを必要としなくなった時で、それはそんなに遠くはないだろうと彼女は思っていた。その時には現れた時と同じようにして消えるだけなのだ。
「でも、それは少しさみしいわ」
 クロードは籠の中で呟いた。
「さみしいとは。罠にかかったからか。それとも濡れ鼠になったからか」
 遥か高みから響く低い声にクロードが籠の網目の隙間から目を凝らすと、深紅の鱗の代わりに艶めく毛を、炎の息の代わりに白い息を吐くサラマンダーと、その上に雄々しく跨った暗闇の王がいた。
「間抜けな格好だ。本当に罠にかかったのか」
 クロードの夫は馬に乗ったまま、それに大きな手を差し伸べた。
「それはあなたも一緒ですわね」
 ほっそりとした、死んだ珊瑚のように白い手が無骨な手を取ると、雲が裂けて天が落ちてきたかのように空が光った。