青髭公の盾 - 2/6

 女は男の名誉や勝利といったものよりも自分の感情と価値観を優先するものだとバランタンはよく知っていた。
「あなたが落馬なさったのならあなたに駆け寄って、あなたが勝ったのなら珠の椅子から立ち上がって喜びます」
 クロードもご多聞に漏れずそうしたものに無頓着で、彼が何人血祭りにあげようが落馬しようが優先されるのは自分の絶対的な価値観のようだった。
「私が騎士でなくともか」
「騎士かどうかなんて重要な事でしょうか」
 常ならばそうした思考には虫唾がはしるのではあるが、しかし今回ばかりはそうしたものも悪くはないと感じた。つまり価値観の基準がバランタン自身であれば。
「それに騎士道なんてこの世には元よりないのでしょう。だから騎士道物語なんていう啓蒙教本が存在するのだとわたくしは思います。宗教に教典があるのと一緒。だから騎士というものにわたくし別段特別な感情を抱いたりはしません」
 言うなりクロードは手の中の本を赤々と燃える松明の炎の中に突っ込んだ。一瞬炎が緑色に爆ぜたように見えた。
 たまに突拍子もない痛快な事をしてくれる。バランタンはクロードの行為を手を叩いて喜びたかった。
「私がくれてやった本をよくも焚書にしてくれたな」
 しかし口をついて出てきたのは恨み言だった。だが相手だって慣れたもので、バランタンの上辺だけのそれを受け流し抱擁を返してくる。
 背をゆっくりと撫でられると神経が優しく引き抜かれていくようで、肉体を統べる力が失われてゆく。浮遊感と共に足腰の感覚が飛んで、豚の載せられた卓に座り込んでしまう。豚とはいえ死んだ者と座を同じにはしたくなかったが、どうにもどうにも仕方のない事だった。
 クロードの手が緩慢な動作で腹から胸を撫で上げてくる。触れられた場所がじわじわと熱くなる。このままそういう事になるのだろうという予感が更に我慢を蝕む。
 クロードがバランタンの大腿をまたいで卓に乗り上げ、互いの吐息が近づく。唇が触れあうかと思えば、目の前に血に濡れた指が突き出される。
「本の事はごめんなさい。でもあなたそうして欲しそうにしていたから」
 肯定の代わりにバランタンはクロードの指に舌を這わせた。食用の処理が済んでいないそれは本当に生命の滴りというのに相応しかった。生臭くて淫らな味が一瞬で鼻と脳天を突き抜ける。
 凶暴な味に痺れて突き出したままの舌にクロードのそれがねっとりと絡まり、穢れた味をくまなく掬い上げてゆく。
 バランタンの首の後ろが、閉じた瞼の奥が、喉の奥が怠くて重い。酩酊した時に似た感覚で、きっと顔はみっともなく紅潮しているだろう。それに加えて、唾液の混ざり合う音と潜められた己の荒い息が耳を打って羞恥心が高まる。
「豚の血ってこんな味なのね」
 クロードは満足げに目を細め、自分の唇を舌で舐め上げた。
「汚いな。こんな物を舐め合うなんて」
「汚くありませんわ、豚は」
 クロードに胸を押されるまま、バランタンは冷たい卓に背を付けた。お世辞にも綺麗とは言えない地下室の卓の表面は、長年バランタンの力任せの猛攻に間接的に晒され続けてきたせいで荒れていた。まるで彼の背のように。
「確かにお前にとって汚い物なんてなかなかこの世にはないだろうな」
 褥では傷だらけの旦那の背を舐めるくらいだ、とバランタンは吐き捨てた。
「あなたはきれいだわ」
「豚と同じくらいにだろう」
「そう拗ねないでくださいな」
 バランタンの機嫌を取るようにクロードが彼の硬く黒い髪や髭を愛撫する。細くて冷たい指が時折素肌に当たり、火照った顔にはとても心地よい。
 クロードの小さくて潤った唇は彼の堅い額に優しく押し当てられ、まるで自分が母親にあやされる幼子になったかのような気持ちにもなる。
「何故こんな事をする」バランタンの声は熱っぽい吐息のせいで途切れ途切れで、もう少しで蕩ける寸前だった。「こんな時にこんな所で」
「どうしてって。あなたさっきからとても淫らな気を発していらっしゃるの。おわかりになりませんか」
 クロードの指が器用にバランタンの下衣の前当てを掻い潜り、まるで蛇のように下腹部に絡みつく。そこでやっとバランタンは己の股間がいきり立ち、クロードを望んでいた事を思い出した。奥方の温和な表情と鷹揚な所作に秘められた嗜虐性が彼を煽り欲情させたのだ。
 冷たい指が欲望に直に触れて根本から先端までをしっとりと撫でられる。
「ああ……」
 こうなってはすべて崩れ去るもやむなし。バランタンは身体に籠る無為な抵抗を手放した。
「それによくご存じかとは思いますけれど、わたくし、あなたが得物を振るっている所を見ると昂りますの」
 服の上から胸や脇腹を焦らすように愛撫され、唇は首筋を吸ってくる。バランタンも妻の滑らかなうなじや腰を撫でさするが、妻の愛撫に比べたら彼のそれは拙いと言ってもよかった。熱に浮かされるとバランタンのいつもの烈しさはどうしてか、さっとなりを潜めてしまうのだ。
「クロード……く、うぅ……」
 バランタンは満たされないじれったい欲望に苦しげで深い息を吐く。
 いつもならここまで来てしまったら丸裸にされて全身くまなく愛撫されているというのに。その背の古傷まで。そして優しく意地悪いあの行為が始まっているはずなのに。
「どうなさったのです。またお加減が優れませんか」
 目を固く瞑って震えるバランタンにクロードは機嫌を伺う。しかし本当は夫が何を求めているか分かっているような色を含んでいるようにバランタンには聞こえた。
「……違う」
 バランタンは不機嫌に返す。
「わたくしだってあなたを丸裸にしてその頑健な肉体の隅々まで愛でたいのです。けれど寒いから遠慮しているの。また悪い流感がぶり返したら困りますもの。心配だからここまで着いて来たというのにそれでは意味がありませんから」
「む、う……」
 過保護に過ぎるのかそれともバランタンを焦らしているのか分からないが、とにかくそんな事はどうでもいいのだ。今は素肌をすべてさらけ出してしまいたい。そしてクロードの服も無理矢理に滅茶苦茶に引き裂いて、お互いの正反対な性質の肌を合わせて様々な物を交換し合うのだ。その為にバランタンはまず自分の服に手をかけて破り捨ててしまおうとする。
「だめだわ、いけません」
 クロードのほっそりした手がそれを止めにかかる。
「服を着たままでできるか」
「できますわ」
 バランタンの前当てが外され、腰回りが緩められる。股間の限られた部分のみが地下室の冷えた空気に触れて怯える。
 これではあまりにも間の抜けた姿になるのではないか。まるで小便でも垂らす時のように。と、バランタンは少々気が萎えかける。
 これから臨む事は単なる排泄とは違う。だが果たして同じかもしれない。クロードはこれから自分を尿瓶のようにただ使うのだろう。排泄の汚れた道具として。
 萎えかけてはいたが、沸き起こったそうした被虐的な考えのせいで、身体の芯の奥の奥から粘ついた熱が染み出てくる。それは腰骨を舐めて股間を滾らせ、全身を痺れさせる。出来上がってしまった厳つい怒張は涙を流し、陰毛をしとどに濡らす。まるでこれからその身にふりかかるすべての淫猥な災難を嘆くかのように。
 クロードの二本の腕がバランタンの服の下にするりと潜り込み、その肉体を愛撫する。六つの拳が立ち並んだように荒々しく突き出た腹を撫で上げ、脇腹の鋸の鋭い刃のような凹凸を一つずつ丹念に検め、そして堂々と膨れ上がった胸をねっとりと揉みこまれる。
「ふんぅ、ぁ、おお……」