折角の休日です。街に出て、有り余る物質の誘惑に包まれ、精神的に籠絡されましょう。私にあなたのお時間をいただけませんか、どうか。
機械らしからぬことを言うT4-2の押しに負け、マナはあえなく家から引っ張り出された。「どうか」と言われるとどうにもこうにも押し負けてしまう。
それに、なんだかんだで、彼の服を引き裂いたり汚したり皴にしたり伸ばしたりしているので、服飾品の一つくらいは買ってあげようかという気もしないでもなかった。
ただ、一人の人間と一体の機械の性愛の相性は頗る良いが、しかし共にそぞろ歩きするとなると、その波長はうまく合わない。
「なに!? なんなのさっきから!」
緩慢に突き出される肘鉄を機敏な横飛びで避け、マナはT4-2に怒声を浴びせる。
T4-2が横を歩くマナに肘を突き出してきたのは、家を出てまず一回目、電車通りに出て二回目、停留場前で三回目。それが今のこと。
「内藤マナさん、あなたは男性と二人で外を歩いたことがありませんね」驚くほど平坦な機械の声。「違いますか?」
「はあ、あるよ、それくらい」
「言い直します。秀さん以外の男性と歩いたことはありませんね」
「あるけど」
「ないのですね」
T4-2は深く頷く。精密機械はもはやマナの嘘を吐くときの作法を知り尽くしていた。
「で、なに、男と歩いてると女は肘鉄食らわなきゃいけないわけ」
「エスコートですよ、マナさん。エスコートです」
T4-2は自身の腕とマナの手を指し示す。
「ああ」腕を組むやつ、とマナは気のない返事をする。
「ご存じなら何故、そう猫のように飛び退るのですか」
「だってあんたの場合肘から武器か光線かなんか出てきそうだから」
「鋭いですね」T4-2の微笑みがマナに向けられる。「非常に鋭いものが飛び出しますよ」そして右手の人差し指と親指を立てて、光線銃はこちら、と撃つ真似。
冗談で言ったのだが、本当に物騒な手腕らしい。
「概念をお分かりになっていらっしゃるなら、あとは実践のみです」
T4-2は改めてマナの半歩先に立ち、恭しく肘を曲げてマナに捧げる。
「そういうの嫌い。歩きにくいから」とマナはT4-2の鋼鉄の肘を一回叩くと停留場を超えて沿線の歩道を歩き出す。
「電車に乗らないのですか」
「乗らないよ」
繁華街までは歩けない距離でもないし、電車賃が勿体ない。マナは衣裳持ちのT4-2と違ってお大尽様ではないのだ。
「私は乗りたいです」T4-2は前のめり気味にマナに申し立てる。
「じゃあ乗れば。広小路で待ち合わせね」
T4-2は白い首巻きをはためかせて颯爽と坂を下って行くマナと、坂の上から停留場に向けてゆるやかに減速してくる路面電車とを見比べ、結局マナの後を追った。
「待ってください。どうやら私は方向音痴のようなのです」
百貨店やビルの立ち並ぶ目抜き通りは休日だけあって人通りも多く、誰も彼も自分の余暇に夢中だった。しかしそこに異質なものが混ざるとたちまち皆が皆自分の予定など忘れたかのようになってしまう。
「衆目の的になることがこんなにも私の自尊心を満たし刺激するとは想像だにしませんでした」
日本初のロボット警官あるいは巨大ロボットのパイロットを、遠巻きあるいは至近距離で見物する人々の視線に晒され、T4-2は満更でもない様子だ。
不躾に衆目に晒される乱暴な快感のためか、その身のこなしは妙に艶かしい。自己愛もここまで来るといっそ清々しい。
「私は人気者ですね。まるでスタア」
寄せるだけで返さない波のような人垣のせいで、歩みはなかなか進まない。そもそも目的地などないのだが。
「でかいし、変な服着てるから目立つんだよ」
こんな様子じゃいつも仕事にならないのでは? 兄は苦労するな、とマナは思う。
「そうでしょうか」手袋に包まれた白い指がトレンチコートの襟元をすっとなぞる。まったく肉感的な指先。「似合っていませんか」
似合っているかどうかについては述べないことにする。本当のことを言っては喜ばせるだけだし、嘘をついてもどうせバレる。
「嫌い」見透かしてくるところが。
「ではこれは」T4-2は通りすがりの百貨店のショウウィンドウを指し示す。「このサマードレス」
街で一際燦くガラスの中で、季節先取りの夏物を纏った婦人服のマネキンが、紳士服のマネキンの差し出す腕に軽く手を乗せている。
ガラスに刻まれたキャッチコピーは“君よ知るや夏の誘惑”。マナには意味がわからなかった。
「さすがにあんたに合うサイズはないと思うよ」
「あなたにです、マナさん。私の見立てでは大変お似合いになるかと」
上半身は袖なしで身体の線にぴたりと添い、ウエストはベルトで絞られて、裾は優雅に広がっている。色は抜けるような白。
「緊密と、拡大。完全無欠の真の調和です」
「首が開いてるじゃない」
胸元は広くVの字にぱっくり割れて、鎖骨は勿論のこと胸の谷間まで見えそうだ。
「そうですね。夏物ですから」
そうですね♡ じゃないんだよ! とマナは心中毒づき、ストールに包まれた首元を無意識に触る。
ショウウィンドウに映るのは浅黒い肌で、三白眼の、愛想の悪い女だ。背も女にしては高い。黒くうねる髪を伸ばしているお陰で、辛うじて女に見えているだけかもしれない。そして季節感のないくたびれた服に巻きつけたストールだけが白く眩しく浮き上がっている。
対して隣の汎用亜人型自律特殊人形の風采は、そのままディスプレイに押し込んでもいいくらい完全無欠。堂々たる体躯に一部の隙もない紳士服。ある意味着せ替え人形のようなものだ。
「試着をなさいますか?」
T4-2はマナの視線がワンピースに注がれていると思ったのか、百貨店の入口を指差す。
「似合わないと思うけど」
「似合わないときは、そのようにはっきりと進言いたします。それに私は、そもそも似合いそうにないものはお薦めしません」
胸に手を当て腰は恭しく曲げ、妙に自信たっぷりの口調。本当に精密機械なのかと疑いたくなる。
「嫌い。あんたのこと。調子いいことばっかり言う」
「どうか悪く取らないでください。あなたを喜ばせたいだけなのですから」
怒りか何か、複雑な感情にマナの頬に朱が差す。傍から見れば、甘言を吐かれて羞恥する、さながら機械の恋人。
何か言い返してやろうかと、マナが直接T4-2に視線を向けたとき。
間近で鳴るシャッター音。
一瞬でT4-2への複雑な感情が揮発し、マナは反射的に磁力を投げつける。どこかの誰かのカメラが燃え尽きる寸前の星のように一際美しく発光して壊れた。
「他人の所有物を壊しましたね。悪い人です」
「写真は嫌い」
それにT4-2は見せ物ではない。本人は刺すような注目を全身に受けて悦ぶ変態だが。
「嫌いな物が多いのですね。後学のために、他にあなたのお気に召さない物をお聞かせ願えますか」
「あんたとあんたとあんただよ」
俄にT4-2の外殻が漣立つように燦く。
マナは自分に親しげに伸ばされかけていたT4-2の腕を反発させて跳ね上げる。鞭のようにしなるその腕が、路上に停めてあった車に当たる。幸にして精密で迅速な反応回路のおかげで車体に傷がつくことはなかったが、不運にも車の持ち主はその近くにいて一部始終を見ていたらしい。
「汚い手で俺の車に触るな!」
非情なマナはT4-2を見捨ててさっさと人混みの一員になった。
「置菱さん、ご無沙汰しております」
その怒声の主が他ならぬ置菱徹だったからである。
「その後如何ですか。お怪我などありませんでしたか」
T4-2は脱帽して優美にお辞儀する。
「また貴様か! 役立たずロボット」
墨田工場でのロボット警官の八面六臂の活躍を見ていなかった置菱の反応は酷く見下げたものだった。
いけ好かない奴。マナは人混みの最前列でひっそりと呟く。
「アンドロイドと言っていただけた方が嬉しく思います」
「貴様、俺の車を潰しただろう!」
T4-2の言葉を遮るように置菱が詰め寄る。
「いいえ、傷一つついていません。どうかご安心ください」
ご覧の通り、とT4-2は飴細工のように照り輝く置菱の外車を両手で示す。
置菱徹が何故自社製の車に乗らないのか、マナには甚だ疑問だ。これでは自社の車の性能や見てくれに自信がないとでも言うかのようなものではないか。
「違う!」置菱が叫ぶ。「上野でのことだ。貴様があの巨大なロボットのパイロットだと言い張るのなら、あのとき、俺の車を潰したのはお前ということになるだろうがっ!」
ダークフェンダーとの戦いでマナが潰したあの一台の車は置菱の物だったようだ。マナとしては、ざまあみろというもの。
「そうなりますね」一方T4-2は煩わしい釈明などはしない。潰したのはマナの制御下でのことだというのに。「大変申し訳ありませんでした。弁償しますので、墨田署の私宛てに請求書を送っていただけますか」
「新車だったんだぞ。よくもそう簡単に済ませてくれる」
「では、どうすればよろしいですか」
「土下座」そこまで言って置菱は、衆人環視であることに思い至ったようでしばし口が止まる。そして目の前で本当に何気なくT4-2が地に膝を着きそうになるのを見て「で済むわけないだろうが!」襟首を掴む。「重ぉ!」T4-2が自力で立ち上がる。
「情緒の忙しい方ですね」
くしゃっと無造作に掴まれたままの襟首に視線を向けて、ちょっと気にした様子で言うT4-2。
「貴様、一発殴らせろ! それで手打ちだ。金もいらん」
「落ち着いてください、おやめになった方がよろしいですよ」
「何!?」
「骨が折れます。慣用句ではなく、物理的に。警告はいたしました」
完璧に侮られ挑発されたと思った置菱は思い切り左拳を振り上げる。洗練されない振りかぶりだったが、T4-2に避ける気はなさそうだし、そうなればこんな大きな的を外す方が難しいだろう。
だが、置菱の腕は鮮やかにT4-2を逸れ、自身の車に吸い込まれていった。
「ゔぁっ」
ウィンドウフレームに張り付く置菱の指で輝く指輪、手首で煌めく時計。おまけでネクタイピンとポケットから飛び出したマネークリップや車のキーも車体に吸い付く。
T4-2の手首も吸い寄せられる。マナの柔らかな掌に。
人垣から一人飛び出したマナは、睨みつけるようにT4-2を見つめる。
「T4-2」
その名を呼ばれ、汎用亜人型自立特殊人形がはっと息を呑むように震えて止まる。
磁力が互いを引きつけ合い……いや、惹きつけ合い、二人の世界のような、浪漫の気配が互いの間に交錯するが……。
「大嫌い。あんた目立ち過ぎる。もうついてこないで」
マナはT4-2の帽子の鍔を引き下げて目深にしてやると、彼を突き飛ばして駆け出した。
決して臆病になったからではない。自分以外の超能力の気配を感じたからだ。
建設中のビルはそれ自体に日光を遮られ、薄暗い。日曜は工事も休止で人目もなく、大通りから一本入っただけなのにとても静かだった。
マナは資材置き場に寄りかかり、そのときを待った。
「元気そう。まさか人集りの中心にいるような人物になっていたとは驚きよ」
足場の組まれた薄暗い陰の中。
血色が悪く、陰気で、無表情で、しかし美しい女が立っていた。
「でもお陰ですんなり見つけられた」
全体的に黒い、スッキリしたシルエット。袖なしのドレスは身体の線にぴったりと吸い付くようにタイトに沿って、優美な曲線を描いている。妖しい魅力を引き立てる、肘上までの長い黒手袋。艶やかな光沢のあるハイヒールは、露出した足首をよりほっそり、スタイルよく見せている。T4-2の受け売りとなるが、全体的に緊密。
長い髪は夜会結びに纏められ、目元には大きなサングラス。
薄幸そうな美少女が妖艶になったものだ、とマナはそこだけは素直に感心してしまう。
女はマナのよく見知った相手だった。限られた狂った人材の中で、一際狂って、マナと一等反りが合った、そんな間柄。
ただ、マナがその後ろ暗い場所を逃げ出した瞬間から、彼女は知り合いでも、ましてや友でもなくなった。
「目立ってたのはあたしじゃない。あんたも新聞読まないタイプね」
マナの言葉に対する反応はなく、相手は自分の言いたいことだけ言い放つ。
「素直に戻ってくるのなら許すそうよ。ただ、そうでない場合は……」
「殺せと言われたんでしょ」
「殺しはしないわよ。悔しいけど貴女一番役に立つもの。良くて半殺しくらいね」
「やれるもんならやってみな」
マナは怒りを爆発させるかのように、打ち捨てられた台車や建材を飛ばそうとする。
その瞬間、目の前に薄桃のモザイクがかかって、マナの前後左右、そして上下が不覚になる。
「流れる星さえ撃ち落としていた貴女がこの体たらく。安穏暮らしは力が鈍るのね」
気づけばマナは地面に倒れていた。視界は靄がかかってぐらぐら揺れて、滅茶苦茶具合が悪い。貧血だ。
マナが磁力を支配するならば、相手は血流を支配する。おそらく隕鉄を持っているようで、その力は圧倒的。
「吸血鬼め」紙のように白い顔で吐き捨てるマナ。
血の気が引いて、身体に力が入らない。
「血は吸わないから吸血鬼ではないわ」黒く細い指が、白い顔の中で毒々しいまでに赤い唇を這う。「だって血は汚いものね。汚い汚い」
女は腕を拱き、マナを見下ろす。
「貴女に身を寄せる場所があることまでは個人的に調べがついているのよ。貴女案外と心理的には小物だから、彼らを盾にとられたら困るのではないかしら。私も本意ではないのよね、貴女を怒らせるのは」だって怖いもの、手負いの狼のようになるから。と吸血鬼は言う。
「だからまだこのことは他の誰にも言っていないわ。貴女血の巡りが悪いわけではないものね、この意味わかるでしょう」今大人しくついて来なければ次は家族を人質にとるからな、と言いたげに途切れる長台詞。
「わかった、一緒にいく。彼らのことは放っておいて、普通の人間なんだから!」
地面に無様に横たわったまま、マナは必死に哀願してみせる。
「私達は戦争のために作られた。人知を超えた力で敵を一方的に蹂躙するためだけに生まれた。ならばそのように使われるしかないのよ。と、貴女常々言っていたわね。あなたほど、破壊に向いている人はなかなかいないわよ。貴女が相容れるのは私達だけ。またあの腹立たしい蒐集屋共をぶちのめしましょう」
吸血鬼の黒い手が路上に横たわるマナに差し出される。薄暗い建物裏で、その顔だけが妙に白く明るい。
マナはその手を取り、勢いよく引っ張り抱き寄せた。
「よし、一緒にいくか!」行くというよりは、逝くという感じだが。
マナは磁力を発揮した。
頭上の鉄骨置き場の留め具が銃弾のように弾け、重たい鉄骨が流れるように落ちてくる。
マナの居場所や家族のことをまだ誰にも言っていないのなら、この女だけ仕留めれば済む。
マナが己と相手の死を希ったそのとき。
勢い良く何かに引かれ、二人は死の運命から遠ざけられた。
地面に軟着陸したマナの胴に巻き付いたケーブルが外れ、持ち主の元へ戻ってゆく。
「どこへ行くというのです」工事現場の入り口に立つ男は陽光を背にしているためその表情は伺えないが、目深に被った帽子の下で微笑を浮かべているだろうことは想像に難くない。「方向音痴の私を置いて。それに先約があるではないですか」
T4-2が地面に倒れ伏しているマナと黒衣の女の間に勇ましく立ちはだかる。
「平和と自由をなすという」
その巨躯はさながら盾だった。この世のすべての災いからマナを覆い隠すための。
「あなたは超能力者ですね」T4-2は女に指先を向けて問う。「違いますか?」
素早く起き上がり間合いを取っていた吸血鬼がサングラス越しに邪魔者を睥睨する。
「貴方、彼女の知り合い? ニヤけた男ね。貴方自分のことを相当屈強だと思っているでしょう。けどそういう人ほどすぐ落ちるのよ」
己こそ自分の能力の万能さを疑わない女がT4-2に能力を発揮する。
だが血の通わぬ機械には無駄なこと。
青褪め倒れる気配のない男に、女はサングラスをずらし、その姿を直に瞳に映す。
「なにそれ」継ぎはぎの死体の怪物か何か? と吸血鬼は戸惑いを浮かべる。
「申し遅れましたが、私は墨田署刑事課の内藤丁」T4-2が優雅に脱帽する。晒される機械仕掛の顔貌。示される新品の警察手帳の中で輝く金の盾。「あるいは牧島重工製四五式トロイリ四型汎用亜人型自律特殊人形第弍号」
ロボット警官は清々しい声で続ける。
「平和と自由のために作られました」そして、あなたのため、とマナをちらと振り向く。
「冷血漢どころか無血漢だから、あんたの力は完封だよ」
命が惜しけりゃさっさと帰れ、とマナは地面に寝そべったまま追い払うように手を振る。
「ずるいわよ、そんな物持っているなんて」
「誰の物でもないよ」
「じゃあそいつなぜ首を突っ込んでくるの!」
女の紅く形の良い唇が尖る。
「私もこの方を切に必要としているからです。彼女や彼女のご家族の危機は私の危機です。彼女がいなければ、私はただの良い人に過ぎず、弱く憐れで不自由な人造物。ちなみに、私は名も無き怪物ではなく、アンドロイドです」
白い両の手が大仰な所作で機械仕掛の胸に宛がわれる。
「そして私はこの方のご一家と共に暮らしておりますので、あなたが薄汚い手を使おうとしても無駄です。必ず阻止します」
余裕のある言動に分が悪いと見てとったのか、女からの戦意は消えた。今はサングラスの蔓を咬み、場を収めて逃げる機会を窺っている風に感じられる。
「お帰りになるのでしたら、どうぞ。ですが隕鉄は置いて行っていただけますか。手に余る力を持った人間はよくないことを考え始める。と、彼女も仰っていましたよ」
「お前こそ、余計なことをしないで。少しでも動いたらその女の頭の血管を」ぶち破る、と言い終わらぬうちに目にも止まらぬ疾さで伸びたケーブルは白くも黒い女を絡め取り、引き寄せる。
女の柔らかい痩身が金属の軀に抱き止められる。敵対しているとはいえ、そこに荒々しさはなく、至って紳士的。
「聴き入れていただけないなら仕方がありません」機械仕掛の肘が曲げられると、そこから真っ白な刃が勢い良く飛び出す。「勘違いなきよう。常ならばいたしませんよ、このような倫理規定違反は」そして鋭い刃は鮮やかに女の黒髪を切り裂き隕鉄製の髪留めをその身と分断した。
「元の髪型に戻るまでにかかったサロン代は墨田署の私宛へご請求下さい」
T4-2は軽やかなショートヘアになった女を遠くへリリース。肘を伸展させれば白い刃は軽快に閃きあるべき場所へ戻る。戻らないのは飛び出す刃に斬り裂かれた服の肘部分だけ。
なんとも鮮やか。そしてマナの好悪に激烈に訴えかける手腕。
マナがT4-2から視線を外したときには、もう女は影すらもなく消えていた。
「貧血ですね。座っていれば、すぐに回復するでしょう」
T4-2は地面に座り込んでいるマナの傍に片膝をつく。
「あんたが煽るから、あたし脳卒中にされるところだったじゃない」
「申し訳ありません。余計なお喋りをしてしまいました」
一言目に状況の説明を求めてこないのも、マナの自主的なそれを促されているようで癪である。
「あんたに細かく説明する義務はないからしないわ。ただ、あたしはああいうのに追われてるとだけ言っとく」
「狙われているのではなく、追われているのですか。あなたも人気者ですね。まるでスタア。いいえ、寧ろ」T4-2は己の胸に二本指を突き立てる。「スタアを堕とす方でしょうか? そして私はあなたに夢中」
どこか弾んだ楽しそうな言い方に身振り。
「こういう邪魔が入るのが面倒だったら、他の“悪い人”を探して」
T4-2はその表情にそぐわしい、穏やかな笑い声を漏らす。
「とんでもない。寧ろ僥倖です。あなたといれば超能力者の方からやって来てくれるのですから。今朝も言いましたが、私は超能力に興味があります」
そしてマナに恭しく戦利品が差し出される。
「お使いになっては。あなたにも大変お似合いになるかと」
猛禽の嘴のような髪留め。それ自体が薄い隕鉄でできているようだ。
「そんなもんさっさと壊して」
「では、一思いに散らせてやりましょう」死に際の星のように、とT4-2は髪留めを放り投げ、手袋を脱いだ右の人差し指でそれを指し示す。その鈍色の指先から迸る一本の細い閃光。真昼の空に弾ける星の欠片。
自由と平和。この男といれば叶うのだろうか。
「先に言うべきでした。流れ星に願い事はしましたか?」ついうっかり、と男。
「光線は市街地で撃っていいわけ」
他人には散々、機関銃を撃つなと言ったのに。
「零距離ではないですし、私は外しませんから。それよりも、資材置き場を崩したあなたの方が……」
T4-2の指先が翻りマナを指す。何を言いたいのかはよく分かる。
「悪い人」マナの呟きにT4-2は然り、と頷く。
「本日はお付き合いいただきありがとうございました。昨夜からあなたを監視する者を検知しておりましたので、外にお誘いしたのです。ご近所でこのような大立ち回りはなさりたくないでしょう」お夕食の支度にも間に合いますね! とT4-2は胸の前でお上品に指を組み合わせる。
「なんだ」あたしと「街に出たくて誘った訳じゃないんだ」マナの心の声は幽かな呟きとなって出ていた。
それなら最初からそう言えばいいのに、と思うが、たぶんはっきり目的を告げたら、マナが一人で飛び出していくと踏んだのだろう。果たしてその通りだ。
「それも多分にありますが……私があなたといるときに、相手には一度釘を——吸血鬼ですから杭の方が相応しいですが——刺しておいた方がいいと考えたのです」
機械なりの気遣いはわかるが、しかし非常に面白くない。
「あたしを妨害するなと言ったはず」
「あなたは“隕鉄を盗んで壊すのを妨害しないこと”と仰ったのです。私が行ったのは妨害ではなく、援護です」
役に立ったでしょう、とでも言いたげにぴんと伸びるT4-2の両の人差し指。
「私は大抵の超能力に対抗できると思いますよ」私の軀そのものを破壊できるような能力でもない限り、とT4-2はマナを意味深に見て付け加えた。
このロボット警官は、自分への脅威的有効打となり得る超能力者の懐に飛び込み、真っ先に手中に引き入れたのだ。マナは怖気と呆れ半分で内心舌を巻く。
つまり、懐柔するのは他の“悪い人”——機械公爵やらマナ以外の超能力者——では駄目だったということだ。
まったく、このロボット警官はマナの手に余る!
「援護なんて、そんなことする必要なかった。あたしは別に……」
「あなたが死ぬのは損失だとお伝えしたはずです」T4-2がマナの目の前に白い掌を向け、珍しく言葉を強く遮る。死んでもいいだのなんだのはもう聞き飽きたとでも言うかのように。「あなたがそれを言うのなら、私だって置菱氏に殴られても……」
最後まで聞かずとも何を言いたいのかはわかる。
置菱が自分を殴って気が済むのならそれでいい。殴られて痛いわけでも、怪我をするわけでもないのだから。
マナはそんなT4-2の言葉に自身の心情を被せる。
「殴られても何でもないのと、殴られないのとでは違う。それに……」
今度はT4-2がマナの言葉を継ぐ。
「スカっとしました」
マナが言いたかったのは、置菱に怪我をさせずに済んだ、ということだったのだが、よくよく考えたらそんな言葉は良い人過ぎて自分らしくない。まるで目の前の美徳回路に支配された男のようではないか!
「ところで、あの黒衣の女性はあなたのご友人でしたか? それとも……」
T4-2が立ち上がり、マナに白い手を差し伸べてくる。
「あたしに友達はいない」
マナはなんとか自力で立ち上がる。まだ末端への血流は悪く、足元はおぼつかない。
「ご安心ください、私がいます」
T4-2がマナの肩を支える。
「あんたは友達ではないからね」
マナは肩からT4-2の手を払い落とし、彼の肘を曲げさせる。そして彼の腕に自身の腕を絡ませて、男の軀に寄りかかってやった。
「嗚呼、服が破れてさえいなければ、もう少し格好がついたのですが」とT4-2は口では嘆いてみせた。
マナは外套の裂け目からT4-2の素肌に触れる。彼の肌に線状模様が迸り、マナの磁力が炸裂して工事現場は来たときよりも整然と片付けられた。人間磁石とて、破壊だけが能ではない。
「良い人ですね」
「嫌味? いいからほら、歩いて。早く」
早く帰りたかった。
出血したわけでもないのに、頭から失せた血はどこへ行くというのだろう。下卑た話になるが、理性は失せて本能が滾る。
再び大路に戻れば、やはり人通りは多く歩みは鈍る。
マナはT4-2に絡み付けていない方の手を彼の肘に伸ばす。わざと淫らに、指一本でなぞるように触れてやる。
T4-2が身を震わせ、幽かな濡れた声を出す。
「服が破れててよかったと思わせてあげる。一思いに散らせてやるからね」蜘蛛の子のように。
人垣が割れる。人の礫それぞれが身につける時計が、腕輪が、ネックレスが、カメラが幽かな見えない力に引かれて。
まるで海が割れるように二人のための道が開ける。その先には路面電車の停車場。そこに滑り込んでくる電車。
大っぴらに派手に力を使ったことを咎めるでもなく「帰りは電車で」異論は認めません、とそれだけ手短に言うと、路面電車に向けてケーブルを伸ばすT4-2。
マナは機械仕掛の腕にしっかり抱かれて、閉まる寸前のドアに飛び込む。
「駆け込み乗車、これも倫理規定違反でした」
「これからあんたのする倫理規定違反は全部あたしのせいすればいい」
あたしは悪い人でいいから、と車内の人目など構わずに、マナはT4-2の首の後ろに手を回し、背伸びをして接吻した。
驚きに開いたまま固まっていた機械仕掛の腕もやがて和らぎ、マナの身体を包み込んだ。
唇を塞いでやっているのに、蕩けるような低い声がマナの耳朶を打った。
「嗚呼、私の悪徳」