洗濯日和 - 2/9

「今日は汚れを濯ぐにはとても良い日です」
 そうか? とマナは東の空を見る。
 太陽は完全に地平線から浮きあがっていたが、その身には厚い曇を纏って、朝から薄暗い。蛇の目でお迎え嬉しいな、となりそうな空である。
「雨は降りませんのでご安心を。暗雲は爽やかな春風に追いやられ、昼過ぎには快晴です」
 玄関先のT4-2は人差し指を立てた右手を天に向ける。これで雲の間から光でも射せば、さながら宗教画か何かである。
「私の天気予報は機関銃並みに当たります」
「一発必中?」
「それは精密射撃の方です。機関銃の命中率は九割九分五厘です」
 水を切ったシーツを濯ぎ用の盥に移すと、T4-2は腕を捲りなおす。
 火薬だの光線だのが詰まった太い腕は洗濯にも非常に有用。
 驚いたのは、水と洗剤でいっぱいの盥に右腕を突っ込んで機関銃をぶっ放した事だ。ものすごい回転数でぶん回される銃身、山の様に泡立つ石鹸水、銃弾の代わりに舞い上がるシャボン玉、もみくちゃにされるシーツ……。まったき平和的な用法。
 汎用亜人型自律特殊人形はこれを「機械的洗浄!」と得意げに宣ったが、大事な得物を洗濯に使う気が知れない。マナは磁力を日常の仕事に使う気なんてさらさらない。
 内藤家にも洗濯機くらいはあるのだが、T4-2は二層式のロートルに自分の上等な衣類を任せる気はないようだった。
 T4-2は泡立つ盥に自分の衣服を恭しく浸し、極めて優しく手洗いを始める。
「自分のものはそうやって丁寧にやるわけ」
「血液の染みは重点的な洗浄が必要です」
 マナの目の前に広げられた外套の胸元には赤錆色の凝り固まった染み。
「怪我したの」
「私を冷血漢、無血漢と仰った事をお忘れになったのですか。私の血ではありません」
 無駄だと言うのに私を殴る下手人がおりまして、それは酷い有様で、と俯く顔。影が差してアルカイックスマイルが深まる。血気盛んな犯罪者を憐れんでいるかの様でもあり、血の飛び散る顛末に悦んでいるかの様でもあった。
 マナは玄関前の側溝ブロックに座り、T4-2の洗濯模様を興味深く観察する。
 お次はグレーのブレザー。胸から腹部にかけて茶色く滲んだ様な染み。
「これは珈琲です」
 聞き込みの際に喫茶店の女給に対して突然話しかけたせいで驚かせ、ぶちまけられたらしい。突然でかい機械人形に声をかけられたらそりゃあ驚く。
 そして生成り色のベスト。精緻な底模様を横切る鮮やかなオレンジ色。
「これは中華蕎麦」
「食事はしないんじゃ?」
「あなたのお兄様はなさいますよ」
 つまりマナの兄が食べようとしたか食べていた物をかけられたという事か。
「なんか怒らせたんでしょう」
 T4-2は兄の仕事上の相棒であるが、兄にとっては扱いにくい大型新人。
 兄は食べ物を粗末にする男ではないが、裏を返せばそれだけの事をT4-2がやらかしたのだろうと考えるのが自然だ。
「いいえ、驚かれただけですよ」
 昼時に入った食堂にて、T4-2が窓の外を歩く指名手配犯を目敏く見つけ、それを今まさに食事を始めようとしていた相棒に伝えたために、驚きやにわに立ち上がった相棒が料理を溢し、T4-2にかかった次第らしい。
「結果はどうあれ、一応仕事はしてんのね、あんた」
 腕を捲り、跪いて目の前の仕事をこなす人を模した機械の姿は神々しくもあり、艶っぽい。
「昼も夜も十二分にお役に立てていると自負しております」
 マナを見て浅く頷いてみせる様相は、微笑みを深めているようでもある。
 自信過剰で淫らな機械。マナの情緒を朝っぱらから夜のように狂わせる。
 マナは徐にT4-2の前に移動して腰を折り、その秀でた額を人差し指でつんと突く。
「頑張ってね、内藤丁くん。もし辛い事があったら何でも言って。指をさして嘲笑ってあげる。いい事は教えてくれなくていいから」
「優しいお言葉、大変痛み入ります」
 マナは自分を仰ぎ見て求める様に差し出されてくる唇に己のそれをくっつけようとするが……キスは隣の家から騒々しく現れた隣人のせいで中断された。
「あーあ、朝っぱらから汚れた洗濯物見ちまったよ」
 それは縮れ髪の五十過ぎの女。割烹着の和装姿で箒片手に、嫌味っぽく頭を振る。
「おはようございます、横尾さん」無礼な隣人にもT4-2は折り目正しく挨拶する。「何か洗い物があれば、一緒にお洗濯いたしましょう。大物でも、色柄物でもお任せください」
 内藤家のお隣さん、横尾は深い深い溜息をつく。
「汚れた洗濯物ってのは、あんたらの事だよ。突然増えた素性のわからない三人姉弟だけでも気分が良くないってのに」あとは失踪事件に引きこもり……としみじみ思い起こすように小声で付け足す横尾。「今度は物真似機械」
「朝から嫌味なババア」
 家屋にもたれかかり腕組みをし、不貞腐れた顔でマナは言い返す。
 T4-2を物真似とはよく言う。どこのどいつの真似をしたら、こんなに偏執的で変態を極めた野郎になるというのか。
「汚れた洗濯物に、物真似機械……なんとも詩的で哲学的な言い回しではありませんか」T4-2は感心している風。剣呑なやり取りよりも目の前の洗濯に執心である。
「この辺の環境も悪くなったもんだよ」
 ロボット警官や、ほど近くで建築中のマンション、そしてそれに従事しているのであろう重機を箒の柄で示す。洗濯に従事する鋼鉄の男も、鉄筋コンクリート造の建物も、今は始業前で眠っている巨大な建築重機も、横尾にとっては大変目障りなのだろう。
「治安はいいはず。警官が二人もいるんだから」
 鼻息荒く道路を掃き散らかす女に、マナはVサインにした二本指を向ける。こんな仕草、まるでT4-2のようだと内心自嘲する。
「この界隈の住民は大抵、その機械の事、薄気味悪いと思ってるんだよ」
 まあ、そうなのではないかとはマナも薄々思っていた。はっきり言ってくるのはこの口さがない隣人だけだが、道端で交わされる密やかな会話や、T4-2を見る視線の色で察しはつく。
 寧ろ直接言ってくれる横尾の方が言い返せるだけ気は楽だ。
 それに口うるさい隣人とのやりあいはマナの日課のようなものだった。
「薄気味悪いと思うのは、その人の自由。あたしがあんたをうるさいババアと思うのと同じで」
 それにしたって酷い言い様。内藤家に来てからというもの、T4-2はこの地域に溶け込もうと粉骨砕身していたというのに。害虫害獣の駆除やら、町内会の清掃やら、公民館の修繕やら、公僕の忙しい身の上ながら参加していたにも関わらず。
「あんたらこの人に感謝するって事がないのね」
「遠巻きに見るならいいけどさ、得体の知れない力を持ってるもんを自分の近くに置きたくないと思うのは当然だろ。いきなり狂っちまってこの辺を壊して回ったらって、誰だってちょっとは思うもんさ」
 そんな事をこの汎用亜人型自律特殊人形がするわけがない。寧ろ精神が満足に整備されていない自分の方がその可能性は高いのだが、とマナにちらと不安が過ぎる。
「その懸念、ご心配は十分理解できます」
 T4-2は予備動作なく突然立ち上がり横尾に相対する。真摯な声色に眼光だが、その妙に物分かりのいい様さえも横尾には奇妙で不気味に映るらしく、突然自分に向けられた返答に狼狽している様子で言葉を飲み込む。
「美徳回路が機能している限り私はあなた方人間に危害を加える事はありません。一方であなた方はいつでも、気が向いた時に私を鉄屑にする事ができます。私の美徳回路が狂うなどという事は万が一にもないと言い切れますが、億が一にもそうなった場合はマナさんが私を破壊しますので、どうぞご安心なさってください」
 泡だらけの濡れた手がマナを指差す。
「この宇宙において彼女だけが、私を最も効率的かつ瞬間的に抹殺できます」
 そう仰々しく言い放つとT4-2は再び大いなる使命に向き直る。即ち洗濯。
「あんたが?」
「あたしが?」
 そりゃあやろうと思えば出来ない事もないだろうが、勝手に大それた責任を負わされては困る。
 マナの“得体のしれない力”など知らない横尾は鼻で笑う。
「ま、染み抜きは早いうちにしちまわないとね。あんたら姉弟みたいにこびりついちゃ困る」
「確かに。染みは早いうちに対処しなければいけません!」
 汚れと格闘中のT4-2が嘆きにも似た声を出す。どうやら満足に取れたのは血の染みだけのようだった。
「はあー? この人はその辺の人間よりずっとはるかに滅茶苦茶安全だし、追い出す権利なんてこの世の誰にもないんですがぁー。大体なんであたしに言うの。本人に直接言えばいいじゃない。言えないんでしょ、でかくて強そうな奴には」
 マナが畳みかける様に吐き捨てる。
 しかし伊達にマナの二倍以上生きていない横尾もそれくらいでは引かない。
「そんなにあたしに盾突くんなら、もう服作ってやんないよ!」
 これが横尾の必殺技である。
「汚いババアだな」
 そうしてマナが口を噤むのがいつものお約束。
「もっと殊勝な態度をしな」
「ごめんなさいババア」
 貧乏なマナにとって、材料費と安価な手間賃で適当に服を作ってくれる隣人は大変便利な、無くてはならない人物だった。
「横尾さんは仕立屋さんなのですか!」
 終わった話に新たに参戦し引っ搔き回すのはT4-2である。
「マナさんの服は彼女の身体に寸分の狂いもなくフィットしています。生地の裁ち方、縫い目の一つとっても完全無欠」いささか本人の服の管理はよろしくありませんが……と、くたびれたマナの服を一瞥し、続ける。「まさか既製品ではあるまいと思っていましたが、果たしてお隣さん製だったとは! ミシンはどちらの物をお使いですか」蛇の目? と機関銃のように捲し立てるT4-2。
 マナは唖然とする。自分はこの機械を必死に擁護していたのに、こいつときたら。
「どうか私の服も作ってはいただけないでしょうか。正当な価格はお支払いしますし、生地も用意します」
 T4-2が持ち前の圧迫感で横尾に詰め寄る。げに強きは空気の読めない人物である。
「あんたみたいなデカブツの服なんかつくってられないよ。身長は二メートル弱? 首回りは五十センチはないと困るだろうね。肩幅五十五、胸囲は百四十、胴囲は九十、着丈は……」横尾は手で空を切りながら、汎用亜人型自律特殊人形の寸法を次々と言い当てる。「二十代の健康な右利きの男の平均値ってものを知ってるかい? あんたは規格外も外」
「素晴らしい! まるで超能力です」T4-2が胸の前で指を組み合わせる。「あるいはスパイ」
 言い得て妙だとマナは思う。横尾はいつも誰かを監視しており、スパイじみている。特に内藤家への執着ぶりはT4-2に次ぐ。
「本当に薄気味の悪いやつだね」
 巨大な上体を乗り出して個人空間を侵犯してくるT4-2に、さしもの横尾も逃げをうつように身を退けた。
 空はいまだ曇天。