乗船日和 上 - 1/6

 紫色の薄暮れに緑色の海はみしみしとのたうつ。まるで緑青のこびりついた銅の鱗が寄せては返すよう。
 僕の背後で閃光が回転して暗闇を断続的に分つ。明滅する遠くの闇の中、浮かび上がるのは大きく張った帆に夜風を孕ませた帆船。ソレイユロワイヤル……もっぱら現れるのは夜だというのに、その船は地上を遍く照らす太陽の名を冠するのだ。
 振り返ると巨大な眼を思わせるレンズが今宵もつつがなく、ぎゅる、ぐると回転して闇を切り裂く光を送り出している。奇妙な帆船が岸辺に迷いこまないように。
 光源を回り込み、海とは反対の方角に立って双眼鏡を構えて見下ろす。
 鬱蒼とした真っ暗な森、その周りにぽつぽつと灯る家屋や海に飛び出た桟橋の灯りが揺れて見える。今日は少し風が強い。
 森に程近い砦から一つの灯が迷い出てくる。彼女だった。
 僕はあまり物覚えがよくない。先の戦争で負った頭の怪我のせいだった。元から血の巡りがいいとは言い難かったが、それがより顕著になった。親姉弟も、僕があまりにも変わり果ててしまったと泣くくらい。“変わった”ではなく、“変わり果てた”と言われる事の隔絶感にはもの寂しさがあった。
 だから何度聞いても彼女の名前を覚えられなくて、満足に呼びかけられた事は一度もない。忘れないうちに紙に書きつけた事もあったが、彼女はその紙をくしゃっと丸めてボイラー直結のダストシュートに突っ込んでしまった。僕は喉の奥で変な声を出した。だって今となっては紙は高価だから。かなり。
 無理して覚えるほどの名前ではないし、僕の好きなように呼んでもらう方がいいと彼女は言った。彼女も僕の名前を口にする事はあまりない。ねえ、とか、あなた、とか、灯台守さん、などと呼ぶ。たまに大尉さんとも。もう退役して久しいのだけど。僕と彼女は大抵二人きりだから、まあそんな呼び方で事足りるのだろう。
 人となりを表すのに名前はそんなに重要ではないのだろうが、彼女の名前はたぶん、きっと、彼女に相応しいくらい美しいんだろう。そう思うと僕は自分の記憶さえままならない事が恨めしい。
 彼女は桟橋に繋がれた小舟に荷物を積み込んで、自身が乗り込む前にこちらを見てちょっと手を上げて笑みを浮かべた。彼女から僕が見えようはずもないが、彼女が無事にこの島に着くまで僕がこうして見ている事を彼女は知っているのだ。双眼鏡のレンズの反射が暗い空に幽かに見えて、それを頼りに僕を探すと、以前そう言っていた。
 そういう事をされると年甲斐なく勘違いしてしまうからやめて欲しいと彼女にはっきり言った事がある。いや、実際は震えてどもりながら、ついでにちょっと泣きそうだったし、もっとたどたどしく幼稚な言葉で、懇願とか哀願に近かったけれど。
 情けないが僕はなにもかにもが不自由なのだ。頭も悪ければ足も悪いし、顔だって、身体だって、幼児に引き回された襤褸人形のようだから、本当に酷い。生まれつきの部分もあるが、大半は南部の奴らに捕まって受けた拷問の……一人の時にこれを思い出すと精神的にあまりよくない事態になるのでこの辺でやめておく。
 とにかく、勘違いするからやめるよう伝えると彼女は、勘違いではないと返してきて、僕はとても驚いた。かつての同僚が火薬庫でいきなりタバコを吸い出した時より驚いた。なんなんだこいつは、常識的に考えて理解できない、という類の恐怖にも似た驚きだった。
「床に膝をつきなさい」と、凍りついている僕に彼女は言い放った。いつもの優しく気遣わしげな表情や声はどこかに引っ込んで、怒っているような凄絶な表情と触れれば切れそうな程に冷たい声が部屋の空気と僕をびりっと震わせた。
 狼狽えると、僕は意味のある言葉なんていつも以上に一つも口にはできなくなってしまって、赤ん坊の喃語のようなものを口からぽろぽろ溢して、身体を縮こまらせて震えるしかなくなってしまう。
 そういうおどおどした態度に痺れを切らして彼女を怒らせてしまったのだと思うと僕は自分が情けなかった。悲しかった。彼女に嫌われたくなかった。だって本当に本当に好きで大事でなくてはならない存在だったから。しかし怒っているような、僕をいたぶって愉しんでいるような雰囲気が彼女から匂い立って——こんな事を言っては到底反省していないように思うだろうが——僕はすごく高揚していた。抑えの効かない震えが一段と大きくなる程に。
 右脚代わりの杖を取り落として、膝をがっくり床について、それでやっと視線の高さが同じくらいになって、彼女の顔がぐっと近付いてきた。色素の薄い瞳の中に、阿るような、媚びるような、情けなく醜い顔の僕が映った。
 柔らかな唇が僕の額に触れて、膨張した右の瞼を、引き攣れた頬の傷を伝い、かさついた唇にたどり着く。僕はキスなんてした事がなくて、みっともなく硬直しながらされるがまま。彼女は僕の唇を柔らかく食んで、舐めて、時折鼻にかかった愛らしい吐息を漏らしていた。
 額と目の奥が熱くなって、勝手に涙が溢れた。自分を憎からず想ってくれる相手が僕に触れて口付けしてくれるなんて何十年も生きていて初めてで泣いてしまう程嬉しかったのだ。
 肩を強く掴んでいた手と唇が離れた時には完全に僕の股間は欲に兆していた。
「泣いているの。嫌だった?」
 天鵞絨のハンカチのような手触りのほっそりした指が僕の涙を拭ってくれた。その時の眉を垂らした困ったような透明感ある彼女の顔といったら。
 嫌なわけがなかった。困らせるつもりも。
 ただ、もっと怒りをぶつけられて、酷い事をされたかった。彼女に手酷く虐められれば僕の心の蟠りが全部晴れて、救われるような気がした。
 きつく縛りつけられて、口汚く罵られながら、杖で尻を引っ叩かれる仕置きをされたい。泣いても謝っても許されずに、執拗で暴力的な快感に果てるのを夢想した。
 しかし僕の浅ましい望みを清廉な女性に押し付けるのはあまりにもおこがましく、恥知らずだ。僕は小さく首を横に振って、嫌ではなかった事だけ伝えようとした。だが僕の物足りなさを彼女は敏感に感じ取ったようだった。よく気がつく女性なのだ。
「言いたい事があるならはっきり言って」
 彼女の足が僕の股間を柔らかく撫でるように蹴りつけて、僕は……みっともなく射精した。今でもこの思いもよらない出来事を思い出すだに埒を明けそうになる。
 それが僕と彼女の初めての肉体的な接触だった。
 後で本人から聞いたところによると、彼女がこんな意地悪な態度を取ったのは僕がそれを望んでいるように見えたから、らしい。彼女はすごく気が利く女性なのだ。それ以降もそういう雰囲気の時はどことなく支配的だ。
 ふと自分を取り戻し、僕は外とこちらを隔てる分厚いガラスを袖で拭う。熱い息を溢しすぎて曇ってしまっていた。彼女が到着する前に興奮しすぎだ。まるで盛りのついた犬。待っているだけでこんな体たらくだと彼女が知ったなら僕を軽蔑するだろうか。いや、それとも……。彼女の反応を想像するだけで、来たる主人のためにしっかり躾けて準備した肛門が疼いて挿入したままの異物をきゅうと締め付けた。仕込んだ潤滑剤が腰の奥で熱くとろとろ沸る。
 彼女は灯台に二日と開けず日用品を届けてくれる。保存の効く食材や、什器、洗剤、服、雑誌などなど。この辺の遺構で物を拾って生計を立てている者や、遠路はるばるやって来るセールスマンなんかからそうした品を仕入れているようだ。
 その中には時に珍しい物もあって、彼女は性的な愉しみのために荷物に紛れ込ませてくる事がある。
 例えば尻の中を拓く淫らな道具。開く、ではなく拓く。敏感な性感帯にするという意味。
 淫らで滑らかな丸みを帯びたそれを初めて見た時は、間違って紛れ込んだ子供の玩具か、何かの機械の部品の一部かと思ったものだった。それを矯めつ眇めつ眺めている僕に、彼女は用途を教えてくれた。
「少しずつ大きなサイズにしていくの。最初だから、今日は入れるのを手伝って差し上げる。だからよく覚えてね」フォロー付きの非常に行き届いたサービス。彼女の細やかさに僕はすごく感心した。
 まずは直腸内を清浄にする。言われるがまま僕は彼女に背を向けソファに横になった。ズボンを下ろしてゆるく膝を曲げ尻を突き出す。羞恥心はあるが、彼女に尻を晒すのは初めての事ではないから従順に従った。ほっそりした指に尻たぶを掻き分けられて、固く閉じた肛門に異物があてがわれた。細く、冷たい。嫌な感じ、記憶の底に封じ込めていた凄惨な情景が浮上しそうになった。震えて身体が硬く引き締まってしまう。
「力を抜いてね」ゆっくり深く息をして、と僕の背を温かな手が撫でた。
 僕は必死に息を整えて脱力に努めた。余計な事を考えないように、ただ彼女の優しい手の感触にだけ心を注ぐ。
 ノズルが肛門を通り抜け、直腸にしっかりと到達。吹きかけられる冷たい液体。排泄物除去剤……浣腸薬だった。
「あっ、あぅ……や……」内臓に液体を仕込まれる感覚は“あれ”に似ていた。あんな事をされたのは随分前なのに身体は媚びる事を覚えていて、熱い吐息と喘ぎが溢れてしまった。「はぁ、おっ、おぉ……」彼女は僕がこうなる事情を知っているが、実際目の当たりにさせたくなかった。「やぁ、やだ……ちがう、ごめ、なさ……」僕は自分の身体を抱いてできるだけ縮こまらせた。
「大丈夫、わかっているから。全部わたしの記憶になるから。わたしだけ」
 冷たい薬剤が内臓に染み込んでゆく感覚。次いで腸がぐるりと重たく蠕動した。差し込むような腹痛が起こり脂汗が噴き出て、そして強烈に催した。覚悟はしていたけれど、想像以上のものだった。
「ぐぁ、いっ……うぐぅ」
 肛門から容器が引き抜かれて腹痛と便意に汚い呻き声をあげた。何分かは我慢しないといけないと言われていたが無理そうだった。僕は厭な感覚を刺激しないようにゆっくり起き上がり、のろのろとバスルームに向かった。どうにかこうにか便座に腰掛けて安堵したところで、解放を望む肛門が堰き止められた。僕の背から回された彼女の手だった。
 腹痛は胃袋をもひっくり返し、嘔吐感が迫り上がってくる。出させてくれと僕は懇願したが、彼女は首を縦には振らなかった。それどころか嗜虐的な笑みを浮かべて僕を見ていた。苦痛とか羞恥とか快感とかがない混ぜになって、もうわけがわからなかった。
 腹も胃も腰も痛んだ。腰が痛むのは浅ましく勃起していたせいだった。浮かんだ涙で目の前の笑顔が滲んだ。
「ッ、ごぷっ、えォ゛……」
 前触れもなく、僕は唐突に嘔吐して彼女の胸元を汚してしまった。泣きながら謝る僕の頭を彼女は優しく抱きしめてくれた。彼女の手は肛門から離れていて、僕は吐瀉物塗れの柔らかな胸に頭を預けて、すべてを放出した。腸の穢れも、精液も、ついでに尿も。あんまりにもあんまりな解放感だった。