乗船日和 上 - 6/6

 目覚めると外はもう闇が濃く、夜半に近いようだった。それでも蒸気機関に支配された室は温かく、裸で床に寝そべっていても溶けるように心地よかった。
 いいだけ僕の穢れを吐き出した床も、彼女の欲を吐き出された僕も、綺麗に清められていた。彼女は本当に手早く気が利く。
 後片付けをしてくれたであろうその人は一糸纏わぬ姿のまま窓辺で双眼鏡を覗いていた。冴え冴えとした月の光が彼女の横顔と肌を照らして、この世のものでない何かのように見えた。夜な夜な海を放浪する船のような、そんな感じ。グロテスクという意味ではなく、儚げで、陽の光の下では決して存在できないものという意味。
 半身を起こすと拘束されていた腕と少々普通でない使い方をした腰が余韻に甘く痛んだ。僕は呻き、その声で彼女はこちらを振り向いて、おはようと言った。僕の仕事は暗くなってからが本番だから、その挨拶でまったく間違いはない。
「帆船がいるのよ」あなたには見慣れたものでしょうけれど、と白い指が窓の外の暗闇を示す。
 傍に置かれていた杖を支えに立ち上がり、僕は裸のまま彼女に倣って窓辺の物入れ兼スツールに腰掛けて外に目を向ける。夕刻に見た時と変わらず、滔々と波打つ水面の上にはソレイユロワイヤルが浮かんでいた。
 月を背負った帆船はまるで大昔の豪奢なドレスを纏った女体のようで幻想的に見えただろう。それが滅多やたらに破壊された人体で構成されてさえいなければ。
 夜風に重たく靡く、十重二十重に連なる人皮の帆。帆の間に張り巡らされたステイルは捩れた無数の臓物。マストには一見して人が縛り付けられているようにも見えるが、それ自体が無理に引き延ばされて古木のようになった人体が組み合わさり天高く積み上がってできたもの。その天辺から蜘蛛の巣のように垂れ下がるシュラウドはしっかりと結びつけられた筋や腱で、所々に襤褸きれのようになった人間が逆さに引っかかり、楽しそうに揺れている。船体は整然と敷き詰められた、もはやどこの部位ともわからない肉塊。船尾楼は折り重なった人骨が複雑で精緻な意匠を形造っている。船首像は美しい乙女と海馬の形をしているが、それも無数の貌が寄り集められているもので、穴という穴から血を垂れ流し、顔貌はどれも苦悶と怨嗟に満ちている。近づけば呪文めいた呻吟が聞こえる事だろう。
 船はどこもてらてらと赤黒い血でしっとり濡れて、夜に遠目で見ればチョコレート細工のようでもある。漂う香りはそんなにいいものではないだろうけれど。
 灯台の灯りがそちらの方を照らすと眩しそうに表面がさざめく。蠢くと言った方がいいかもしれない。そう、みしみしと、のたうつように。
 僕がその船の名を教えてやると彼女は「奇麗ね」と呟いた。確かにこの辺の船の中では一番まともに見られた部類である。船としてまだ形になっているだけましなのだ。酷いものだと横っ腹から百足のように無数の手足が突き出て海面を無粋に掻き回す駆逐艦なんかもいて、それじゃあまったくガレー船ではないかと呆れる。そういう類の船は強欲で、近寄る者を見境なく襲って取り込む習性なのだ。そして無駄な部位を増やしてぶくぶく醜く肥えてゆく。行き着く果ての姿はどうなるのだろうか……あまり想像はしたくない。
 そう考えるとあの帆船は、今となってはほどんど無害と言えるだろう。ただ沖合を孤独に漂い、時折暗闇に乗じて人の営みに近づいては、眩い光に怯えてまた遠ざかる。
「あなたに似ているわ」いつの間にか僕をうっとりと見上げていた彼女がそう言った。まあ、継ぎ接ぎの皮と血肉の塊という点では似ているだろうけれど。
 発言の意味を図りかねて、なんだかよくわからない顔をしている僕を見て彼女はまたゆっくりと続ける。
「堂々と立派で、どっしりしているところ」
 買い被りすぎだと思った。少なくとも彼女の前で堂々と立派に振る舞った覚えはない。上背と目方はあるから、どっしりとしているという部分についてだけは事実として正しい。
「どっしりというのは、落ち着いているという意味よ」
 落ち着いているのではなく、血の巡りが悪いだけなのだが。案外人を見る目がないのかなあ、と僕は彼女が心配になった。悪い輩に騙されやしないだろうか。
「そんな変な顔しないで。あなたもきれいだって、そう言いたかったの」
 彼女は僕の膝の上に座り直して、沖合に浮かぶ無数の様々な屍肉船団を双眼鏡で矯めつ眇めつ眺める。船や僕の風貌を目にして怖気付いたり気が狂わないのはまだしも、きれいと言うのは彼女くらいのものだろう。灯台守としての素質は十二分、天職かもしれない。だから昼も夜もずっと一緒にいてくれたらいいのにと切望してしまう。
 陽の高い間は抱き合って眠り、沈む陽の光で目覚めて、夜には仕事をする。
 きちんと頼めば無碍にはされない気がする。彼女なら二つ返事で了承してくれるか、何か折衷案を出してくれるのではないだろうか。
 どう提案しようか僕が頭の中で言葉を捏ねくり回していると、彼女が「あ」と何かを思い出す。
 僕は続く彼女の言葉にひどくショックを受けたけれど、彼女の言い方はまるで何の事はない、買い忘れた物があったとか、明日の予定を伝えておくとか、そういうものに聞こえた。
 エルドリッジが来たら行くから、と彼女は言った。行くから、というより、往くから、とか、逝くから、という感じの意味合いだった。つまり、駆逐艦エルドリッジが沿岸近くに来た時には、自分からすすんでその一部になるという事だろう。
 そう言われた時、僕はそうかあ、と頷く事しかできなかった。彼女らしい始末の付け方のようにも思えたから。
 配達の後任はもう見つけてあるから大丈夫、と彼女は微笑んで、責任感強いなあ、と一瞬感心しかけたけれど、やっぱり無責任だと思った。僕に必要なのは物資なんかじゃないから。
 動物を飼うなら最後まで責任を持つべきだ。僕はもう随分前に人間をやめたのだし。そして彼女によってこれだけ飼い慣らされたのだし。そこを野に放たれてももう生きてはいかれないのだ。残酷すぎる扱いだ。
 いってしまうのならその前に……いっそ殺して欲しかった。抵抗なんてしないのだから。一等苦しむ方法で。

乗船日和 上 おわり