この季節になると夜の帳が下りかけた海はなかなか冷える。遠く沖まで光を投げかける灯台を見ながら、僕は小舟を漕ぐ。
快く一夜の灯台守の代役を引き受けてくれたかつての部下には光源の簡単な操作の方法と無線送信機の場所を教えておいた。朝になったら消灯し、もし夜間に何か問題が発生したら砦に打電して知らせてもらう手筈となっている。
軍にいたくらいだから信号の送り方は知っているし、行商をやっていると機械の使い方にも慣れるようで引き継ぎは滞りなかった。
煩わしかったのは、出がけに執拗に詮索を受けた事。
彼女とはどんな話をするのか、そんなに無口でどうやって仲良くなったのか、むっつり奥手のくせにどこまでやったのか、避妊具は必要か、結婚は、そんな格好ででかけるのか、義足の用意は、などなど。対応する義務はないので僕はさっさと灯台を後にした。
仕事場を離れるのは着任してから初めての事だった。ちょっとした緊張と期待、そして不安に胸がいっぱいになる。
桟橋では彼女が待っていた。紫色の空と星の粒を背負って、とてもとてもきれいだった。昔見た本の挿絵のようで。
彼女は器用に船を係留して、僕に手を差し伸べてくる。風采はたおやかな妙齢の娘だが、僕に見せる気遣いはとても紳士的だ。彼女がそうした所作を見せる度にどきどきしてしまう。
「来てくれてありがとう。でもどうして。レックスから今夜は灯台番を変わると聞いて驚いたのよ」
彼女は僕の手を引いて砦沿いをゆっくりゆっくりと歩く。よくよく考えると手すら繋いだ事もなかった。僕達は恋人以上の事をしているのにそれらしい触れ合いというのをした事はなかった。恋人同士というわけではないから当たり前の事かもしれないけれど。
「ぼ、ぼくは……きみのこと、なにも知らないとわかったから」つまり執着と嫉妬だ。家も知らなければ寝所に入った事もない。いつもしている事、趣味も、なにも知らなくて、僕は彼女のなんなのか。なんでもないという事なのかな。
「それに」彼女の「しごと……手伝おう、なんてっ、考えも」しなかった。彼女は時折僕の部屋を片付けてくれたり、差し入れを持ってきてくれたりするのに。思いやりに欠ける自分にも気付かされて嫌だった。
「夜、こわいって……そういうのも、わからない……」もっと早く言って欲しかったし、僕にはそういう話ができないのかと思うと切ない。
僕は磨り潰さない程度に彼女の手を握る力を強める。いつも以上にまともに話そうと力んだせいで、繋いだ掌は汗ばんで、夜風に吹かれて痺れた。
「ああ、だからあなたこうして来てくれたのね。夜が怖いと、わたしが言ったから」それだけで十分嬉しい、と彼女は僕の手をしっかり握り返してくれる。「わたしあなたに今のあなた以上のものになって欲しいとか、して欲しい事とか、なんにもないのよ」
悪い意味で言ったのではないのだろうが、僕の存在は彼女をこの世に繋ぎ止めておけるほどのものではないと突きつけられているように感じられて、すごく切なくて、胸苦しく、立ち止まって華奢な身体を思わず掻き抱いてしまった。
彼女をこの世に留め置くためならば、僕の身体の残る三肢も切り落として、彼女の世話なしには生きられない哀れを誘う肉の塊にだってなっても構わないのだ。
僕はそういうどうしようもない気持ちを口付けに仮託して、必死に彼女に押し付けた。彼女は拒んだりはせず、僕に身を任せてただ僕の気の済むようにさせてくれる。そういう振る舞いさえ僕にはつらい。
通りすがりの騎馬警官が闇に埋没しかけた僕らに灯りを投げかけて、そしてすぐに逸らし、咳払いをして立ち去る。
僕は彼女を解放し無礼な行いを謝った。彼女は、いいのよ、いつもしている事だわ、と気にしている風でもなかった。それがまた虚しい。僕の行為は彼女にはなんの影響も与えはしない。
港沿いにある時計塔を備え付けた立派な建物が町の入り口の目印だった。建物の一階は食堂や酒場で、夜になっても尚、それゆえに明るく賑やかだ。建物が面する目抜き通りは人通りも多く、大きな窓から漏れる灯りが僕の顔や姿を赤橙色に照らして、道ゆく人々を慄かせる。
醜く歪んだ姿になっても生きて動いている人間は珍しい。今時ここまでの怪我で生還できる者は少ないから。
今更だけれど、行商の申し出を受けて服と義足を買って、頭から珈琲豆の入っていた麻袋でもかぶってくればよかったと後悔した。
僕は彼女と離れて歩こうとしたけれど、彼女は人とすれ違うにつけ一層僕にくっついて、腕を絡ませるようにして手を繋いでくる。柔らかな胸が僕の腕に当たって困るような、妙な気分になる。
教会にさしかかったところで目抜き通りを外れて、森の方へ向かってしばらく歩くと彼女の雑貨屋はあった。こぢんまりとした二階建てで、緑に変色した銅看板が扉の横で揺れていた。一階の出窓には棚が嵌め込まれて、色とりどりの瓶詰めの何かしらや不揃いな背表紙の書籍、前時代的な文具などが品よく陳列されていた。
彼女が鮮やかな緑色に塗られた扉を開けると、金属のドアベルが輝くような音を立てる。
室内から漏れてくるカンテラと暖炉の灯りは穏やかで温かみがあって、走光性などないはずなのに僕は中に吸い寄せられた。
蒸気に支配された灯台と違って、店の中の暖かさといえば暖炉のそれしかなかったが老婆と彼女が丁寧に穏やかに暮らしてきた残り香のようなものがあって寒々しくはなかった。配管剥き出しで内臓っぽい灯台よりも落ち着ける、普通のよくある造りの家屋だった。どことなく実家を思い出す。
僕が歩くと床板は時々軋んだ音を立てた。それは座るよう勧められた揺り椅子も同様で、家自体も、家具も、かなりの年代物のようだ。お世辞に言っても目方の軽い方ではなく壊すのは本意ではないので、僕は店の中をうろついて品物を見て回る事にした。什器などの日用品も売っているが、多いのは懐古的な前時代の代物だった。
一番興味を惹かれたのは艶めく黒く薄い円盤、レコードであった。機械的に刷られた外装のあるものは棚に飾られて、ないものは蝋紙で丁寧にくるまれて箱に収められている。後者を一枚手にとって円盤の中心に貼られた極彩色のラベルを見る。洒落た字体で書いてあるのはおそらく歌手か作曲者の名前であろう。
「かけてみましょう」
彼女は奥から手回し蓄音機を持ってきてカウンターに乗せた。外側の木枠の劣化は激しいが、内部の機構は無事なようだ。
聴いてみたい気持ちはあったけれど、針が摩耗してもったいないのではないかと思って首を横に振った。裁縫用ならまだしも、蓄音機用の針みたいな娯楽品が出回る事は稀なのだ。あったとしてもかなり高い。
しかし彼女は「こういう時に聴かなくて、いつ聴くの」と、構わず蓄音機に円盤をはめて、針を落とす。
ぷつり、という雑音のあとゆったりとした音楽が流れ出す。生まれていない時代の音楽だというのに、郷愁を感じるのはその茫洋たる音質のせいかもしれなかった。
彼女は僕にしっとり寄り添い胸に顔を埋めてくる。温かく心地よかった。激しく情を交わしている時とはまた違った満ち足りた何かがあった。互いの背に腕を回して熱を与え合う。
彼女はうっとりと瞼を伏せて、僕がその期待に応えようと唇を寄せた時……ドアベルが鳴って僕は彼女から素早く身を引いた。
うっすら開いたドアから顔の半分だけ覗かせた客は、店内に僕の姿を認めると驚いた様子で慌ててドアを閉めて踵を返した。暗闇に溶けてゆく背は男のもののようだった。客を一人逃してしまった。僕がいると仕事にならない。申し訳なさそうなのが顔に出たか、彼女は、いいのよ、と言う。
「あれはお客じゃないから」彼女は興が冷めたという風に頭を振る。「単なる夜這い」
まさか、そんな、不埒な。そう言おうとしたが言葉は喉に引っかかって獣の唸り声のような音しかでなかった。でもそれでよかった。でないと勢い任せてもっと口汚い言葉が出ていただろうから。
「落ち着いて」
彼女が暖炉の火の上に吊り下げられている鍋をレードルで掻き回して甘ったるい匂いを撒き散らす。中の薄黄色の液体がマグカップに注がれて、その上に香辛料がひとつまみかけられる。飲んで、とそれを渡されて、気を鎮める糧になるならと、僕はそれを一気に煽った。舌に滑らかにまといつき、菓子のような甘さと香辛料の引き締まった芳香が鼻から抜けて、身体が芯からほどけるような……エッグノッグだった。たぶんアルコールも入っている。ブランデーか。酔いが回る前に僕は大人しく暖炉の前の揺り椅子に腰掛ける事にした。
あまり気分のいい話ではないけれど、と彼女は前置きして続ける。
「わたしがあなたの慰み物にされていると思っている人がいるのよ。物を届けたついでに肌も許しているだとか、週末は寝る間も与えられず一晩中欲望の捌け口にされて慰み者にされているだとか」
事実無根だ。ショックだった。そんな酷い事しないのに。肌を許してもらっているのは確かにそうかもしれないが、彼女の尊厳まで踏み躙る行為はしていないはずだ。大体一晩中なんてできるわけがないじゃないか。大抵夜半に差し掛かる前には気を遣り過ぎてぐちゃぐちゃのどろどろになって気絶している。
「そう思って避けるとか同情してくれるならまだいいのだけど、困った人もいるの。いいだけ使われているなら自分もいいだろうという人ね」
そういう輩が夜の闇に乗じて彼女の純潔を散らしにやってくるわけだ。唾棄すべき邪悪。
彼女を害した者は躊躇わず殺すだろう。造作もなく。じわじわと苦しめながら。かつて僕を辱めた奴らに償わせたように。
「あなた本当に分かりやすいのね。目の色が変わった。今朝も半分寝ながら妙な事を考えていたでしょう」
彼女は揺り椅子の肘掛けに手を乗せて身を乗り出して僕の顔を覗き込む。そして宥めるように額と頬を撫でてくれた。
「大丈夫。実際に酷い行為なんてされた事ないの。あなたのおかげ。わたしに何かあったらあなたが黙ってはいないと思われているから。本当に、遍く太陽のごとき威光ね。あるいは船を寄せ付けない灯台の輝き」
あまりに仰々しく褒められるものだから僕は気恥ずかしくなった。顔が熱い。酔っているのかもしれなかった。
「前から思っていたけれど、あなたお酒に弱いのね。とろんとした顔して」かわいい、と彼女は僕の頬に口付けた。
僕は彼女を膝の上に乗せてやって続きを促す。柔らかな唇で顔の傷口の隆起や引き攣れをなぞられると気持ちよかった。傷ひとつないまっさらな皮膚にそうされるよりも心地よいのに違いない。
腫れぼったい右の瞼を啄まれ、唇から少しだけ出された舌先が顔を縦横無尽に奔る畝をなぞる。口角を拡張するように伸びる縫合痕を先端から根元に向けて辿られて、そして唇同士が触れ合う。
顔を傾けたりゆるく振ったりして唇だけの触れ合いを愉しむ。僕の硬くて荒れた唇が彼女の瑞々しいそれと混ざり合ってゆく。そこを中心にして、彼女の髪を梳ったり背中を撫でたりしていた指先が温まった蝋のように溶けて彼女に張り付き流れ落ちていくみたいだった。
酔っていると感じ方に現実感がなくなる。
キスの合間に彼女が、来てくれてありがとう、だとか、今夜も寂しくないわ、なんて囁いて、僕は一層どろどろになる。
いつの間にか流れていた曲が途切れていて針が中心で跳ね返る音が聞こえた。針が摩耗したりレコードに傷がついたりしやしないか心配で気が漫ろになる。
「あなた案外気にしいよね」
彼女はうふ、と笑って針を上げに行った。細い指が針を掬って休ませる。動きがしなやかで見惚れてしまう。僕の身体を愛撫する時もそういう動きをするのかと思うと益々身体の中心から蕩ける。その指がカウンターをすうっとなぞって端に無造作に置いてあった箱の所で止まる。
「他にもたくさんあるの。あなたの好きそうな物」
向けられる表情は満面の笑顔だが期待のせいかとても淫らなものに見えた。