Like a goblin - 3/3

 思い返せばその発見が偶然だったのかは疑わしい。あの美しくも猥雑にのたうつ異形の神に導かれたのだと結論づけても納得できた。
 妻が死んで、その体さえ弔う事ができず塞ぎ込むレーゲンの脳裏に妻とのほんの僅かで思い出ともいえないような記憶が流れ、そして一瞬差し込まれた神の姿。雷に打たれたような衝撃。
 台座には神の名の他に、のたうつような穢れた書体でこう刻まれていた。
 本能のままに、願い、そして、捧げる。魂や信仰などではなく、原始的な、単純な、命の遣り取り。悪徳の自由と正義。奪われたものは奪い返し、血と肉でできたものには血と肉を。
 すべての打ち捨てられ見捨てられた、持たざるものの守護たる神。
 レーゲンは悟った。
 そうだ、ゴブリンなのだから、ゴブリンらしいやり方をするのだ。ニンゲンに文化を奪われていた時代のように——

 それは狂瀾だった。屍肉の熱狂、内臓の舞踊、血の酒宴。
 苔むして輝く広間で生きたままの腥い肉を喰らい、引き出した内臓は身体に巻きつけ、血で血を清め、ただただ哄笑し、踊り狂い、地に平伏し、また頭から繰り返す。
 呼び起こされた古の本能からの行為は酸鼻を極めたが神へ捧げる儀式とすれば厳か。
 このための生贄を選出するのが一番骨の折れる仕事だろうと考えていたが、そうでもなかった。
 自分達の稼業に便宜を取り計らわない娘を亡き者にしたい妻の両親。そしてその先兵の鉱山技師。
 穏健派の旗印になりそうな異種族の女を謀殺したい議員達。隔壁の仕掛けを壊し、その場に妻を呼び寄せ死出の業を手引きした鉱員達。
 手に掛ける罪悪感など必要ない生贄ばかりだった。無辜の者など一人もいない。自分を含めて。
 最後に捧げるのはレーゲン自身だ。妻から得たものを返さなかった。慈しまなかった。夫からも疎まれていると思わせたまま死なせた。妻は夫にかけた慈悲と慈愛を奪い返す権利がある。
 そうして妻は完璧に甦る。夜だけでなく、昼間も、生きて、動いて、話すようになる。
 男も女も同族も異種族も、血肉を失い色褪せ弛緩した身体で旧き神の前に跼り、ただ一人の女の蘇生を希う。
 霊験による御阿礼を導く絢爛な、海底洞窟の煌めく儀式。
 妻の名は共通言語で神の食べ物という意味にして、古マロード=ナイト語においては万物に宿る超自然なる力、そしてまつろわぬ神の名であった。

 何でも初めてというものは最悪なものだ。
 最初の一人目は手際も悪く、そしてもはや後戻りはできないという悔悟にも似た昂揚が脳も神経も痺れさせた。
 帰り道、雨は優しくレーゲンの肩を打ち、穢れと涙のすべてを洗い落としてくれた。
 そして妻は還ってきた。
 自宅のデッキに臨む海と空の境界線に日は沈み、聳え立つ海底炭鉱の換気塔が神殿遺跡のように闇に映える。二本のその狭間に、ぷかりと浮かび上がる生白いものが見えた。
 それは波に揺蕩い近づいて、全容がわかろうかという距離で再び沈む。
 レーゲンはある予感に打たれて立ち上がる。妻ではないかと。まさか一人捧げただけで甦ろうとは思ってもみなかったが、そうであってくれという願いが逸る。そうなら少しは報われるのだ。最悪な狩りと儀式の後のこの虚無が。
 しかしいかな持たざる者の守護者とはいえ、そこまで気前はよくなかった。あるいは少しでも神への捧げ物を後悔した罰か。
 波を割る音もなくデッキの間近にぬるりと浮上したそれは。
 まるで無理矢理浅瀬に連れてこられて膨張した深海魚、羊膜じみた粘膜に濡れて、しかし嬰児の初々しさと生命の輝きはなく、まばらな銀糸の髪が不潔な白髪のようにまといつく。肌は変色し、傷み、白磁の肌の見る影もない。
 妻は不完全だった。
 死の匂いを孕んだ水死体そのものだった。
 海水に揉まれ、打ち付けられ、水棲生物に啄まれ、不浄に満ちて溶け崩れたその肉体。
 毀損された亡骸に無理矢理に魂と精神を詰め込まれて、心臓が拍動すればふやけた肌の傷口から海水と矮小な生物が噴き出す。
 ならされて凹凸に乏しい顔の中、眠ったように閉じられた瞼。レーゲンはその奥深くに妻の意識を見た。
 レーゲンは立ち上がって震える声で妻の名を呼び、両の手を差し伸べる。
 ぶよりとした手がレーゲンの腕を存外強い力で掴む。肩が外れそうなほど強く引かれて、たたらを踏んで妻の濡れた身体にぶち当たる。飛び出した肋骨がレーゲンの肩を切り裂く。
 レーゲンは再び妻の名を叫び、その顔を見上げる。
 すう、と研ぎ澄まされたナイフで切り裂かれるように開いた瞼の中は虚な空洞。開け放たれた口の中には舌も歯もなく、ただ腐った肉色の深淵だけがあった。
 悲鳴を上げたのはレーゲンか、それとも妻か、もはやよくわからなかった。
 気づけばレーゲンは顔面を強かデッキに叩きつけていて、きな臭さが鼻腔に充満していた。デッキの木目に鼻血が染み込み、折れた歯が眼前に転がっていた。目が回って体が重たかった。
 背後には妻の気配があり、ぐずぐずになった手がレーゲンの下衣を引き裂いている所だった。
「なに……する、やめて、くれ」
 腐敗し蕩けた脳に理性はなく、夫の囁くような懇願が聞き入れられる事はない。
 レーゲンの素肌を冷たい手がなぞり、そして。
「げァ゛っ!?」
 杭で貫かれるような激痛が奔る。何が起こったか、そしてこれから何が起こるのか、まったくわからない。
「ハ……っ、は、ぅ、ァ……お……っお」異物感ある腹に触れるとそこは不自然に飛び出し膨張していた。「な゛……っ、ぇ、ア゛?」
 荒い息と呆けた声と共に、締まりの悪い口唇から涎がどろりと垂れる。排泄口と腹の中がじくじくと熱く痛む。
 腰骨が引き抜かれるような怖気と共に腹がへこみ、衝撃と共に再び膨らんだ。
「ア゛ぁア゛ァっ!?」
 やっと何が起こっているか、何をされているのかわかった。
 おぞましい獣の欲望がレーゲンに叩きつけられていた。
 逃げようにも妻の力は化け物じみて強く、そして暴虐に晒された肉体はがくがくと情けなく震えるだけで抵抗に神経を割く事は不可能だった。
 小柄なゴブリンの身体には余る、巨大なヒトの生殖器が内臓を擦って出入りする度にレーゲンの腹が簡単にその形を変える。
「オ゛、おごっ、やめ、ァッ、なん゛っ、で、なんでっ、こん……な」
 生前の妻らしからぬ理性の欠けたる振る舞いにレーゲンは恐慌に陥る。
 レーゲンの硬い肌に食い込む、べたりと湿った妻の爪のない指からは、行き場のない恐怖と怒りと原始の欲望だけが感じられた。そこにかつての優しさや思慮深さはない。
 海を揺蕩い朽ちた心身が訴える呪詛の意味はなんとなくわかる。
 中途半端なおぞましい姿で海を上らなければならない恐怖。
 身命を賭した行為も想いも台無しにされた事、疎まれていたはずなのに自己満足と安い憐憫で喚び戻された事への怒り。
「すま、ない……本当は、あい、し、……だから……」
 今更そんな言葉など聞きたくもないし信じたくもないとでも言うかのように暴虐は苛烈を極める。理性で抑え込まれていたであろう不遇な劣情がレーゲンを苛む。
 性交経験のない処女地を手荒に掘削され、慣らされていない肉粘膜が悲鳴をあげる。腹の形が歪むほど奥まで無遠慮に突き込まれ、目眩と嘔吐感が思考を滅茶苦茶に掻き混ぜる。
「もッ、やめ……ぎあぁああ゛あッ」
 懇願の悲鳴を上げながらも、しかしレーゲンはこれは自分が受け入れるべき贖いなのではないかと思い始めていた。
 身体は人形のように揺さぶられ、腹は捩れて、神経は負荷がかかりすぎて断絶せんばかり。臍の裏側を抉られ、胃袋を圧迫され、身体の内も外もびくんびくんと痙攣する。
 あまりの質量と暴虐に耐えかねてレーゲンの萎え切った性器から尿が溢れる。床を打つ汚れた音と、ぐしょりと濡れそぼる下半身。あんまりな辱めだ。
「お゛、ぅお゛ッ、ァ、そん、な、……くへ、ぇあ……」
 惨めさに脳天を殴られ、レーゲンは視線を虚に飛ばして舌をだらりと垂らす。
 とはいえ半死半生の妻から打ちひしがれる夫にかけられる慈悲などなく、陵辱は益々勢いを増す。
 レーゲンの引っ込んでは突き出す腹はさながら動物を追い込んで叩き殺すための袋だ。ただし殺されそうなのは袋たるレーゲンなのではあるが。
 後ろから腰を叩きつけられて飛び出る腹が床を打つ度、苦悶の叫びが搾り出される。
「ごっ、お゛ッ、おっ、ぃぎッ、ん゛おぉ……!」
 枯れ枝のように節くれだった指が床を掻き、意味のない歪んだ轍を描く。
 女の器とは違って潤いのない内臓を力任せに無理矢理暴かれ、滲んだ血が内腿を伝ってデッキに滴る。まるで破瓜の処女血だ。
「あ゛ーっ、うぁあぁああ……、いっ、た、いたい……ッ、はぁ……っ」
 柔らかな腑の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜていた怒張が一際奥を穿ち、静止し、脈打つ。その動きに合わせて粘質の異物が粘膜を犯しながら奥深くまで注ぎ込まれる。
「ぁ、……ッッ!?」
 それが何なのかはよく知っている。
 腐敗した種汁がどぷりと腹の内に詰め込まれ、蟠り、凝る。死者の分泌物であるにも関わらず、それは凶悪なまでに熱く滾り、執着と欲と怒りに満ちて濃厚であった。
 そんな事をするために備わっているわけではない器官で怒張を扱かれ、射精され、精液で腹を満たされる。あんまりな仕打ちだ。
 馴染まぬ白濁が粘膜を荒らしながら腹に溜まる感触は僅かに残っていたレーゲンの気力と理性を根こそぎ削いでゆく。レーゲンの目の焦点がぼうっと揺らいで、浅ましい吐息に開け放たれた口からは血混じりの唾液がだらだらと溢れる。
「ァ゛ー……、あ゛……」
 突然引き倒され犯されたという暗澹たる気持ちと、しかしこれで終わるのだという安堵が同時に去来する。
 だがすぐにまだ安寧には遠いと知る。
 尻を制圧している妻の肉棒はいまだ十二分に欲望に満ちて、堅く雄々しく勃起していた。再び拷問めいた打ち付けが始まる。
「うっ゛、っぐ、ん……ぉ」
 今度は先に吐き出された精液のおかげで抜き差しの痛みは随分緩和されていた。
 それどころか恐ろしい事に、強靭なゴブリンの肉体は痛みに慣れて、徐々に妙な艶のある官能を受け取るようになっていた。そして手酷く陵辱される事に邪な悦びさえ覚えるようになっていた。
 どんな環境においてもしぶとく生存できる適応力がこんな時にも発揮されるとは、驚くとともに情けなかった。
 張り出した亀頭で肉環を無遠慮に拡げられて擦られると脳が茹る。直腸奥の急カーブを強く叩かれると全身が壊れんばかりに痙攣し、過ぎたる快感を表出する。執拗に突かれ、大量の精虫を注がれ、膨張する腹。
 噴き上がる腐敗した欲汁はとどまるところを知らず、レーゲンの小さな内臓に果てなく詰め込まれてゆく。腹の内容物が逆流し遡る事などあり得ないはずなのに、性汁は曲がりくねった腸を満たしてとうとう行き場がなくなると、胃への道を見出す。
「ぐる、じ……ぉ゛ッ、げぉ、ぉごっ」
 風船のようにぱんぱんに膨らんだ腹の中はほぼすべてが妻の死臭で満たされていた。
 種汁詰めの腸に楔を深く沈められて揺さぶられると、膨満した胃袋がひしゃげて内容物が食道を迫り上がってくる。雄の臭気が鼻腔にきつく溜まる。
「……ッは、も……ごぇ……ッ」
 だめ押しのように深くまで肉柱を打ち込まれ、揺れる臓物。 
「お゛ぉ゛〜……っむ゛、ッう、ぐ、ぇ、げぷ……」ここまで来てしまうともう押し留める事は不可能だった。「げぅっ、オ゛ぼッ、ぶごォお゛——」
 口から鼻から無様に勢いよく白濁が噴出する。しかし嘔吐それ自体は救いであった。
 喉と鼻腔を灼く自らの胃液と死者の種汁に呼吸を堰き止められる苦痛はいつの間にか肉悦にすり替わり、胃まで詰め込まれて肉体を内側から破裂させんとする圧を逃す開放感と快感がない混ぜになって、喞筒のように吐瀉物を放出しながら惨めに絶頂していた。勃起しきっていない性器からは嘔吐の勢いよりも数段劣る、切ないまでに弱々しい射精が行われていた。
「げぷっ……んぉ、ほ、ア、ァ……へは、ぁ……」
 筋骨逞しいゴブリンの鉱山技師は完全に雌へと堕とされ、暴虐を肉悦と躾けられていた。
 永遠にも感じられるその瞬間の後、レーゲンは腐敗と穢れの煮詰まった汚物に顔から倒れ込む。それでも暴虐はやまず、ましてや手心が加わる事もない。
 脱力した腰を強く掴まれて襤褸人形のように揺さぶられ、吐瀉物の中を引き回される。奥を杭打ちされる度に官能に障り、小柄な身体がびくっと凝る。
「くへ、ぇ゛オ゛っ、ん゛、ふうぅッ!」
 押し出される声にもはや苦痛の気配はない。結腸をぶち抜かれ腹を捏ねくり回される暴力的な快感に打ちひしがれて、汚物に顔を擦り付け呻吟する。まるで異形の神の御前に跼る贄だ。
「ン゛、はぁッ、アー、ぁあぁああ、孕む……ッ、もっと、お〜……たくさんっ……っ気の済むまで……」
 いつまで続くとも知れぬ原始的な欲望の狂宴に呑まれ、受胎さえ錯覚しながらレーゲンは妻の蘇生に歓喜し、涙を流す。
 旧き異形の神への信仰と妻への情愛、そして腐敗した性汁に腹を膨らませ、レーゲンはとうとう最後の気をやる。
「ヲ゛ぉオ゛、んぉおお、ほぉッ、あ゛〜……」
 レーゲンは背を反らし天を仰ぎながら被支配と被虐の悦びに身を震わせて高く絶頂し、そして深く意識を落とした。
 水底深く溺れてゆくようだった。
 何でも初めてというのは最悪なものだ。
 自分の背に蟠る生ける亡霊の冷たさが引いて、レーゲンの意識が浮上する。床を摺る不穏な足音が遠ざかっていると気付き、彼は急いで身を起こす。どこもかしこも痛んで、何から何まで鈍かった。
「明日も……来て、欲しい……約束……を」
 レーゲンは必死にそう吐き出して腕を持ち上げ小指を差し出す。
 妻はゆっくりと振り向き、軽く握り込んだ手をレーゲンの手に近づける。
 その手に小指はなかった。

 それ以来、妻は夜になると海から還ってくる。
生贄を捧げれば捧げるほど妻の見目は生前の面影を宿し、理性と精神もまた落ち着きを取り戻してきた。
 妻はレーゲンが人を殺めて生贄にしているとは知らない。ただ二人で見つけた異形の神がレーゲンの必死の祈りに応えただけだと思っている。真実を知れば今度こそ妻は嘆き、自ら冥府の道へと踵を返すだろう。
 三人目を捧げた辺りで生前の精神の片鱗を取り戻しつつあった妻は、これまで夜毎レーゲンに酷い仕打ちをしていたと気付き、もう来ないと涙ながらに打爪符号で訴えたが、レーゲンは妻に恥も外聞もなく取り縋り、妻を二度失うならば自分は死んだも同然と、ある意味自分の命を盾に妻を人の世に縛りつけた。
 六人目を捧げた後には互いに随分遠慮というものがなくなってきていて、醜い言い争いをした。
 妻としては、正しい事をしたニンゲンとして夫の記憶に残りたかったのに、レーゲンはといえば彼女が清らかなままで生涯を終えるのをよしとしなかった。中途半端に生き返ってこんな恨みの言葉を吐きたくはなかったし、綺麗なまま、清廉と思われたまま死にたかった、と声なき妻は珍しく怒った様相で机を叩いた。
 レーゲンもまた短腹を起こし、自己犠牲は清廉な行いではなく、周りに禍根を残した。だからこうなった、妻自身の蒔いた種だと怒鳴り散らし、妻は泣きながら海に消えた。
 そして九人目を殺すまで妻が家に戻る事はなかった。
 九回目の儀式を終えて帰宅すると家には妻がいて、独りよがりで死んだ事、喧嘩をしたまましばらく戻らなかった事を謝ってきた。そのまま妻の指の言葉が、夫への愛の告白へ移り変わる前に、レーゲンは先んじて、最初からすべてやり直したい、愛している、だから死んでほしくなかった、と弱々しく打ち明けた。妻も、まったく同じ事を言おうとしていた、と微笑みながら清い涙を流した。
 そして二人は真夜中の海辺でささやかな結婚の誓いを交わした。
 十一人の生贄を捧げた今は、妻は生前と同じように夕飯の支度をして夫の帰りを待っている。あとは夫婦らしく睦み合い、微睡み、日の出を惜しむ。
 この生活はレーゲンと妻以外の誰も知らない。これは心から愛し合う夫婦の夜毎の密やかな交歓なのだ。余人の入り込む余地はない。
 それに知られれば最後、この不可解な出来事が追及され、道半ばにしてレーゲンの目的は潰えてしまう。
 妻が完全に甦ったならば、船に乗せ島の外へ送り出してやるのだ。妻ならば、どこへ行っても上手くやれるはずだ。こんな絶海の孤島や、ゴブリンの夫に縛られて再び一生を終えるなどもう御免だろう。
 妻は今や殆ど生前の姿と変わらない。おそらくあと一人、レーゲンの死をもって、その完全な蘇生の代償は支払われるだろう。
 善は急ぎたいところだが、しかしこの生活は生きてきた中で最も清らかで、温かく、手放しがたく、だからこそやはり、自分はすぐに血肉を捧げるべきだろうともレーゲンは思うのだった。

 頼むから今夜だけは、時間通りに帰ってきてくれるなと、レーゲンは早鐘を打つ心臓で願う。
 硬い石畳に落ちて跳ね返り足首を打つのは、にわかに降り出した雨なのか、滴る己の血なのか、この混乱の逃走劇の最中には判然としない。
 儀式が露呈せずに粛々と執り行われていると思っていたのはレーゲンだけで、島の護法官達は着々と行方不明事件の捜査を進め、レーゲンに目星をつけるに至ったのである。
 勤務の終わりに炭鉱の入り口で待ち構える護法官を振り切って逃げたレーゲンの背に向けて十字弓から剛速の矢が放たれた。一つは肩を掠めて、もう一つは腹とポケットの懐中時計をまとめて貫いていた。レーゲンは矢を生やしたまま隘路に飛び込んだ。
 自分が妻の死を調べてくれと頼み込んだ際には梃子でも動かなかった癖にとレーゲンは血混じりの唾を吐き捨てる。
 そしてレーゲンの呪詛に呼応するように雨が降り出した。
 下手人の行き先を示す朱は雨水に流され、暗雲は月も影も覆い隠す。
 自宅の前にも抜かりなく護法官共がたむろしていたが、レーゲンは闇に乗じて家の裏手、海に臨むデッキの下に這い入り仰臥する。眼前の板の目の隙間から落ち着きなく歩き回る靴の裏が見える。
 気が抜けると途端に血の気が引いて、死の気配を感じる。せめて波にこの肉体を攫わせ、神への供物としたかった。
 海に向けた脚を波が洗い、脱げかけた靴を持ち去る。海嘯の規則的な感触に混じって不規則に彼の脚を叩くものがあった。
 レーゲンの怪我と上の状況を案ずる符号を送るのは妻であった。天井の低いデッキの下、レーゲンに覆いかぶさるように裸体の女が海から這い上がってくる。濡れた銀糸の髪がレーゲンの頬を優しく撫でる。見下ろしてくる表情は切なげで、それ故に大層美しい。今際の際に目に映るものとしてこれ程までに完璧なものはない。
『あなたのしていた事、本当は全部、知っていた。だけれど、やめてと、言えなかった。あなたとまた、一緒にいられるのが、幸せで』
『なら話は早いな。俺が死ねば、たぶんお前は完璧に生き返るだろう。入江に船がある。島を出るんだ』
 白く滑らかな肩をそう叩くも、妻は首を横に振るばかりだった。レーゲンの硬い頬を伝うのは雨水ではない。
 そんな事はできない、しない、離れたくない、という口の動きは、徐々に清廉な音を伴うようなる。
 レーゲンの身体から血が流れ、命が海に溶けるにつれて妻の発する音ははっきりと彼の名を呼ぶ。死の目前にまたあの涼やかな声が聞けた事をレーゲンは様々な神に感謝する。
 妻の血の通った温かな肌がレーゲンの濡れそぼって冷たくなり始めた身体を抱きしめる。レーゲンの腹を貫いていた矢尻が妻の肌と肉を裂く。
「愛しています、レーゲンさん、ずっと一緒です、永遠に」
 そうか、とレーゲンは呟き目を閉じる。
 約束、と妻の小指がレーゲンのそれに絡む。
 もう半刻もすれば潮は満ちて、デッキ下の何もかもを波で浚い、文明と法の手の及ばぬ水底へ夫婦を誘うだろう。
 すべてを奪う、さながら原始のゴブリンのように。

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