「おいしかったです」マスターの舌先が彼の唇をちろりと舐める。声も身体も表情も、まだ恍惚として官能が抜けきらない。
「そんなわけないよね」と、いつも思う。それともどこかの誰かと比べて美味しいとかそういう話なのだろうか。
「いえおいしいですよ。濃厚で……」
「また口塞ぐよ」
「どうぞ」再び招くように簡単に開けられる口。
「もうしない! 変な事言うなって意味」
ミルは自身の着衣の乱れを直して床に座り込んでいるマスターを引っ張り起こす。立って並べば身長差はかなりのもので、こんなに大きいのを傅かせていたのかと毎度ながら妙な気分になる。そしてミルのような人間に易々と傅く相手も相手である。
「お疲れ様でした、ミルさん」
腰を軽く屈めてミルと視線を合わせて労いながら、乱れた髪を掻き上げる様は色っぽく、あと三発くらいはやれそうな気になってくる。しかしそんな事をしていては精も根も尽き果てるし、そもそも夜営業までの時間もないので、頭を振って気を取り直す。
「じゃまた明日」
こうしていつも通りミルの勤務時間は終わり、あとはマスターの時間。
「今日もバイクに?」
「うん」
「では気付けに一杯」
そして毎度、マスターはミルの上がりにはキンキンに冷えた市販のジュースをくれる。彼の好きな清涼飲料水らしく、冷蔵庫の中にはいつも弾倉のようにそれが整然と並んでいる。
「ありがと」
ミルは缶を持った方の手を上げて謝意を表し、カウンター内にある扉を薄く開けて潜り込んだ。
「バイク気をつけて下さいね」
締めかけた扉の隙間からマスターの最後の言葉が差し込んでくる。ミルはうん、とだけ返して扉を閉める。
一人がやっと通れる登り階段分の幅しかない隘路は暗く、じめついて、途端に身に染みていたコーヒーの香りは黴臭さに覆われて消え去る。
また消臭剤ぶち撒けないと、と思いながらミルはその匂いを鼻腔から追い出すためにジュース缶のプルトップを上げた。
それはかぐわしく甘ったるい桃の香り。
自室に黴の臭いが入り込まないよう、ミルは素早く階段室の扉を閉めた。
目の前のシンクに空っぽの缶を置き、バルコニーに出て朝干した洗濯物を取り込む。
夏至を過ぎたばかりの十九時過ぎの空はまだほんのり紫に明るい。
ミルとマスターが働き暮らしているのは市庁舎や観光要所を間近にした交差点に建つ雑居ビル。
マスターやビルのオーナーは「四ツ辻ビルね〜」と何やら古ぼけた否定的なニュアンスで言うが、この碁盤の目に区画整理された街の中心部では「十字路とか普通じゃん」とミルは思う。
土地柄は悪くないどころか、かなりいい。
勤め人、時折まかり間違って来てしまったような観光客で店はそれなりに繁盛している。それなりなのはビルがよく言えば古風だからで、この再開発の盛んな時期によくぞ、といった風体。まああんまり客が引きも切らないと昼営業のワンオペがてんやわんやになるので、ミルとしてはおんぼろビルに感謝である。
この街で冬のオリンピックが開催された年に建てられたビルなので外観や中廊下は古臭くおどろおどろしく感じる部分もあるが、テナントが入っていたり人が住んでいる室については古さの割に綺麗で清潔だ。
マスターとミルが床面積でなく時間を分かち合って住む部屋は、マスターが手ずから事務用室を改装したものだった。
室内に間仕切りはなく、白く塗られた壁のおかげで実際よりかなり広く感じる。床は黒の板張りで引き締まり、やっぱりマスターはクロモフォビアなんだろうなとミルは部屋に戻る度に確信を深める。
マスターがミルを簡単に雇って家に住まわせたのも、白黒の服しか持っていなさそうだったからではないか。
ミルは生まれながらのバイカーで、大抵着ているのは黒か白にはっきり塗り分けられた服が多い。
今も仕事着に代わって身につけたのは上下黒革のライディングギアである。これにブーツも履くし、実は服の中はプロテクタでゴテゴテなので初夏にはなかなか暑苦しい。
だが薄着だとマスターがひどく心配して外に出してくれないので仕方ない。
「単車は」マスターはたまに古式ゆかしい言葉遣いをする。多く見積もってもミルと一回りくらい違う程度なのだからそこまでの歳でもないだろうに。「危ないから心配です。フルプレートを着てください」
バイクで出かけるよ、と初めてマスターに伝えた時の話である。
フルプレートと言われた時にはお洒落なカフェで出る食べ物か何かかと思ったが、マスターが指差した店の戸口には誰かが勝手に置いて行った西洋甲冑があった。店の雰囲気に溶け込んで埋没していて、それまで存在を気にした事もなかった。
「あんなもん着るくらいなら戦車に乗るよね」
「四頭立ての?」
「えっ」
「馬が」
「馬力ってこと?」
「えっ」
わざとだと思うがもうまったく意味不明で会話にならないし、マスターの柔らかくて滑らかな手が存外強い力でミルの手首を掴んで離さないので彼が納得する程度の防具を身につける事にしたのだ。それに憎からず想う相手を心配させるのも本意ではない。
ブーツを引っ掛けメットを小脇に抱えて部屋を出て、廊下の階段を降りて地下一階へ。スナックやカレー屋に軒を連ねているのがミルとマスターが働く二十四時間営業の喫茶店だった。
昼はミルが働き、夜はマスターが。夜になるとちょっとしたアルコールも出る、なんでもありの謎の店になる。たまに隣のスナックから料理の注文が入る事もある。そういう点では夜の方が忙しい。
扉に嵌まった磨りガラス越しに中を覗くと夜営業開始前だというのに、朧げに数人の客の姿が見えた。
あの日、スナックの方でなく、この瀟洒な喫茶店の方へ入ったのはある意味運命的なものだった。
“へるはうんど”と読めた店名に惹かれた。自分が乗るバイクの名と同じだったから。店の骨董品的な雰囲気によらずロックな名前だと思った。
その日の客はミル以外にはおらず、話しやすい雰囲気のマスターに、仕事中の怪我で失業して漫画喫茶暮らしだとぽつぽつ語って、すると彼は返す言葉でミルをこの仕事に誘った。ついでに店の真上にある部屋に一緒に住めばいいとも。仕事も家もないミルはザクロジュースを飲みながら、まあ悪くないなと感じて二つ返事で飛び込んだ。なにせ賄いつきだ。
まずまともな人間はこんな話には乗らない。しかしミルは大雑把な生い立ちゆえに警戒心や危機意識というのに乏しかった。ついでにまともでもない。
それにマスターにはそもそも邪心や下心といったものはなさそうに見えた。
見た目は確かに立派な男性ではあるが男っぽい匂いがしない。そして半分この世の人間でないような風情さえあった。浮世離れした存在感とでも言おうか。
とはいえ後々話が違うと詰られては面倒なので「で、それってセックスも込みってこと?」とはっきり聞いてみればマスターは明らかに狼狽してジュースの瓶を取り落とした。
「あなたがそうしたいのならご期待に添えるよう努めますが」床に血溜まりのようにジュースが広がるのと同様にマスターの肌にもじんわり朱が広がる。「私はそういうつもりで言ったんじゃないです……」失礼だなんだと怒り出すような人でなくてよかった。あと、恥じらいに目を伏せるマスターが激しく綺麗だと思った。
実際彼はミルにいかがわしい事は一切しなかったし、そうした雰囲気の一片も醸し出さなかった。よほどの事がない限り指一本すら触れなかったくらいだ。
そうして一日を半分に断ち割って分かち合った二人の生活はまあまあうまいこといっていた。
昼でも夜でもない明け方に、黄昏に、二人は店で食事をしたり、部屋で家事をしたり、そしてとりとめのない話をする。そこだけ見ればまるで兄妹のようでもあった。
それなりの金ができるまでの仕事と生活と思っていたが、マスターの食事に雨風を凌げる清潔な部屋のある生活を手放すのは惜しかった。それよりなによりミルはマスターの事が好きになっていたから。こんなに穏やかでいい人をミルは他に知らない。離れ難い。
こんな暮らしをしてもう一年になる。
雇われた後に看板を磨きながら改めてよく見てみれば、喫茶店の名は“へるばうんど”だった。どちらにしろやはり店の雰囲気にはそぐわしくないように思えた。
駐輪場からバイクを引っ張り出して跨る。
漆黒の、という形容に相応しいマットな色合い。無駄のない引き締まったボディはしなやかでさながら鋼鉄の獣。三気筒の振動音は気品に溢れる。欧州製の希少な旧車はいうなればトラッド。
一日中でも整備して、弄り倒して、撫で回していられる。まあ撫で回すのはちょっと変態的かもしれない。
川沿いの広い道路を山の裾まで行って、また戻ってくる。さして飛ばす事もない一時間弱の長閑なツーリング。これ以上長くバイクに乗っているとマスターが発狂して警察に捜索願を出してしまうのでよろしくない。
そういう関係になってから彼のミルへの心配というか執着ぶりはちょっと尋常ではない域に達していた。両性具有は希少品なので気持ちはわからないでもない。
ということで、部屋に戻る前に喫茶店の入り口からちらと顔を覗かせてマスターに無事帰った事を知らせる。
ミルの姿を確認するとマスターはこの上もない笑顔を浮かべる。熟した果実が崩れて蕩けるような。心臓がドキドキどころかズキズキする。こんな顔をされて靡かない人間がいるだろうか。二人きりだったら押し倒して弄り倒して撫で回して跨って前後不覚になるまで不純な行為をしているところだ。
ミルは部屋に戻ってシャワーを浴びてベッドに寝そべる。マスターはベッドを使い終わると必ずシーツを取り替えてくれていて、そこに彼の気配はない。翻ってマスターはというと、ミルが寝た後はそのままでいいと言う。なんなら布団も寝乱れたままでと。
最初は家事好きや世話焼きが高じて言っているのかと思ったが、実のところミルがもみくちゃにしたシーツでミルの残り香を堪能しながら“暖機運転”したいがためなのだった。そう本人が白状した。
マスターは穏やかで静謐な雰囲気の裏ではかなり色欲が強い。
先程のようにミルの退勤時には口淫し、出勤時には肌を重ねたがる。休日にはミルの情を乞い淫らな行いにほぼ一日費やす事もある。
今までの従業員もこうやって同棲まがいに持ち込んで生優しくして随分食い散らかしてきたのだろうとミルは踏んでいる。何せ肉体関係になるまでこんな淫乱特性をお首にも出さなかったあたり、慣れているようにしか思えない。そしてひとたび熱を分け合った後には、ミルの前ではすべてを曝け出し際限というものがなかった。
ミルとマスターが初めて肌を重ねたのは彼女が住み込みで働き始めて割とすぐの頃の事。
昼営業が終わって部屋に戻った後で、店に財布を忘れた事に気づいて引き返した時があった。
黴臭く暗い階段を再び降り、店に通じる扉を静かに薄く開けると、その隙間からマスターの断続的で苦しげな掠れた息が幽かに聞こえた。急病かと慌てた一歩を踏み出しかけたが、しかしその吐息はどこか甘い色を帯びてミルの神経を痺れさせた。
マスターを驚かせてやろうと音を忍ばせていたのが幸か不幸か。
扉一枚挟んで聞こえる息遣いからして、男は己の欲を掻き立てそして鎮めている様子だった。
禁欲的になるまでもなく性欲など生まれつきなさそうな印象があったが、やはり成人男性だけあってプライベートにはそういう事をするのだとミルは何故か安心した。まあやるにしても店でやるなという話ではあるが。
早く立ち去ろうと踵を返したその時「ぁ……、ミル……みるく、さん……」鼻にかかった呼び声がミルを引き留める。
気付かれたかと思ったがそうではなく、緩慢に続く呼びかけに彼はそこに居ないミルを想っているのだとわかった。
そうなると抗い難く、声に誘われて扉の隙間から中を見てしまう。名を呟かれた当事者なのだから少しくらい構いやしない、と自分で自分に言い訳をしながら。
準備時間中のまだ客のいないセピア色の店内。扉からよく見える位置に彼は居た。夜の主人は壁際のソファ席に浅く気怠げに腰掛けていた。
いつもきっちり撫で付けている黒髪は乱れて額に垂れ、リボンタイは乱雑に解かれ上衣は肌蹴て胸元も露わ。なんとも退廃的。
よくないと分かってはいたがミルは均整の取れた男体を上から下まで観察して、うぉ、と思わず息を呑んだ。
大胆に展げた剥き出しの脚は広い座面に乗せられて下腹部が盛大に晒されていた。そこには屹立する男の象徴はなく、女のそれが秘め事に徒花を咲かせていた。
ミルはなんとなく合点がいった。彼の雄の欲求を感じさせない雰囲気はこの器質のおかげだったのかと。
彼の雌の箇所は人差し指と薬指で割り開かれ、蜜を垂らす花芯に中指が埋められていた。指はゆるゆると出入りして、時に差し込まれたまま中をぐるりと掻き回す大胆な動きを見せていた。
「は……ぁっ、んん……ぁ、あぁ……」
感じ入る度に引き締まった褐色の内腿が細かに痙攣し、腰がしなやかに波打った。目の毒なのに目が離せなかった。
彼の空いている手が卓上を彷徨い、遮光の小瓶を掴む。昼間にミルが飲んでいて、そのまま片付け忘れたビタミン飲料の飲みさしだった。彼はそれを己の唇に持って行きそっと口付けた。
「おぉ……?」
ミルは吐息に疑問を蕩けさせた。
瞑目して、息を潜めて、うち震えて、慈愛に満ちたキスに見えた。心から思慕する者に施すような。
名前を呼んで自慰をして、あまつさえ間接キスをする。それはもう、好かれていると言わずして何なのか。
そんな風に考えている間にも男の行為は増長していった。
飲み口を唇で喰み、ねっとり舌を這わせ、小さな飲み口に舌先を捩じ込み残った液体をぴちゃりと音を立てて舐める。唾液にでも見立てているのか。これではディープキスではないか。
平常時なら強火の変態だとしか思わないが、熱気に飲まれてミルまで変な気分に引き摺り込まれていた。ミルはいつの間にか自分の唇と下腹部に指を這わせてマスターの行為を追っていた。
「みるく、さん……ほし、ぃ……」
そう低く掠れた声で言いながら彼は蜜壺から指を引き抜き、物足りなさに震えるそこに瓶の飲み口を擦り付けた。初々しい色素の薄い花弁が乱れてとろりと滴る愛液がソファの座面に色濃く染み込んだ。
そして極め付けに瓶を中にゆっくりと埋めてゆく。仰反る背と喉。
「はぁ……ッ、みるくさん……、入ってっ、あなたの、女の子ペニス……っ」
熱っぽくなっていたミルの腰がぎくりと震えた。いつの間に両性具有と知られていたのか。
「んっ、んぅっ、はっ、あっ……」
しっかり嵌まり込んだ肉棒代わりの瓶が乱暴に抜き差しされて切羽詰まった喘ぎが響く。そして中がかき混ぜられる卑猥な水音。
秀麗な眉が今は切なく垂れて、伏せた目を縁取る長い睫毛がふるりと揺れて美しかった。
「あぁ、うぁあ、みるくさんっ、いく、……んっ!」
座面を尻が滑り降りて、より座りが浅くなり、更に下腹部が雄を迎えるように上向いた。角度が変わった事で瓶の飲みさしが彼の中に注ぎ込まれる。
「ア、ァ……っ、中で、出てっ……あぁああ……ッ!」
それを射精とあえて錯覚し、彼はしどけない姿と声を晒して果てた。
「はあ、はっ、んぁ、みるくさん……」
上気した肌、虚な目、頬を静かに流れ落ちる絶頂の涙、怠惰に緩んだ肉体、淫液と飲料の混ざり合った汁を垂らして余韻にひくつく陰裂……すべてがミルには劇薬だった。
「すきなのに……」そして快感にぼやけて掠れた声。
その頃にはミルは十二分にマスターを好いていたので、ここで思いを遂げない理由はなかった。
ミルは扉を壊れんばかりに激しく押し退け店内へ乱入する。
マスターは可哀想になるくらい凄絶な悲鳴をあげて脚を閉じソファの上でゆるく身を捩った。絶頂に疲弊した身体はそれ以上の緊急回避を行う事はできないのだろう。
「い、いつから、見て……」
マスターの言葉からはいつもの流麗とした趣きは失せて、羞恥と困惑で辿々しい。
「ほぼほぼ最初から。だから今更隠しても意味ないよ」
ミルはソファの背もたれに両手をついてマスターを自身の内に閉じ込める。
「ごめんなさい、あなたでこんな、こと、して……」
マスターは涙を流して俯いた。大人の、歳上の男の羞恥だか後悔だかの泣き顔は激しくミルの感情を揺さぶった。切ないというか、可愛いというか、絶対にないと思っていた母性みたいなものが顔を出してくるのだ。あとすごく苛めたい気分になる。
「泣かないでよ。苛めてるみたいじゃん。それについては責めてないし。なんなら見れてラッキーみたいな」
何がラッキーなのかよくわからないようで、マスターは涙を溢すのをやめてただ呆然とミルを見上げる。
「あたしとセックスしたい?」
ソファで膝を抱えた男は明け透けな問いに、はい、と消え入りそうな声を発した。