赤ずきん、あるいは - 1/5

「赤ずきんちゃんはお花を摘んでいるところです」
 ハンドルに預けた腕で頬杖をつき、道路に面した花屋を見つめながら運転手は一人呟く。
 ガラス張りの路面店は陽の落ちた屋外とは対照的に明るく中の様子がよく見えた。
 客は一人。ふんわりした赤いケープのようなコートを羽織った人物が恭しく両手で花束を受け取って、店員が開けたドアを通って礼儀正しく会釈する。
 花束を抱いた赤い人は歩行者を不器用に避けながら歩道をふらふら横切って、ガードレールに膝頭をぶつけてからそれをぎこちなく跨いでやっと車に辿り着く。しかし両手に花では上手くドアが開けられないようで、何とかしようと必死に身体を捩っている。運転手はしばらくそれを興味深く観察してから手を伸ばして助手席のドアを開けてやった。
 新鮮な冷たい空気が車内を掻き混ぜる。そして馥郁たる花の香り。それがエアコン送風口に差した柑橘系の芳香剤の匂いと混ざって何がなんだか。
「ありがとう。お待たせしました狼さん」
 顔が隠れんばかりの花束を胸に抱えて助手席にちょこんと座った男がおっとりと言う。
 狼さん、もとい大神ユキはハイハイと面倒そうに片手を上げて車を発進させた。
 自分が狼ならそっちは赤ずきんちゃんだよ、と同乗者を横目で窺いながらユキは思う。
 真夏以外は赤い外套かカーディガンを着て、男物のそんな色物どこで買うのかと思えば、自分で作ったの〜♡ と言う。本人はモーツァルトかイギリス軍気取りらしいが、天然とお上品仕草が頻発するゆるふわ体型の四十手前の男はどう見ても森にいる妖精とか赤ずきんである。少なくとも軍隊の人ではない。
 いい歳の男を赤ずきん呼ばわりするのもどうかとは思うが、寄り道が多いので仕方がない。
 今日も帰る道すがらにまずはハイソなスーパーに寄って買い物をして、次は洋菓子屋でケーキや焼き菓子を買って、そして花屋でサブスクの花を受け取った所だ。
 これが赤ずきんでなければなんだろう。
 別に狼さんことユキが唆して寄り道させているわけではない。狼さんは早く帰りたいのだ。
「ハルさんて、わたしのこと絶対狼って言ってるよね」
 花に顔を埋めてニコニコしていた狩野ハルはきょとんと首を傾げて、ウェリントン型の金縁眼鏡ごしにまんまるな目でユキを見る。
「えぇ、言ってないのに」そして右を指差し「あ、狼さん、ここ左ね」とややスローなテンポで言う。
「言葉と行動がまるで一致してないんだが」
 送り慣れた道なので、どちらに曲がればいいかは分かりきっている。車は左折し駅前の繁華街から遠ざかりハルの家の方角へ。
「頭と末端の神経がうまく接続されてないみたい。さっきもガードレールに膝ぶつけちゃったもの」
「知ってる。見てた」
 丁度赤信号で停車していたので、ユキがちらっと同乗者に目をくれてやれば、彼の男だてらに滑らかで白くふんわりした頬が赤らむ。ついでに形のいい耳も。
「わあ、恥ずかしいなあ」
 ハルはてへ、と頭を掻いた。本人の気質を体現したようなふんわりした髪が揺れる。そして品よく整った顔がちらとユキに向けられて恥ずかしげに笑む。
 ちくしょう、いい歳したおっさんのくせに綺麗な顔でかわいい仕草しやがってよぉ、今日こそ家に上がって押し倒してぐちゃぐちゃに犯して上生菓子かマシュマロみたいな身体食い散らかしてやるから覚悟しとけよオラァ、とユキは心の中で荒ぶった。送り狼である。
 ユキとハルは付き合っている。かれこれ半年ほどになる。
 二人の職場は五階建てのビルをまるまる贅沢に使った大型手芸店。その広さ故にフロアと担当の売り場が違う従業員と顔見知りになる機会はあまりない。しかもユキはミシンメーカーからの出向のため尚更。なので布地・オーダーフロアのハルとの接点は長らく皆無だった。
 きっかけはハルが倉庫で両手いっぱいに洋裁生地の反物を抱えて建て付けの悪い扉とインファイトしている所を通りすがりのユキが何の気なしに助けてやった事。
 ゎぁ〜ありがとう、と花開くように微笑んだ柔和な顔にユキは頬を引っ叩かれた。勿論比喩である。
 その後どうにも気になってこっそり覗った仕事中の様子に完全に打ちのめされた。顎を下からぶん殴られて酩酊しながら昏倒した、そんな感じ。
 客の注文を受けて生地に裁ち鋏を滑らせる姿はそれ自体が刃物のように研ぎ澄まされて、バックヤードでオーダーメイド品を作っている様子は流麗としていた。どちらも無駄の一片もない所作に引き締まった真剣な面持ちで、おっとりした気配の入り込む余地はなかった。
 ドアも開けられないんじゃ仕事も一時が万事かわいい感じだろうなというユキの予想はいい意味で裏切られた。
 こうしてハルにやられてからは手が空いた時には彼のいるフロアを徘徊し、暇そうなら声をかけ、デモ用ミシンを使ってみてもらったり、酒の席に出て近くに居座るというユキ史上類稀なる積極性を発揮し覚えめでたくなってもらう機会を増やした。
 そしてハルの住まいが判明するや甲斐甲斐しく車で毎日の通勤の送迎をし、行きたいところがあると聞けば連れ出し忠実な犬のように付き従った。
 下心丸出しで単なる都合のいいパシりに自ら身を落としているような気がしないでもなかったが、何もしないよりは精神衛生上よかった。何しろ相手は集中している時以外はドのつくゆるふわ天然なのでガッチリ囲い込まないといつの間にか誰かに掻っ攫われそうな気がして。
「毎日一緒にいるから、なんだかお付き合いしてるみたいですよねえ」
 ある日の帰りの車の中、とうとうハルがそうぽろりと溢したので、ユキは一気呵成に畳み掛けた。
「はいじゃあそういうことで」
「職場で噂になっちゃうかも」
「ああじゃあそういうことで」
「僕はいいですよ。でも……」
「うんじゃあそういうことで」
 ユキは車を人気のない夜の公園沿いに乱暴に停めて助手席に血走った目を向けた。このままキスの一つでもしたいところだ。あわよくばそれ以上も。
「落ち着いてね」天然ゆるふわに困った顔でそう宥められるのはなんだか癪であった。「あのねえ、僕ついてない系男子だからノーマルなやり方できないの」
「えっ」
 ついてない系男子とは、すごく運が悪い男という意味……ではなく、男性器がなく女性器が備わっている男という意味である。俗称が広く知られて用いられるくらいにはこの世に多く存在しているらしい。
「もっと早く言ったらよかった。時間を無駄にさせてごめんね。まさかそういう気があるとは思わなかったから」
「いや全然問題ない!」むしろ願ったり叶ったりである。というのも、だが、しかし「問題なのはわたしがついてる系女子ってことでした……」
 気持ちが逸り過ぎてすっかり頭から抜け落ちていたが、ユキは両性具有だった。見た目上は女性優位に発達したが、性器は男女の両方がついていて、どちらかというと男性生殖器の方が発達している。そういうわけで性的興奮を覚えた時に催すのは男性器の方である。
 もっと早くにそれとなく伝えておくべきだったとユキは後悔した。ここにきてこれが理由でダメだったら立ち直れない。ていうかなんで言うの忘れてたんだろ、とユキはハンドルに額を預けて項垂れた。他人の事を天然どうこう言えない程度に案外詰めが甘い。
「そうなんだあ。ダブルでお得」
 しかしハルは意味が分かっているのかいないのか、いつもの調子で鷹揚だった。
「いやお得と思った事はないですね」
「そお? 選択肢が広がって……」そこまで言ってハルは艶めいた唇に指を当て視線を上向かせる。「ん、それじゃあ僕と普通にえっちできるって事?」天然故か、かなり明け透けな閃きと疑問だった。
 ユキは叫ぶ。「できらあ!」たぶん。男とも女とも、勿論ついてない系男子ともした事がないから実際のところはわからないが、この勢いならできそうだった。
 ユキはハンドルからガバッと起き上がりシートベルトを引きちぎるように外すとハルに詰め寄った。触れた腿は穏やかに温かくマシュマロのようにふわふわだった。それだけであらぬ場所に血が上った。
 男の指がユキの黒髪を愛おしげに梳って、巻き付けて、三日月のように歪んだ唇に寄せた。上品で慇懃な印象を与える眼鏡の奥で、甘ったるく堕落した艶を見せる上目遣い。
 ユキの心臓が破裂した。見た事もないその蠱惑的な様相に。ほんの一瞬ノイズのように差し込んだ淫らな表情はもう見る影もないが、見間違いだったようにも思えない。
「じゃあお付き合いする?」声すらもいつもよりどことなく誘うように甘く深い。
 ユキが首から頭が落ちんばかりに頷けば、ハルは、そうしましょ、と穏やかに笑って唇を合わせてきた。潤った天鵞絨のような感触。ふわりと香るいい匂い。ユキはたまらずハルの身体に腕を回して背中や腰を撫で回した。そしてそのまま下半身へ。むちっとした尻とか寄せられた太腿の間とかにじっとり触れる。
「あ、いきなり……車じゃだめでしょう」
「じゃあどこなら」
「部屋風呂つきの旅館」
「そんな金ないです」
「じゃあ、おうち」
「行くこれから行きます。うちに来てもいいです。古くて汚いけど」
 前のめりに先走るユキを見てハルはうふふと実に愉快そうに笑った。
「もっとたくさんデートして仲良くなってからだったらいいですよ」
 と、これが大体半年前の出来事である。
 それからは休日に会う頻度も増えたし、大っぴらに手を繋いだりキスしたりもした。ハルが食べているものを一口もらったり、逆にあげたり、そういう濃厚接触さえする。ユキ的にはすごく仲良くなったと思う。こんなに親密になった人間は他にいない。
 しかしいざそういう雰囲気になるとのらりくらりとかわされる。
 気づいていないのか焦らしているのか、あるいはそういう行為は初めてとか慣れないとかで忌避感があるのか、何にせよユキにとってはひどくお預けを喰らっている気分だった。
「ありがとう、狼さん」
 ハルの住むマンションの前で停車すると、ハルはシートベルトを外してユキの方へ手を伸ばし、横顔に唇を触れさせた。優しく、性愛など感じさせないようなそれだった。そしてユキのコートの襟についたファーを撫でる。そちらの方がむしろじっとりうっとりするような触れ方なくらい。
 そういえばハルは自分を名前では決して呼ばないな、とユキは気づく。本当に狼と思っているわけでもあるまいに。いや、思っているのかもしれない。狼に育てられた人間だと思われているとか。
 確かにハルに比べれば知性と品格に欠けるだろう。花をサブスクするような美意識と文化はないし、高級スーパーで買い物するような資本も嗜好もない。それに歳も少し離れている。あちらにはあんまり本気の付き合いのつもりはないのかもしれない。
「荷物部屋まで持って行くよ。一人じゃ無理でしょ」
 よし、これはぜひ部屋に上げてもらって“わからせ”とやらをしてやらねばな、と童貞のくせに根拠のない万能感を掲げてユキは己を奮い立たせた。
 来客用駐車場に車を停めて、ユキは徳の高そうなスーパーの紙袋とケーキの箱を持つ。ハルはこういう時には昼行灯の面目躍如なので落とそうが投げようが大勢に影響のない花だけ持たせておく。
 期待と緊張入り混じる気持ちで入った部屋は広めの1LDK。室内はモデルルームのように整っていて、ハルと同じいい匂いがした。
 ユキは言われた通りキッチンカウンターに紙袋とケーキを置く。
 ハルは花をリビングの窓辺にあるレトロなミシン台に置いて、ユキににっこり笑いかける。花の蕾が綻ぶようなすこぶるいい笑顔である。
「助かっちゃった、ありがとう」
 あとは気をつけて帰ってねとでも続きそうな雰囲気。
「それだけ?」
 ユキは部屋の主に大股に一歩近寄る。
「それだけって?」
 ケーキ食べたいの? と、きょとんと首を傾げるハルを抱きしめ、思い切り体重をかけて床に押し倒すユキ。アイボリーのラグに血溜まりのように広がる真っ赤なコート。
 仰臥するハルの上に覆い被さり、ユキは血色の良い唇や生白い耳元に噛み付くように唇を落とす。一日働いた身体だというのにどことなく良い匂いがした。柔軟剤か、ボディソープか、花か。あるいは彼の血肉から湧き立つものか。そう思うと堪らない。
「ん、だめだよ」
 返ってきたのは危機的状況なのに危機感のない間伸びした声だった。
「部屋に上げたのは、そういう事をされてもいいって意味でしょ」
「部屋に上げたのは、部屋に上がってもいいって意味でしかないよ」
「仲良くなったら部屋でするって言った。それともまだ仲良くなってないつもり」
 ハルのコートを剥くためにかけたユキの手が案外強い力で掴まれ阻まれる。
「我慢できないの? まだお付き合いはじめて半年じゃない」
「もう半年だよ!」
「切羽詰まって、辛そうで、かわいい」
 ハルの顔が笑みに歪む。いつもの気の抜けた笑い方ではなく、加虐的というか蠱惑的というか、淫らな色香あるそれだった。付き合うだのなんだの話した時に一瞬見えた気がしたあの顔。
「ふざけるなあ」と言い終わる前にユキの身体が一回転して視界の天地が入れ替わる。「ぎょあ!?」
「狼さんのくせに筋力ない。鍛えてないんだね。それでどうやって僕をどうこうするつもりだったの」
 臀部を膝で挟まれて跨がれ見下ろされ、そう揶揄われる。天井からの室内灯で逆光に翳った男の顔。いつもの笑顔なのになんだか凄みがある。
「い……勢いで、なんとかなるかと」
「なんともならなかったね。さてどうしましょう。仕切り直し? するなら部屋風呂つきの旅館がいいなあ。お風呂一緒に入って、ごはんいっぱい食べて、浴衣でえっちな事たくさんするの」
 うふふと笑われて、ユキの頬が羞恥とか妄想とかその他色々な感情で爆発的に紅潮する。
「やっぱりわたしの事からかってたんだ、本気じゃなかったんだ。ひどいよ、こっちは……」
 ユキの目から大粒の涙がぼとぼとと落ちる。
「泣き顔もかわいいけど泣かないで、本気だよ、ずっと。新年度の飲み会で狼さんが出向の挨拶した時から」
「えっ」
 そうなるとユキがハルの存在を知覚するよりもずっと前だ。彼にそういう風に思われていたとはまったく気づかなかった。
「青い血管が透けて見えるくらい白い肌で、お酒を飲んだらほんのり頬に赤みがさして、黒髪つやつやで、森の中のお姫様みたいできれいだなあって最初は思ったもの」
 そういう風に見られていたとも。
 ユキの濡れた頬から首筋が指の裏側で撫で下ろされる。じっとりと、淫らな気が詰まった触れ方だった。気持ちが昂って敏感になった身体には毒で、びくびくと震えてしまう。
「さ、最初だけ?」
「最初だけ。次の日からよく見てれば、いつもレザーとファーのコート着て、店では地味に働いて、まるで千匹皮だったね。仕事が立て込むと狂戦士。僕といる時には堪え性のない狼さん」
 ハルの手がユキの身体をコートの上から撫で回す。慄き震える豊かな胸を、薄い腹を、締まった脇腹を。柔らかな手はレザー生地に吸い付きユキの芯を燃やす。
「今日はラムレザー。ファーはフェイク。これじゃあ戦士や狼とは言えないね。だから僕に力負けしちゃうんだ。クロコダイルかパイソンならまあ、望みはあったかもね」
 指がコートのジッパーを掴み、滑らかに下ろす。まるで仕留めた獣を解体する猟師の様相。洋裁生地を裁ち鋏で切り裂くがごとく。あの仕事中の冷涼な顔で。ユキは自分が抹殺されるべき悪い狼のような気がしてきた。いや実際他人様を合意も同意もなく押し倒したのだから良い人間とは言えないだろう。