マナは事後の火照った体を春の夜風に当てていた。窓の桟にもたれかかり、手慰みにビール瓶の王冠を弄う。
「お花見にはまだ間に合います。お送りしましょう」
T4-2がシャツのカフスを留めながら軀を屈めて窓の外の月を眺める。朝の支度でもしているかのように気軽な様子で、彼だけを見れば、マナとT4-2の間には秘密も情事も何もなかったかのようだ。
「予定まで筒抜けってわけ」
「刑事課主催の花見ですから、私が知らないわけがありません」私の参加はあまり歓迎されてはいませんが、と事もなげに憐れなことを言うT4-2。「しかしあなたは行かなくては。おそらくアルコールが足りません」
T4-2が台所を指差す。先程マナがビールを盗み飲んでいたときに、冷蔵庫に整然と並ぶ差し入れ用のビール瓶が見えたのだろう。
「足りないくらいで丁度いいんだって。警官共なんか酔うとうるさいんだから」やれ愛想が悪いだの、行き遅れがどうの、痣がなけりゃなんたら……とマナは再び外に目をやる。
夜風が首筋と髪を弄う。T4-2は何も言わない。
「一つ条件がある」
窓の外を見たままマナが口を開く。
「構いませんよ、その条件で」
T4-2はマナの隣に行儀良く正座してそう返してくる。
「まだ何も言ってないんだけど」
マナはT4-2を睨みつける。睨まれた方は鷹揚なもので、重たそうな手をひらひらと振る。
「なんであれ、他ならぬあなたの条件ならば呑むつもりだという意味です。しかし、念の為お聞きしましょう」
「あの日の盗みについて誰にも口外しないこと。今後あたしが隕鉄を盗んで壊すのを妨害しないこと」
マナは神棚から降ろした隕鉄をT4-2へ放り投げる。
「私に逮捕権はありませんし」T4-2は彼を共犯者にしてやろうというマナの意を得たりと手の中の隕鉄を文字通り握り潰す。「あなたが盗んだという確かな証拠もありません」手を開けば、粉になって尚、輝く星屑。「自白した内容が事実とは限らないからです」
「なんだ、悪いことできるんじゃない」マナはつまらなそうに呟く。
「ついうっかり、力加減を間違えただけです」
安電灯が作り出す唇の影はT4-2の変わらぬ微笑をどこか残忍に見せる。マナ自身の感情が投影されているだけかもしれないが。
「あーあ、いけないんだ、警官が盗品壊したあ」
「墨田工場からは隕鉄が盗まれたという届出はなされておりません」
つまり、あの場に隕鉄があったことを置菱製作所側は外部に知られたくないということだろうか。
「ですからこれは厳密には盗品ではないのです。今のところは」
「屁理屈」
マナはT4-2の手の中の星屑に顔を近づけ、ふうと息を吹きかけて窓の外へ吹き飛ばす。
「あと、あなたは条件を二つ仰いましたよ」T4-2は指でVサインを作ってみせる。
「うるさい」
「何故隕鉄を壊す必要があるのですか」
「隕鉄があると超能力が強まる。そういう力は強過ぎない方がいい。手に余る力を持った人間はよくないことを考え始めるから」
「手に余る。なるほど、そういうことでしたか。よくわかりました」
T4-2はマナが言った以上のことを理解したかのように大袈裟に頷き、Vサインを作った二本の指で己の胸部を指した。
そのとき、空気を揺るがす音が夜を裂く。まるで飛行機がすぐ真上を飛んでいるかのような轟音だった。
暗い彼方よりの飛来物は窓から身を乗り出すマナに影を落としながら飛び去る。
「あんたの友達じゃない?」
マナは夜空よりも深く黒いダークフェンダーを指差してT4-2を見上げた。
「私に友人はいません。行きましょう」
T4-2は急いでベストと上着を羽織ると、帽子は小脇に、外套と首巻きは腕にかけて居間の戸口でマナを待つ。
「あなたも準備をして」
「花見の?」
「あれを機能停止にさせた後なら構いませんよ」
マナは箪笥から適当に引っ張り出した薄いブラウスとスカートを着て、玄関でサンダルをつっかける。
「そんな格好で行かれるのですか」
“そんな”格好、ときたものだ。これだから着道楽は嫌だ。
「どうせ初めてってのは酷いもんなんでしょ。なら汚れてもいい格好で行くわ。それより、保安官さん……」
マナは手の中のビール瓶の王冠をT4-2に向けて飛ばす。
「白星発進!」
T4-2の胸元に吸い付く、黒地に銀の六芒星の意匠の王冠。
「美しい。まるでブリキの星」
そう呟きながらT4-2は大事そうに王冠を胸ポケットにしまった。
逆巻く空気に桜の花弁が舞い上がる。公園の並木道で桜色の雲と月を割るように相対するT1-0とダークフェンダーの姿はなかなかの圧巻であった。
『つまらん花見は終わりだよ! 解散解散さっさと解散! 踏み潰すぞ! 役立たずの墨田署の野郎共も家族連れてさっさとお家に帰んな!』
もちろんこんな悪態をついて人払いをするのは機械公爵などではなく、T1-0を操縦する内藤マナである。ただし、その声色はT4-2のもの。
「言葉遣いがよろしくないですね」
一つの物から二つの声が聞こえるのも都合が悪かろうと、T1-0の拡声機から出るのは、誰が喋ろうとT4-2の声である。
「もっと穏やかに、お願いいたします」
「銃も撃てない、自由に喋れない、じゃあ何のためにあたしを乗せた!」
ダークフェンダーとの開戦直後、というか、その眼前に降下するや否や、マナは機関銃をぶっ放そうとしたのだが、武器類の制御を行うT4-2はそれを良しとはせず、T1-0は右腕を前に突き出したままダークフェンダーと睨み合う形になった。
市街地で火器を用いれば二次被害が拡大するおそれがある、などと宣うT4-2にマナは辟易とした。悪徳を借りると言ったのはなんだったのか。
マナの行動を抑制されたのは、数分前にT1-0に搭乗してからこれで二度目。
一度目は、ブースター飛行で目標の上空百メートル程の位置に到達した際に、このまま自由落下してダークフェンダーを殴り殺そうと提案したとき。
近辺には地下鉄が通っているため地面の陥没は可能な限り避けるべきであり、そしてそんなことをすればマナも無傷では済まない、とすげなく却下。
「無傷じゃ済まないって、機械公爵に迎撃されるってこと?」と聞き返すマナに対してT4-2は平坦な声で「骨が折れますよ」と一言。それが物理的になのか、マナに物理を説くことについてなのかはわからなかった。
『お早い到着でよかった。来てくれるまで暴れる手間が省けたわあ』
機械公爵がそう発したのを皮切りに、マナはT1-0を駆りダークフェンダーの胸部を下から思い切り殴り上げた。激しい衝突音とともに、ダークフェンダーが後ずさる。
「ああああああ! いだあああああ!?!?」
そして痛みに叫んだのはマナだった。T1-0が腕を押さえて膝をつく。
「痛みを遮断しますか?」
「はやくしてはやくして!」
瞬間、マナの骨の髄にまで響くような激痛が鎮まり、T1-0はやっとよろよろ立ち上がる。
「物体を拳で殴るのは初めてですか」
「ロボットに乗ってるのに自分も痛くなるとは思わないでしょ普通」
「神経接続とはそういうものです」
「そういうことはもっと早く言ってよね」
マナは背後に控えているであろうT4-2を睨みつけようとするが、振り返っても見えるのは桜並木と千々に逃げて行く小さな人々だけだった。
神経接続とやらによって、マナの神経と感覚はT1-0と同期されていた。
お陰でマナの視覚はT1-0のそれと同化し、肉眼同等かそれ以上の視野と明快さを持って周りを把握することができていた。
そして身体を動かすイメージを持てば、T1-0はほぼマナの望むままに動く。
ほぼ、というのは、自分の生来の身体感覚以上の操作はできず、そしてT4-2もマナと同格の操縦権を持つため、突然制動される可能性があることによる。
つまり、その身に銃火器やブースターを持たないマナはT4-2の手助けなしにそれらを自由に使うことはできないが、T4-2は好きなときにマナの行動に介入することが出来る。
また厄介なことにマナの神経はT1-0を通してT4-2とも同期されており、彼女の感覚はすべて彼に筒抜けなのだった。
「申し訳ありません。ついうっかり」
頭の中に直接の響くようなT4-2の声はマナの五感を甘美に刺激する。
私の声が、あなたにとってはこんなに甘美に響いていたとは! と神経接続直後のT4-2は感激しきりだった。
そして狭いコクピットの中、縦長のバイクシートのような操縦席に前後で二人乗り。ハンドルグリップ状の操縦桿を握るマナの背にはT4-2の厚い胸板。腰にはしっかりと回された重たい腕。段々慣れてきたが、最初はなかなか感じるものがあり、それもT4-2にはバレバレだっただろう。
やりやがったな、とばかりにダークフェンダーが迫撃砲を撃ち込んでくる。T1-0は両腕を交差させ、追尾してくるそれを正面から受けた。そんなおざなりな防御をしても、もはやマナに痛みはない。
「今のは、精密射撃で撃ち落とす方が見栄えがよかったですよ。指示して下されば即座に武装の展開をいたしますので」
「痛くないから見栄えとかどうでもいい」
「私があなたの痛みを肩代わりしているだけです」
「そうなんだ、ごめんね」
口では適当に謝りながらも、迫撃砲の連射を撃ち落とすでも、盾を展開させるでもなく腕だの胴体だので雑に受けるマナ。
「構いませんよ。痛みと向き合うのは趣味と畢生の探究のようなものなので」
「変態」
マナは胴体に迫る迫撃砲を鷲掴みにすると、その拳をダークフェンダーの肩、機械公爵に向けてお見舞いする。確かな手応えの後、爆発するT1-0の拳。
『お返しだ』
だが爆炎が散った後に見えたのは、爆発四散した機械公爵ではなく、歪んだT1-0の右手と、それを受け止め機械公爵を守ったダークフェンダーの割れた掌だった。
『うちを直接攻撃するのは禁じ手やろがい』
「悪い人ですね」
挙句敵からも味方からも責められる。
こういうやり方を望んで自分を引き入れたんじゃないの!? とマナは狼狽する。梯子を外された気分だ。
『ほんならこっちもコクピット攻撃するけど、覚悟はできとるのよね』
「こういうことになります」
ダークフェンダーの鋭い蹴りが繰り出され、一発目は腕でガードしたが、二発目はまともに頭に食らう。
「あぁ……」
悩ましげな低い嘆き。マナはT4-2の意識が薄れるのを感じた。
「まずい」
がら空きの胴に突きを受け体勢を崩したところに肉薄する漆黒の手。こちらも手を出しなんとか組み合うが、T4-2の制御補助を完全に失った姿勢は無様で、そのまま力負けして押されていく。
T1-0は踏ん張りが効かぬまま並木道を抜け、公園入り口へ。このままでは繁華街に突入してしまう。
「止まらない! ブースターかなんかやって!」
返事はなく、マナによって無理矢理に力を漲らせたT1-0が激しく震動する。
意識を手放したT4-2の軀が揺れ、剥き出しの手がマナの首筋に触れる。
顧みればもう目抜き通りに踵を踏み入れており、背後には行き交う車列や路面電車、照明やネオンサイン煌びやかな百貨店やビルが迫る。
『畜生が!』マナは叫び、一か八か磁力を発揮する。
マナに触れるT4-2の、そしてT1-0の体表面が複雑な線状模様を浮き立たせて輝く。陽光もない、夜の最中に。
T1-0の脚と路面電車の線路に迸る磁力が互いを拒み、車列やビルに激突する寸前でなんとか一瞬動きが止まる。そしてやっと復帰したT4-2がブースターを点火してダークフェンダーと互角の押し合いになる。
「磁力強くなった気がする」
質量重量共に巨大なロボットと線路に同時に磁力を纏わせるなど、普段ならば命の危険なしには叶わないことだった。しかし今は鼻血の一筋も流れ出ることなくやってのけた。
「それは私とT1-0の部品に隕鉄が使われているからですよ」
「今なんて!?」
「それは私とT1-0の部品に隕鉄が使われているからですよ」
T4-2は再び同じ調子で繰り返した。
「そして私達がよく交わったからです」
「そういうことはもっと早く言って!」
わかっていたら、もっとマシに立ち回れたはずだ。機械公爵そのものを磁力で押し潰したりだとか、ダークフェンダーの首を捻じ切ったりだとか、そういう血生臭い野蛮な方法で。おそらくT4-2がそうはさせないだろうが。
「申し訳ありません。ついうっかり」
マナは苛立ち紛れに、路上に放置されていた車を一つ踏み潰した。その面構えと佇まいがどことなくT4-2を想起させる米国車を。
「車を壊しましたね」
「ついうっかり」
「公共物や民間人の所有物、あらゆる生きとし生けるものに被害が出たときが私達の負けです」
「あれを倒せば勝ちでしょ。建物だの車だのにどんな被害があろうとも」
ダークフェンダーを力任せに公園内に押し返そうとするマナ。眼下の路面電車を思わず踏み潰す寸前で、T4-2が脚部の制御を取り上げその場で踏み留まる。
「それは平和と自由の敗北です。私は圧倒的な武力で相手を打ち負かすために戦っているのではありません」
「じゃああんたはせこせこ周りを守ってればいい!」
マナの磁力が車やら路面電車やらを滑らせるように付近から追い払う。道路沿いに張り巡らされた電線が優雅に揺れる。
「あたしは壊す人ね」
T1-0はダークフェンダーと組み合ったまま、力任せに左腕を胸の前に掲げる。
「最初からそのつもりでした。守護と破壊。私はT1-0の美徳回路で、あなたは悪徳回路」
T4-2がマナをより強く抱き寄せ、その襟元に手を侵入させる。素肌に刻み込まれた首飾りに触れる、生ける隕鉄。
街中の街灯が、ネオンサインが、火花を上げんばかりに煌々と輝く。
「大盾展開」
マナの声と共に勢いよく左腕から飛び出した盾の下端が激烈な磁力を帯びてダークフェンダーを弾き飛ばす。ダークフェンダーは巨大な飛沫を上げて公園内の池に倒れ込んだ。
『この前とは随分調子が違うやないの。もしかして二重人格?』
胸部を凹ませたダークフェンダーが手をつき池中に立ち上がる。
「さながらジキル博士とハイド氏ですね」
「誰それ。あたしがジキル博士?」
「それでいいですよ」
ダークフェンダーが腕を振り上げ、傍らの塔を壊そうとする。T4-2がすかさずケーブルを射出し、ダークフェンダーの腕を引き留める。
『そう来ると思っとったよ』
ダークフェンダーがケーブルごとT1-0を引き寄せる。水面に映る満開の桜を引き裂きながらT1-0はダークフェンダーに肉薄させられる。
『運命引き寄せた! それに乗るんが賢いやり方よ、うちのコレクションになりや』
『私とあなたに運命はありません。運命とはお互い引き合うものです。磁力が働くように』
「悠長に話してる場合か! ケーブルを切れ!」
『そか、なら、一旦壊してからお持ち帰りするしかないな。安心しな、うち解体したもん組み直すの得意やし』
ダークフェンダーの肘のロケットエンジンが火を吹く。先の戦いでT1-0が敗北を喫したあの大技が繰り出されるのだろう。
「まずい」
「いいえ、好機です。あなたの一番の腕の見せ所ではありませんか」
T4-2が及び腰だったT1-0の体勢を立て直し、ケーブルをパージする。
「間違えても引き寄せてはいけませんよ。反発です」
首筋を伝うその指の動きは戦いの最中でもひどく淫ら。
「人遣いの荒い奴!」
マナは心からの悪態をついて、磁力のすべてをT1-0の片方の掌に集める。
『ダークフェンダー、ジェットパンチ!』
『どうぞ、私は避けません』いらっしゃい、と挑発してみせるT4-2。
『行けええええ!』
機械公爵の熱の入った叫びと共に繰り出される拳に、マナは真っ向から掌を突き出す。T1-0の全身から掌に向けて線状紋様の輝きが寄り集まる。
ダークフェンダーの一気呵成の攻撃はT1-0の掌を突き抜け、その胴体すらも粉砕するだろう。マナの磁力がジェット推進に押し負ければの話だが。そもそも押す必要もない。ちょっと逸らしてやるだけだ。
直進方向へ込められていた力を突如上方にやんわりと曲げられたダークフェンダーは、強力な推進力も相まって拳を天に突き上げて浮き上がる。
「真上なら撃っていい!?」
「どうぞ」T4-2がT1-0の機関銃を展開させる。「遠慮なく」
マナは浮き上がったダークフェンダーの下に滑り込み、そのボディに機関銃を押し当てる。
目を焼く閃光と野蛮な音、そしてT4-2の激甚な喜悦に満ちた哄笑がマナの頭の中で弾ける。
マナは同乗者の残忍な法悦に応えるが如く、胴を蜂の巣にされ、池に倒れ伏すダークフェンダーの背を踏みつけ、ジェット搭載の腕を肩から捻り切った。
『ご自慢の鉄腕はいただく』
「おお、我らが大いなる掠奪者の皇帝にして女帝」T4-2は蕩けるような妙なる声色でマナを讃嘆した。
残る三肢も部品ごとに解体してやろうと捻じ切った腕を放り投げようとした瞬間、マナの意識が一瞬飛ぶ。
気づけば再び薄暗い操縦席に戻っていた。
慣れ親しんだ生身の感覚。T1-0より軽いはずなのに、水から上がったときのようにとても重く感じる。
緑がかった風防越しに、ゆっくり立ちあがろうとするダークフェンダーが見えた。
「残念ながら、補助電力含め、もうエネルギーがありません。あなたの磁力でコイルを回していただければもう暫くは持つのですが」
声に振り向けば、そこにはT4-2。神経接続から完全に追い出されたようだ。
「回す? なに?」
「いいえ、いいのです。相手の戦意も尽きたようですから」
『ああっ、燃料パックがお釈迦や! 今日のところはなんとやら……こないだも言ったから以下省略。ほな、またな、牧島重工製四五式トロイリ四型汎用亜人型自律特殊人形第弍号ちゃん。うちは諦めへんで』
マナが呆けている間に、機能停止寸前のダークフェンダーは機械公爵の指示によって再び夜空を裂いて飛び去って行った。
T4-2は自身の項に接続していた端子の束を無造作に引き抜く。
「降りましょう」
T4-2がシートから立ち上がり、マナに手を伸ばす。
「T1-0はどうするの」
エネルギーを喪失したT1-0は最期の吐息のようにブースターから煙を吐き出した。
「完全に機能停止しています。一時的に放棄するしかありません。行きましょう、まだ辺りが混乱している間に」
T4-2は操縦席のハッチを力任せに開けると、マナを片手に抱き上げ、自身のケーブルを器用に用いてT1-0の外周を伝って離脱した。
T1-0が吐き出した煙幕に紛れて地上に降り立ち、池を取り巻く人混みに紛れると、T4-2は帽子の鍔を前に引き下げ顔を影に隠し、マナの肩を抱き、野次馬の波を優雅に掻き分け逆らいながら、人気のない方を目指す。
影の中で傾く機械仕掛の微笑む横顔、帽子の鍔を押さえる指先、マナを抱き寄せる紳士的で密やかな動き、ときに彼女をちらりと見る輝き。そんなT4-2を見ているとマナの心臓は沸る血を大量に全身に送り込んでしまう。なんと完全無欠に色香のある人工物。
さっきいいようにされた分、どうにかしてこの男の精神の平静を完膚なきまでにぶち壊して、無様な声で快感の叫びを上げさせて、感情回路とやらの隅々まで屈服させてやらないと、まったくこの劣情は鎮まりそうになかった。
人通りのない園内の美術館横で、やっとT4-2は歩を止めた。
人混みを脱してみれば外は案外肌寒く、マナは夜風に震えて自分で自分の肩を抱いた。言われた通りに“まとも”な服で来るべきだった。
「あなたに心からのお礼と感謝を」T4-2はマナの肩に自分の外套をかけ、肩には首巻きを巻いてやりながら言う。「私とT1-0を勝たせて下さいました」
T4-2の指先が髪や肌を掠める度に、マナの頬は赤らむ。それは血気が逸っているせいなのだが、はたからは目の前の男を好ましく思っているように見えるだろう。
「あなたは私の悪徳です」
マナは建物を支える柱に身を預け何も言わない。ただ蕩けるように微笑んで、T4-2の頬に触れ、遠くを見るような瞳で彼の目を見つめるだけだ。それは相対する者にある種の浪漫の気配を感じさせる表情だった。
「そのように見つめられると困ってしまいます。鋼鉄外皮のその奥の奥、神経系統まで透視されているような……羞恥と愉悦を覚えます」
美徳回路に隷属させられたロボットにとっても例外ではなかったようで、T4-2は右手を愛しげにマナに伸ばそうとする。が、光の線を浮き立たせて輝く機械仕掛の右手は震えながらゆっくりと拳を握るとT4-2の顎にぴたりとくっついた。その格好はさながら地獄の門を見下ろす男のようだった。
隕鉄そのものともいえるT4-2を支配することなど、もはやマナには造作もないこと。外側も内側も、その隕鉄混じりの外殻に触れれば手に取るように構造がわかった。
「あなたは」驚きというより喜色が滲む声。「悪い人ですね」と言い終わるか終わらないかのうちに「T4-2、精密射撃」マナが落ち着き払った声で宣告した。
T4-2の上着の袖からライフルの銃口が飛び出し、彼の頑丈そうな顎に磁力を帯びて超加速された銃弾が激突する。
勢いよく美術館のガラスの外壁を突き破って、蹴り飛ばされた空き缶のように惨めに床に投げ出されるT4-2。閉館後の美術館の床を真新しい上着の背で掃除しながら、エントランスで吸い付くように止まる。
己の武器でも特殊鋼鉄の外殻は傷一つつかなかったが、T4-2の神経回路は激しく揺さぶられ即座に体勢を立て直すことは能わないようだった。
「この建物を誰が設計したかご存じの上でのご狼藉ですか」頭を抱えながら言うT4-2。瞳は激しく明滅。
「知るか。子供が作った砂の城だって壊すときは壊す」
標本のように床に縫い止められたT4-2の前にマナがゆっくり歩み寄る。袖を通さず肩にかけた男物の外套、垂らしたままの白い首巻き、さながら暗黒街の公共の敵である。
「その出立ちに似合いの言動ですね」T4-2が頭だけを持ち上げて言う。
「じゃあもっとあたしらしい言葉を言う」マナは凄絶な笑顔でT4-2を見下ろした。「粗大ゴミにしてやる」
マナの影に包まれながら哀れな獲物はうっとりと言う。
「あなたならできますよ」