雨の妃 - 2/5

 二人のほど近くで地が揺れるような轟音が響いた。
 バランタンは地面に強か打ち付けられて痛む背を無理矢理起こし、庇ってやったクロードが無事である事を確認すると、逃げ去る巨大な尻に向かって叫んだ。
「ベエヤード!」
 しかし勇猛で恐れを知らぬと言われていたその馬は、振り返る事もなく一目散に城に向かって走り去った。
「あら……あら」
 バランタンの身体の上でクロードは場違いに悠長な声を上げた。
「くそっ! 帰りの足がなくなったぞ!」
 バランタンは湿った土を拳で叩いた。
「雷が怖いのかしら。かわいいわ」
「あれは雷ごときでは動じない。あれがこの農村で生まれた時、こう祝福された」
 なゆたの英雄の栄光と、幾億の聖人の威光に守られ、万の矢が空気を引き裂く音にも怯まず、幾千の槍の切先の鈍い輝きにも動じる事はない。百の川の上を沈まずに駆け、十座の山を飛び越えるだろう。
 バランタンは身を起こし、自身の外套をクロードの薄い身体にかけてやりながら祝福を暗唱した。
「まあ、ではどうしたのかしら」
「どんな英雄にも弱点はある。アキレス然り、ジークフリード然り。祝福はこう続く。“ただ一匹の蛙の醜い鳴き声だけが、その馬の命を奪う”」
 足元で蛙が情けなく鳴いた。
「蛙が嫌いなのね」
 差しのべられたクロードの白い手に驚いたのか、蟇蛙はぴょんと飛び去った。
「そんなものに触るんじゃない。身体が冷たいな」
 妻に外套をかけてやりながらバランタンは言った。触れた首筋のあまりの冷たさに驚いたのだ。
「いつもの事です。わたくしあなたの方が心配だわ」
 バランタンは太く不機嫌そうな眉を一層顰めた。妻に心配される筋合いなどこれっぽっちもないのだ。
「帰る」
「どこへ」
「城」
「歩いて」
「ああ」
「この雨を」
「そうだ」
 打ちあいのようなやり取りを、クロードの言葉が途切れさせる。
「雨宿りしましょう。一度してみたいんですの」
 バランタンは逡巡した後、素気なく答えた。
「厭だ」
 クロードはちょっと不満げな表情を浮かべたが、すぐにそれは消えた。
「では、少しかがんでいただける」
 訝しげに思いながらも、バランタンはクロードの前で窮屈そうに腰を折った。
 その顰めつらしい頭に、円筒の籠がかぶせられた。
「やめろ私は害獣ではない」
 同じ籠の中で目の前に迫るクロードの顔から、自身の紅潮したそれを背けながら、バランタンは拒絶する。
「お厭なの」
 これでも。と、クロードの薔薇の唇が、目の前のバランタンの酷薄そうな印象を与える唇の端を吸った。
 驚きにバランタンが思わずそちらを向くと、それこそ策士の思う壺、まともに唇が触れあいその柔らかさに支配されそうになる。
「嗚呼クロード、やめろ」
 果敢な責めの合間に吐息と共にそう吐くが、バランタンの太い腕はクロードの華奢な背に回されていた。そしてそのまま地面に倒れ込み、クロードに責められるがままになる。
 小さな手が服ごしに彼の胸や腹を這い、その硬さと弾力を思うままに堪能している。
 肉厚な舌と愛らしく甘い舌がお互いを求め、擦り合い、絡みあい、淫靡な音が籠る。混ざり合った二人の唾液がバランタンの唇の端から滴り、鬚と襟元を濡らした。
 もう、降りしきる豪雨などどちらも気にしてはいなかった。
「んちゅ、ふふ、おしろかえりますか」
 試すような、悪魔の囁きのような声でクロードは問う。そして、もう一度バランタンの唇に挑みかかった。
 陰茎を扱くように、突き出されて震えるバランタンの舌をくちゅくちゅと擦り上げる。まるで自身のそれを直にそうされているようで、バランタンの中心に血が滾ってゆく。
「ふ、へあ、はっ」
 バランタンは困ったように眉根を寄せながら、クロードの奉仕に荒い息を吐いた。
 その腰に、ぐいとクロードの硬い下腹部が押し付けられる。まざまざとその凶悪な形を思い知らされ、思わず初心な処女のように顔を紅潮させてしまう。
 そうして決断を迫られ、急かされ、バランタンはクロードが唇を離すや否や、こう言い放った。
「行くぞ」
「どこへ」
「雨宿りだ」
 バランタンはクロードを片手で軽々と抱えると、葡萄棚の区画を二つほど超えた辺りにある小屋に向かった。
 許可も取らずに不躾にたてつけの悪い扉を開けると、そこは農具をしまう物置だった。薄ぼんやりとした中には、鍬やら鋤やらが放置されている。
「勝手に入っていいのかしら」
 大きな腕から降りたクロードが辺りを見回す。
「私の領地にある物は私の物だ」
 横暴だ、とでも言いたげに首を傾げたクロードの背後で、また空が光り、雷鳴が轟いた。
「違いありませんわ」
 轟音にぴくりと肩を震わせた奥方は扉を閉め、深く頷いた。
 稲光がなければ、小さな採光窓一つしかない小屋は真っ暗で、足元も覚束ない有様だった。
 バランタンはクロードを抱きよせた。クロードも彼の身体の温かさに包まれて安心したようで、詰めていたのであろう息を大きく吐いた。身体は確かに冷たいのに、胸に埋められた唇から漏れる息は温かい。彼は本当に大事な物をいつくしむように、クロードの背と濡れた髪を撫でた。
 クロードはそんな彼を見上げて唇を薄く開き、先の接吻の続きを強請る。
 しかしバランタンは小さな冷たいそれを腕から解放し、荒々しく引き裂くように外套とドレスを脱がせて下着姿にしてしまう。
「まあ、性急ですのね」
「違う。濡れた服のままでは風邪を引く」
 バランタンもクロードに背を向けて自身の上衣に手をかけた。濡れて張り付くそれを引きはがし、シャツを脱ぎ捨てる。
「わたくし風邪は引きませんのよ」
 その裸の背にクロードの声が投げつけられた。
「人間なら引くだろう」
「わたくし人間じゃないんですの」
 では何だ、とバランタンが声の方に目を向けると、丁度眩い光が小屋の中を照らした。
 一瞬でもその情景は目に焼きついた。
 閃光の中で、それは藁山の中に横たわっていた。
 豊かで細かい金糸の髪は藁山に散らばり、絡みついた小さな水滴が宝石のように輝いていた。珠のような肌はこの上もなく白く、当世風の白亜の宮殿のようだった。長い睫に縁取られた瞳は、城壁に迫る森のように深い。しかし、欝蒼とした陰鬱な印象を与えるのではなく、爽やかで澄んだ森を思わせる。
 薄絹に覆われた身体は芸術的で、均整のとれた無駄のない肉体だった。なめらかな首元、うっすらと浮いた鎖骨、ゆるやかに盛り上がった胸、くびれた腰、そして下着ごしでもその存在を主張している男性器。
 流れるようなほっそりとした脚を揃え、腕は胸の下でゆるく組んでいた。
「クロード」
 確かにそれはありうべからざるものに見えた。人間ではない。まるでアポロンに追われて樹に変わる寸前のダフネだった。
「なあに」
 クロードの声は闇に蕩けてバランタンを包んだ。
「真っ暗で怖いんですの。どこにいらっしゃるの」
 バランタンは慣れてきた目を凝らし、一歩一歩クロードに近づく。薄暗がりで色のないクロードは手を伸ばし、彼を迎えた。
 ダフネとは違って、クロードはバランタンの愛を拒む事無く、覆いかぶさった大きな影を抱擁した。
「奇麗だ」
 いささか幼稚な表現であったが、バランタンにはそれが一番しっくりくる表現に思えた。
「あなたが初めて、わたくしにそう言って下さった方なのよ」
 慕情が漲って熱っぽい身体に埋まった冷たい女が言った。
「嘘を吐くな」
 自分を喜ばせるような事を、わざわざ嘘を吐いてまでクロードが言うとは思えなかったが、生来の猜疑心から口をついてその言葉が出た。
「本当です」
「母親にも言われた事がないのか」
 あるいは軽薄な男たちから。そういう厭味を言外に含ませる。
「母親はいませんの」
「そうだったか」
 確かに、そんなような事を聞いたような気もする。産褥で、あるいはクロードの物心がつく前に亡くなったかのどちらかだ。
 クロードに関係する事を覚えていないなんて、とバランタンは暗い息を吐いた。思い返せば、妻の事については覚束ない事ばかりだ。
「あまり深くお考えにならないで」
 クロードは優しくバランタンの頬を撫でた。
 窓の外が輝き、二人を照らす。
 バランタンの精悍で彫りの深い顔がくっきりとした陰影を刻み、一瞬、一層その鋭さが増した。
 しかしクロードは触れれば斬れてしまいそうなその凄味に恐れる事もなく、峻厳な鼻や、重たそうな瞼、厳つい額に唇をそっとあてた。
「わたくしは今確かに、ここにいるのだから」
 クロードは最後に唇同士を触れあわせた。その慈愛に満ちた衝撃に、バランタンの心臓が幽かに狂った。
「あなたの目の前に」
 小屋の屋根を叩く雨音も、稲妻の轟音も、目を焼く光も、すべて遠くなってゆく。
 バランタンはクロードの下着の胸元を肌蹴させ、その滑らかな肌に顔を埋めた。そして脚を撫でさすりながら裾を捲り上げていく。
 クロードはくすぐったそうに脚をよじり、大きな手に促されるままに開き、バランタンの脚に絡める。屹立した陰茎の奥にある秘所は潤んでおり、珍しく彼の象徴を欲しているようにも感じられた。
 バランタンがクロードの陰茎を撫でながら女の箇所に優しく触れると、腕の中の小さな塊は彼の耳元で蕩けた甘い声を上げた。
「あ、んん」
 夫に身体を委ねたクロードの二つの生殖器からは、際限なく絶頂を求めるための手段が溢れ、夫の手をしとどに濡らす。
 バランタンを受け入れるつもりになったのか、クロードはゆるく脚を広げた。
「いいのか、クロード」
 バランタンは跳ね上がる心臓に押し上げられて揺れる声で訊ねた。
「ええ」
 バランタンの胸にクロードの顔が押し付けられる。
 しかし、バランタンは身体を起こし乾いた藁山に手をつきクロードを見下ろした。
「あら……あら。どうなさったの」
 クロードは横たわったまま、陰る夫の顔を見上げた。
 夫は残忍な顔をいやましに歪めて彼女を見下ろしていたが、クロードはその表情から羞恥とこれから来る淫蕩への期待を読み取った。
 バランタンは妻を待ち受けていた。というのも、彼は確かに賭けに負けたのだ。