魔術師のようにふわっと布巾を取り去ると、その下の生地は貴婦人の補正下着のようなパン型の中で豊満に膨らんでいた。粉の量も、岩塩の塩梅も、発酵中に果物から染み出てくるであろう水分量の予測も完璧だったようで瑕疵の一つもない。
そんな自身の会心の技術にタベルナはにんまりと笑った。タベルナだって人並みに自画自賛くらいはする。ただ、いつも謙虚でいる事を心掛けているから口には出さないだけで。
「自惚れ屋。にやにやするな。それくらい余だってやろうと思えばできる」
だが竈の上に銀盆を渡して卓の代わりとしながらワインを舐めている大司教には見透かされていたようだ。竈の火種は完全に沈黙していたが、緋色の衣をまとったその男がひっきりなしに窮屈そうに脚を組み替えるために、まるでまだ燃え盛っているかのようだった。
「猊下には敵いませんね」
そうやって観察されるのも悪い気はしない。むしろ大司教にされるなら嬉しくもある。タベルナは自賛とは別の笑みを浮かべた。
夜中の厨房を照らすのはタベルナの背を暖めるオーブンの火のみ。それが轟々という胎動のような音を響かせ、その適度な騒音が心を落ち着かせてくれる。
オーブンやグリドル、サラマンドルなど炎を使う調理器具の周りを囲む石壁には火を吹くサラマンダーのレリーフが彫りこまれており、設計者の錬金術的な思想を感じさせた。
誰が言い出したのかは知らないが、料理人達の間ではその火場をサラマンダーの祠と呼んでいた。
そんな畏怖のような信仰のような意識と自身の矜持とが相まって、タベルナにとって厨房は一種の聖域だった。
サラマンドルの祠に灯った炎が浮かび上がらせる人影は二つだけで、早朝から夜にかけての忙しさや騒がしさが嘘のようだ。
昼間の喧騒が大きければ大きいほど、夜の静寂は寂しく恐ろしくなる。だが大司教が居ればそんなもの感じはしない。大司教が騒がしいからではなく、タベルナが彼と居ると安心するからだ。
これがタベルナにとって唯一大司教と二人きりになれる時間と場所だった。時折大司教によって懺悔室に拉致される場合を除いて。
それは身分が違いすぎるだとか、聖職者が愛人を持ってはならないだとか、そういう社会的障壁のせいではなく、単に忙しいからだった。
大司教はまるで彼自身が時間であるかのように振舞えるが、一介の料理人であるタベルナはそうはいかない。それも大司教のための料理長ともなると。
そのせいで貧乏暇無しだなとよく大司教にからかわれるが、それもこれもどこかの誰かが味道楽なせいだ。やれ誰それの鼻を明かすために豪華絢爛な饗宴を開けだとか、腹が減ったから瞬き三回する前にサーモンのガレットを食べさせろだとか、邸宅前の川で伊勢海老釣って来いだとか言わなければ万事解決なのだ。
とは言えタベルナ自身も料理に関する仕事が引っ切り無しに来る事には感謝してはいるし、張り合いがあるとは思っているのだが。
本来ならば身分だの愛人だの道ならぬ恋だの、そうした事を悩むべきなのだろうが、相手は大司教なのだ。聖職者が聞いて呆れる生臭に身分も宗教的規範も邪道もへったくれもない。はっきりいってそんな悩みは物理的な制限に比べたら、眠れる乙女の恋の夢だった。
とにかく、あまり時間を確保できないタベルナにとってこの時間はとても大事なものなのだ。だが今日だけは、この時間さえ惜しくなってしまう程手が足りない。
「もうワインがないぞ。次はモルドワインがいい。そういう時期だしな」
大司教はワインの瓶をひっくり返しながら言った。
「もう瓶を空けてしまったんですか。少しピッチが早すぎませんか。どうしても飲みたいとおっしゃるなら、どうぞご自分で。ワインと香辛料なら地下に沢山ありますし、オレンジピールは作り置きがそこの棚に置いてあります」
タベルナは覗き込んだオーブンから目を離す事もなく返す。中では一つ目のパネトーネが火に大いに炙られている。取り出す頃合いを間違っては大変だ。
「余にあの、コキュートスのようなワインセラーに行けと言うのか。寒暖の差のせいで脳卒中や心筋梗塞になったらどうするんだ。お前ならきっと自責の念から後追いしちゃうぞ」
「猊下が卒中を起こされるとしたら、きっと寒暖の差のせいでなく不摂生のせいでしょう。ですから飲酒はもう少しお控えになってください」
「お前、ただ余に酌をしたくないだけだろ。というよりか、余のために何かをしたくないのだな。嗚呼、嫌な奴だ!」
ひっくり返した瓶から滴る微々たる赤い滴りをちびちびとグラスに落としながら大司教はほんのり赤らんだ面を歪めた。
そんな性質の悪い酔っ払いを横目に見ながら、タベルナは心の中で肩を竦めて溜息を吐いた。自分だって好きで大司教を放っておいているわけではないのに、と。
いつもなら大司教が食べたいと言ったものをその場で作ったり、次の饗宴のメニューを相談したりしながら時間を過ごすのだが、しかし今日は生憎そのどちらもお預けだ。タベルナは私用で少々忙しかった。
「余を放って粘土遊びか。皿でも焼くのか? なら多少余の相手をしてくれなくたって歓迎だ。なんせ磁器の生産が成功したら諸侯が地団駄踏んで悔しがるし、いい小遣い稼ぎになる。雇われ店長……もとい大司教にとってはいい副収入だ」
「いいえ猊下、パネトーネを焼いているんです。もし磁器をお作りになりたいのでしたら錬金術士をお雇いになるべきです」
タベルナは生真面目に答えた。まあ大司教の言う事がつまらなさから来る冗談であろう事くらい分かってはいたのだが。
「料理も錬金術も似たようなものだろ」
「確かに哲学と思想は似ているかもしれません」
よくは知らないが、つまり料理も錬金術も四元素の考えに基づき云々という話である。そして材料同士の結婚。
タベルナはオーブンを開け、火によって結婚を完了した一つ目のパネトーネを取り出した。これがパイなら次はサラマンドルに移してその火蜥蜴の舌に表面を舐めさせてやるのだが、パネトーネはオーブンの火だけで美しい焼き色をたたえるまでになっていた。
タベルナは手際よくナイフで二つ目のパネトーネに十字の切創を刻み付けると、次はそれをオーブンに安置した。
「いや、両方山師という点でだ。お前が余のために個人的に使えるのがこの時間だけしかないと言うから余は近頃ここに夜毎通っているわけだ。だが今日はなんだ? 全然相手してくれないじゃないか! 余は騙された! お前が釣った魚に餌をやらんやつだったとは! この詐欺師! 余は愛されてない!」
と、叫びながら大司教は戸棚からシュトレンを勝手に取り出し、その塊を口の中に放り込んだ。それはタベルナが薄く薄くスライスしながら一日一切れずつ大切に食べていたものだった。クリスマスイブに丁度食べ終わるようにしていたのに、その計画は大司教の傍若無人の前に頓挫した。
「仕方ないじゃありませんか、年の瀬で忙しいんです。明日だって夕方から夜にかけて食事会があります。あなた主催のです」
詰られようと食べ物を横取りされようとタベルナは手の動きを止めず、淡々と一つ目のパネトーネを型から解放する。
料理をする時には精神と肉体は別にしておく事が失敗を犯さないための秘訣だ。こと、大司教といる時は。
「余だって明日は別に好きで人を呼ぶわけじゃない。そういう日だからそうするというだけで」
その言葉に嘘はないようで、大司教の声色も表情も実に面倒げだった。
「では早めに切り上げられては。その方が皆さん喜びます。明日は家族と過ごす日ですもの」
「はっ! 家族だって!」
大司教は何か家族か愛かそのどちらかについて、あるいは両方について皮肉を言いたそうだったが、タベルナの手によって生み出されてゆくパネトーネの方に気を取られて矛先をそちらに変えた。
「さっきから思っていたがそのパネトーネ地味すぎるぞ。無骨で合理的で貧乏臭い、田舎の家庭料理だ。それを見ていると故郷を思い出して憂鬱になるな。この時期になるとどっさり家に届くんだ。よくそれで兄弟を殴りつけて泣かせてやった。パンだがぎっしり中身がつまっていてこれが結構痛いんだぞ」
「野蛮ですね」
とりあえず大司教がパネトーネ嫌いだという事はわかった。そして故郷と家族の事もそんなに好きではないという事も。味覚というものは官能に左右されるだけでなく心理も大いに作用する。パネトーネというものにそうした悪感情を抱くものが絡み合って、彼に忌避させているのだろう。
「そう、野蛮。だからもっと洗練された食い物にしないか。誰だかが生まれただか死んだだかいう日の食卓に出すんだぞ。上っ面がすべての奴らにそれの本当の価値がわかるとは到底思えん」
とは言え皮肉のような悪態のような褒め言葉のような、そんな言葉はタベルナにとって蚊に刺された程も痛くも痒くもない。
「ご安心を猊下。これは猊下のための料理ではありませんから」
「はー? なにそれ、じゃあ誰のためのだよ! 余以外のために料理するなんて許せん!」
「わたしの艦隊の水兵達にです。これでは足りないくらいにいつもわたしを助けてくれていますから、労いの贈り物です」
安心させるように微笑みながら、タベルナは大司教を見た。
相手が同僚、しかも一人ではなく大勢相手ならば大司教だって気を悪くはしないだろう。ちょっとした感謝の気持ちを籠めただけで、特別な相手に振舞うわけではないと分かってくれるはずだ。
「総督の許可も取らずに勝手な事を。軍法違反だ。余はお前を告発する」
しかし弓を引くように伸びた指がタベルナを鋭く糾弾する。大司教の表情は冗談とも本気とも取れない。
「材料はすべて自分の給金で揃えましたし、勤務時間外に作っています。猊下にご迷惑はかけていませんよ」
そう言ってからタベルナは失敗した、と後悔した。
タベルナの言葉を受けて、きっと大司教は赤い鬣を怒りの炎に代えてこう言うだろう……。