城主がどこにいようとも、その高い塔は彼を見下ろし追いかける。
例え天然の防壁である葡萄棚の影に身を潜めていようとも、今のように朝靄に埋没した城下で溺れていようとも。
時刻は一時課の鐘の音さえまだ鳴らない程早い。
かつては城主の寝起きは怠惰な鰐のようであった。空腹であれば目の前を横切る獲物に噛みつくが、そうでないならばいつまでも腹這に横たわったまま泥のようになっている。特に幼い頃は身体が弱かったせいもあって、寝台から身体を起こすには誰かの声がない限り難儀な事だった。
父親である先代城主が生きていた頃は、父親よりも早く起きていなければそれは格好の体罰の餌になった。それに心を痛めた女中が起こしてくれていた時もあったが、少しでも優しさを彼に見せようものなら城から追い出されるか城壁に逆さに吊り下げられるかのどちらかであった。そうして彼を悪夢から救い出す者はいなくなった。
けれど城主は時に思い出す。悪夢の切れ目に決まって肩に乗せられる冷たい手。目を開ければ斜陽に見間違えるかのように心もとない朝の光が部屋に充満していて、そしてそれは優しい声で何か言うのだ。
城主は重たい頭を抱えた。
幼い頃の記憶のなんとおぼつかない事だろう。
朝日を背にして彼を見下ろすその顔は逆光で煤に汚れたかのように真っ黒なのだ。そしてその言葉と声さえ思い出す事はできないのだった。
しかしそれで確かに目覚めた事だけは覚えていた。
いつの頃からか、城主は孤独の中でも自力で悪夢を振り払って目覚める事が出来るようになっていた。それが老いるという事なのだろうと彼は思う。
そして今日のように早く目覚めた朝はこうして城下を散策するのが常になっていた。
市民は朝が早いとはいえ城下町にはまだまだ人の気配はなく、まるで一夜にして人が消え去ったかのような、この世に自分一人になったかのような気分にさせられた。しかし決して孤独ではない。一番の高みにある城を返り見れば、靄のカーテンの奥に聳え立つ塔がやはり彼を見下ろしている。
それが意志をもたない事は知っていたが、彼は塔が城塞都市の市民と彼自身を見守っていると信じて疑わないのだ。
それ故に彼の代になってから大幅に改修した城の中で、唯一その塔だけは取り壊されずかつての堅牢な面影を残していた。その石造りの塔はまるで伴侶のように当世風の白亜の宮殿に寄り添っている。
城主は城下の中ほどで踵を返し、城に取って返した。冷たい手で城主を誘う朝靄に何かの兆しを感じたのだ。
塔の入口にかけられた梯子を昇り、ひんやりと薄暗い塔に抱かれる。見上げれば円筒形の壁に沿って歯列のような階段が整然と天を目指している。その一方で石の床に潜って地底に続く階段は忌わしき地下牢に続く。
城主は最初の一段に右足を乗せた。
朝の冷気に濡れた塔の石段は彼の脚を拒んで滑らせようなどとはせず、滑らかに上へ上へと導いた。
所々には採光小窓が設えられており、最初の小窓から外を見ると手を伸ばせば届きそうなほど近くに宮殿の窓が見えた。
それは城主の寝所の隣にある奥方の間で、今はカーテンも取り去られ豪奢だった部屋の中もがらんどうだ。
城主は凍り付いたように陰ったその窓を剣呑な目で睥睨した。
またどこかの女を城に迎え入れなければならなくなるだろう事に彼は辟易としそうになる。
というのもつい先月、その部屋の主人は城壁の中に住む誰もが予期していた通り失踪を遂げたのだった。
これで消えた妻は六人目になる。
これまでもありったけの金目の物を持って行方をくらませた女や、間男と手に手を取って逃避行をした女、高飛車で我まま放題で喚いて出て行ったきり戻ってこなかった女、城主と城を怖がり忌み嫌い逃げた女、領地の情報を手に消えた女がその部屋の主人であった。
特に六人目の妻は食わせ者で、一見従順でしとやかなふりをして隠し持っていた短剣で城主を刺し殺そうとしたのである。比喩ではなく、実際に。
褥の中で短剣を持つ手を捻り上げて彼が恫喝すれば、早く恋人に爵位と領地を継がせたかったからだとその女は吐いた。その恋人というのが城主の従兄弟の息子で、次期爵位継承者であり人嫌いの城主が最も唾棄し忌諱する人間であった。
命乞いをする女に下品な婚礼衣装を投げつけて城主は追放を言い渡した。
城壁から一歩でも外に出れば、狼や賊の徘徊する深く暗い森が遠くの山脈の麓まで広がっている。それ故に残忍で冷酷な城主はいつも通り非情にも、一思いに首を撥ねるより月もない夜にかつて妻だった女を城壁の外へ放り出す事を選んだのだ。
彼は許しを請う女に日が昇るまでと期限を突き付け、自身の寝室を後にした。もし公明正大な朝日が宮殿を照らしても執拗に白々しく泣いて寝台の上に居座ろうものならば、望みどおりその場で首をはねて引導を渡してやるつもりだった。
しかし翌朝寝室を覗いてみれば、きれいさっぱり女の影も香りもなかった。
こうしてその女も、これまでの妻達と同様に失踪したのだった。
六人の妻の嫁ぎ元へは多額の金を掴ませて黙らせておいた。そんな事をせずとも、先祖代々気が触れていると専らの噂である城主には誰も文句などつけはしないのではあるが。
その噂は概ね正しかった。
対話よりも対戦を望み、何より血を見るのを好んだ。故に守るべき領民といえども、犯罪者は容赦なく私刑でもって断罪した。それは自身の残虐性を満たす大義名分なのであった。そして城主は虎視眈々と手を拱いて、他の領主が戦争を仕掛けてくるのを待っているのだ。
きっと領民もそんな城主にさぞやうんざりだろう、と二つ目の小窓から城下に立ち並ぶ石造りの家々を見下ろしながら城主は思った。
朝靄がかかった茫洋とした城下は果てまで見通せない程に広い。そのせいで時に城壁の内と外が曖昧に感じられる。城主には城壁がこれだけ広ければ内も外も同じに思えるのだった。
何のためにこんなに城壁を広く取り直したのか時に彼は理由を失いそうになる。
それは雇用のためだとか領地を外敵から守るためだとか、もっともらしい故はある。けれど大昔に誰かに誓ったような気もするのだ。
そしてその誓いは義務によるものではなく忠誠と愛によるものであったような気がする。血を吐くような駆け引きも打算も妥協もない。真なる愛と忠誠だけ。
願わくはそうした相手に生涯の伴侶の誓いを捧げたいと城主は思う。
もし、叶うのならば。
塔の頂に乗った清廉な室が近づいてくる。雲に阻まれて拡散した白い光が薄暗い階を濡らす。
それによく似た光を城主はよく知っていた。
鞭打たれて痛みに眠れぬ夜、折り重なった厚い雲を通したようなぼんやりとした光を纏ったそれは彼の横たわる寝台に腰かける。そして啜り泣く彼を抱きしめて冷たい手で背を撫でるのだ。
今でも時折痛む背を、それは撫でてくれるだろうか。
一段一段と頂に近づく度に城主の記憶が瑞々しく蘇る。枯れて萎びた花が蘇ってまた花開くように。
眠れぬ夜に途方もなく壮大な話を語ったその囁きも、生々しい傷口を清廉な水で清めてくれたその慈愛も。
目覚めた彼にかけてくれたその言葉も。
「おはようバランタン」
腕に白貂を抱き百合の散らばる床に座る女が、階段の暗がりから仄かな光の中を覗く彼の方へゆっくりと顔を巡らせて、この上もなくうっとりするような声で言った。
「クロード」
その名をクロードとしようと天に宣言したのは稚いバランタンで、それこそが不幸な嬰児のようなそれにバランタンが初めて与えたものだった。そしてそれは彼が誰かの喜ぶ物を初めて与えた瞬間だった。
「憶えていてくださったのね」
クロードの着ている深紅のドレスの裾が床に血だまりのように広がっている。それには精緻な金の刺繍が施されているように見えたが、よく見ればそれは身の丈よりも長い豊かな髪の毛だった。
「虚ろな塔を反響するあなたの悲しげな足音が聞こえたから、待っていたの」
その長い睫の間から覗く清らかな森の色をした瞳が柔らかく輝く。
「入っても」
バランタンの低い声がドームに反響した。
辺りには花弁を堅く閉じた純白の百合の花がまるで絨毯のように敷き詰められており、穢れた彼の足を拒んでいるようにも見えた。
「あなたの城ですもの。あなたがしたいようになさればいいの」
バランタンが頂の階に足を乗せると、クロードの腕の中で安らいでいた白貂は素早く逃げだし、百合は風に吹かれたように避けて冷たい石の道を作った。
彼は粛々と石造りの道を歩き百合の玉座に座るそれの隣に跪いた。乳白色の光に照らされたそれは神々しく、恭順の意を示したかったのだ。
「夢のようだ」
「そうかもしれないわ」
返される微笑みは美しく慈悲が籠っていたが、どこか妖しい。
「どうしてぼくは……私はあなたを忘れていたのだろうか」
「その方がいいからだわ」
「どうしてあなたは姿を消したのだ」
「その方がいいからだわ」
「それで、どうして今更思いだしたというのだろう」
「その方がいいからだわ」
最初こそ懐かしさと愛おしさで綻んでいたバランタンの顔も、捉えどころのない答えに苦虫を噛みつぶしたようなそれになる。
そして焦燥感を植え付けられた彼は持ち前の猜疑心を発揮した。
「また居なくなってしまうのだろう」
「いつかは」
羽化したばかりの蝶のように透き通った肌のクロードは、いつかはというより今すぐにでも消えてしまいそうで、バランタンはそれに縋りつこうと手を伸ばす。しかしその手は触れる寸前で震えて虚空で止まった。触れればクロードが穢れて己と同じように血に塗れて堕ちてしまいそうに思えたからだった。
「あなたが必要としなくなったら」
「そんな事にはならない」
バランタンは切なく顔を歪めてクロードを見る。けれどそれは微笑みのまま顔色一つ変えない。まるで石の彫刻のように。
「人は忘れる生き物だわ」
「忘れたくない。私はもう忘れたくないのだ。クロード、私は……」
寂しいのだ、というバランタンの泣きごとはクロードの真っ赤な唇に呑まれた。