大司教のいとも絢爛なる妙愛 - 1/5

「見たか、あの口惜しそうな顔!」
 客の失せた広い大司教邸の食堂で、その主は真っ赤なワインを舐めながら目を細めた。
 その男は人の幸せよりは他人の不幸を悦ぶ男だった。自身でもそう公言して憚らず、聖職者の風上にも置けぬ、と正義感の強い人間からは唾棄されていた。本人にとっては、そんな言葉も態度も屁でもなかったが。
「いいえ、わたしはずっと厨房にいましたもの」
 大司教の後ろに張り付いている白い影が囁くような声で答えた。
 それは小柄な青年で、大司教邸で働く料理人であった。
「ああそうだった」
 大司教はグラスを全長二十フィートはあるかという真っ赤な卓の上に置いた。
 滂沱の涙のように金のタッスルの垂れる豪奢なテーブルクロスは、まるで渦巻く炎のような無気味な織り模様が入っていた。
 大司教の権力と財力を誇示するためだけに存在するその敷物を見る度に、その青年――タベルナはこう思う。
 ゲヘナフレイム。
「どうした、タベルナ」
 彼に名前を呼ばれる度にタベルナは少しどきっとする。また無理難題を押し付けられるのではないかと恐れてだ。
 まず初めは太らない肉料理。
 これはタベルナの上司である料理長が作るよう命じられたものだったが、体よく弟子のタベルナに押し付けられたのだ。これが不可能な仕事である事くらい子供だって分かる。これはいわゆるイビリという代物で、失敗の責任をすべてタベルナに押し付けるためだった。もし運よくタベルナがやってのけたとしても、その功績は料理長の物になる。
 結果は後者。
 一生懸命豆をすりつぶし、ごまかしごまかし肉らしく成形し、仕上げにザクロのソースをかけたそれが大司教の関心を買ったとき、栄誉を受けたのは性悪そうな顔の料理長だった。
 人を恨まないようにしようと思って生きてきたタベルナも、こればかりは少し臍を噛んだ。だがすぐに大司教は……。
「いいえ、猊下。なんでもありません」
 あとは熱帯魚を食べたいだとか、溶けないシャーベットだとか、おとぎ話に出てくる結婚したくないお姫様のように無理難題ばかり。
 極めつけは今回のこの大饗宴。
 国王を筆頭としてその五人の目も彩な愛妾、国の閑職から官職、貴族のお歴々を大司教の領地に招き、三日に及ぶ饗宴を開催すると言いだしたのだ。
 その錚々たる賓客の名を聞けば、さながら移動宮廷と言っても過言ではなく、生半可な心意気ではやり遂げられそうもなかった。
 そーゆーことをなんで一週間前にいきなり言いだすんだよっ、と大司教邸の厨房は一時騒然となり、熟練の料理人五十人のうち四十人がその責を放棄した。つまり逃走したのだ。
 当り前だろう。無様な結果に終わったり、客に馬鹿にされたり、粗相があったら……つまりとにかく大司教が失敗だと思ったのならば、厨房の全員を収容所に突っ込んで、よくて処刑悪くて強制労働だと宣告されては。
 こうして残されたタベルナは、自分を支持してくれる十人とどうにかこうにか大饗宴をやり遂げた。
 舞台裏は決して恙無くすべて予定通りに動いたわけではなかったが、表舞台は誰が見ても完璧な一つの作品であっただろう。
 音楽は途切れることなく流れ、牧羊神に扮した男女が料理を給仕する。
 愛妾達は大司教領の果樹園で採れたよく熟れた果物を味わい、大臣と貴族達は肉料理と魚料理に舌鼓を打つ。
 国王はというと味覚の愉悦の笑顔の中に敗北の不満を滲ませて、しかし料理をたらふく腹に詰め込んでいた。
「傑作だったな、あの顔。余は恨まれて、明日の朝には領地のぐるりを兵士達に囲まれているかもしれないぞ。そうしたらお前はフライパンと肉叩きを持って出陣しなければならないな、大昔の盾とメイスを携えた騎士のように」
 大司教は心底嬉しそうに笑った。まるで蟻を踏み潰して遊ぶ子供のようだった。
 男が脚を組み替える度に、その緋色の法衣が高級そうな音をたててゆらめく。まるで一時も同じ表情ではいられない炎のようだった。
 大司教は磨き抜かれた銀のカトラリーを手に取り、タベルナが特別に作ったシューアラクレームを慈悲深い外科医のような手つきで解体した。とても洗練された所作で、性格は悪いが育ちはいいのだという事が伺える。
 そしてそれを一口、口の中に放り込むとまたがらりと表情を変えた。タベルナはその中に喜びと快感を見てとった。
 一々その味を称賛されはしない。大司教の料理人が作るものが美味しいのは最低限当り前の事なのだ。
 しかしタベルナは大司教が自分の料理を大体は悪くないと思っている事を分かっていた。食事中の大司教は無防備で炎のように一時も同じ表情ではいられないし、こと快不快に関しては顔に明確に表れた。つまり何でも顔に書いてあるのだ。
 また食べる時の様子のなんと扇情的な事だろう。
 舌に最初の刺激が到達した時に目を細める様、咀嚼する顎の動き、そして嚥下の時に脈打つ喉。仕上げは満足そうに漏れる吐息。唇は油に濡れて淫靡に光る。
 まるで一口一口に絶頂を感じているような。
 タベルナはそんな不埒な妄想を打ち消すように言った。
「何人も猊下とその領地に手を出すことはできませんでしょう」
 そんな事をすれば総本山が黙ってはいない。それを知っていてわざと自身の持てる物を誇示するような、ああいう事をしたのだとタベルナはよく知っていた。
 大司教は面倒な男なのだ。
 他人からの羨望が最上の美酒。そして比類なきメインは他人の不幸。デザートはその目の前に身体を投げ出してくる絶世の美女。
 それらを一度にゲヘナフレイムの上に並べて誇示した後、厭らしく睥睨して平らげるのだ。
 これほど人から敬われず倦厭される俗っぽい聖職者がいようか。
 けれどタベルナはこう思うのだった。
 大司教はわざと人に唾棄されるために生きているのではないか、と。まるで人の許容量を試すかのように。
「よくわかっているじゃないか。さすがは余の料理長。そうだいい事を教えてやる。あの国王の右隣に座っていた年増の愛妾、あれはかつて余を袖にして国王の娼婦になった女だ。ああ、二十年前は口惜しくて口惜しくて夜も眠れず昼寝ばかりしていたものだったが、遂にこの王を王とも思わぬ大饗宴で鼻を明かしてやった気分だ! あの時こっぴどく振られて正解だった! でなければ余は今頃大司教ではなく詐欺師か当たり屋でもやっていただろう」
 下品に相好を崩し、大司教は食堂の虚ろに高い天井に笑いを響かせた。
 黙っていればこれ以上ないくらい厳格そうに見えるのに。
 タベルナはいつもそんな大司教を見るにつけ残念に思うのだった。
 タベルナは遅くまで大司教と饗宴の打ち合わせをしていたこの一週間の事を思い出していた。
 今と同じように頼りない蝋燭の炎に照らされた彼の横顔は排他的なまでに整っていて、年相応の皺が刻まれているけれどそれは貫録と言えたし、双眸には確かに知性の星が輝いていた。
 それに体躯にだって恵まれている。堂々たる上背に、美食かつ大食であるというのに怠惰さを感じさせない筋肉質の屈強な身体。
 これでもし法衣の代わりにアーミン毛皮のマントでも羽織っていようなら、どこぞの王族かと間違えてしまうだろう。まあ大司教も王族も、タベルナにとっては同じようなくらい縁遠く違いの分らないものだったが。
「わたしの腕と猊下の類稀なる想像力を復讐にお使いになられたのですね」
 タベルナは復讐のために馬車馬のように働かされた事を恨んでというより、事実をただ淡々と言葉にした。本当は大司教の役に立てて嬉しかったのだが。
「お前の供した晩餐を褒めているのだよ、わからんかねえ。あの銀の舌、美食家の国王をして口惜しがらせたのはお前の料理だと言いたいんだ」
「身に余る光栄です」
 タベルナは控えめに微笑んだ。だがその幽かな所作は自身の可憐さを引き立たせるのには十二分過ぎるという事をタベルナは知らない。
 花のようなかんばせの美少年が厨房にいる、という噂は三日間の大饗宴の間ひっそりと大臣や貴族の妻や、その共の女中達の間で囁かれていた。わざわざ厨房にやってきてタベルナに声援を送る娘までいたくらいだ。
 それに応えてやるのが人情というものではあるが、何せ忙しかったしタベルナにそういう気はない。しつこい娘には、自分には心から慕う人物がもういるのだ、とても高貴なお方で……と大司教の方を見ながら夢見がちな顔で訴えておいた。
 まあ嘘ではない。嘘では。
「うそつきだなお前は」
 大司教は急にふざけた笑いを引っこめてタベルナを睨みつけた。
「何が嘘だとおっしゃいます」
「身に余る光栄? 嬉しいならもっと喜んだらどうだ。宮廷で女がよくそうするように、感激に部屋の端から端まで走って卒倒しろと言うんだよ」
「わたしは女ではございませんので」
「それは真か」
 タベルナの視界が傾いて、背中がしたたか硬い物に打ちつけられた。どうやらそれはテーブルのようで、そのオーク材の無駄な堅牢さにタベルナは顔をしかめた。
 目の前では大司教がタベルナを見下ろしていた。二つの瞳が夜行性の猛禽のように鈍く輝き揺らめいて、悪魔のような貌は蝋燭の炎に照らされていやましに歪んでいた。
「わたしは男です。猊下が男色家であるというのなら話は別ですが」
 タベルナの心臓は小さな胸の奥で、まるで鷹に押さえつけられたネズミのように暴れていた。しかし努めて冷静を装い言い放つ。
「余は知っているぞ、お前がまごうかたなき女だと。あの夜、そう忘れもしない先週の水曜日! お前は打ち合わせの後使用人部屋に戻らず、厩で水浴びをして着替えたな。薄暗かったがその時余は確かに見たぞ、お前の月のように蒼い肌、背後からでも垣間見えた控えめな膨らみ!」
 どんだけ見てんだよ! っていうか気付かなかった!
 タベルナは心の中で泣き叫んだ。
「へへへ、変態だあ!」
「失礼な、好奇心が強いだけだ。それに覗きはロマンだぞ。裸で市中を乗馬するゴダイバ夫人を覗くピーピングトムしかり、水浴びするスザンナを覗く長老しかりな。余は老人ではないし、お前を脅したりはしないが。さて、ここで余の夜目が確かか確認させてもらおう」
 大司教はタベルナの服を首筋から胸の下辺りまで力任せに引き裂いた。タベルナの胴ほどもある腕二本にかかっては、そんな事造作もなかった。