「お父さんは知っているのかい」 - 3/3

「ああ、すっごい。欲情してきちゃった」パルテーノペの声が背に降ってくる。「いいわね、男の人が必死に腰振ってるのって」
 そして伯爵の動きに合わせた突き上げが再び始まり、求めた以上の快感が腰に溜まる。
 ぶちゅぶちゅと汚らしい結合の音が響き、それが羞恥を絡めて新たな感覚を呼び起こす。
 仮面の下の吐息は荒く、まるで獣。珍しく余裕もなく、自分の欲にだけ忠実。
「う、んぅ、ふうぅっ……!」
 少しずつ蓄積されてきた快楽の溢れる時が近づいてきていた。身体中が震えて、肉穴がきつくパルテーノペの肉棒を咥える。初めてであるのに熟練の娼婦のようなねっとりとした締め付けで歓喜し、味わい尽くす。
「ほおら、いっちゃいなさいよ」
 パルテーノペがぱしん、と腰を奥へと叩きつけ、そのままぐりぐりと腰を回し、中をかき回した。そして伯爵の男根を捕え、先端を指で磨くように扱き上げる。
 放出と甘受の絶頂へと達する寸前、身体中の力が中心に向かって鬩ぎ、身体を繋ぎとめている関節が、筋肉の一本一本が、神経が沸騰して引きちぎれんばかりに暴れる。
「んぉ、っお、ふおっ……」
 鼓動と鼓動の狭間で息は詰まり、喘ぎは喉の奥に消えて、味わった事のない絶頂への予兆に震える。
 そして完全に上り詰めての落下。張りつめた男根から精髄を垂らすと同時に、溜まっていた力が溶けるように解放される。
 常ならば快感は上り詰めた放出の一瞬だけであるのに、初めての後ろの快楽は尾を引く長さだった。つまりじわりじわりと降下していく夢見心地な快感。
 伯爵が達したのを見て追い打ちをかけるかのようにパルテーノペが彼の中に精髄を流し込んだ。どろどろとした熱いものに肉環を舐められ、奥を犯され、後快楽を盤石なものとされる。
「あう、ああ……っ、もう、お……」
 伯爵はだらしなく口を開けて涎を垂らし、何かを恐れているかのように小刻みに震えながら枕に頭を擦りつけた。仮面はいつの間にか取れていて、情けない顔をしっかりとパルテーノペ見下ろされていた。
 パルテーノペの肉棒が引き抜かれるのにさえ暴力的なまでの肉の悦びに感じてしまう。掲げていた腰が砕け、伯爵は切なく喘ぎながら寝台に沈むしかなかった。
「んん……ああ……」
「どうお、感じたでしょう」
 伯爵の横に腰かけたパルテーノペは間延びした声で言った。
「きみは、きみはどうなんだね」
「これ以上ないってくらい感じたわよ」
 それだけ答えると、パルテーノペは伯爵の顔に仮面を乗せ、仮面越しに伯爵の唇を自身のそれで啄んだ。
 もう仮面も手錠もいらないだろう、と伯爵が言いかけた時だった。
 階段をどかどかと駆け上がり、廊下の床を踏み鳴らす足音が耳に飛び込んできた。
 その穏やかでない音がもたらす災いを伯爵は知りすぎるという程よく知っていた。
 のらりくらりと借金の取り立てをかわす男の寝こみを襲い、耳を揃えて徴収しようとする与太者共の音。あるいはこの諧謔の時代にそぐわない保守的で頭の硬い男が、妻の不倫相手を撃ち殺そうとマスケット構えて寝室にやって来る音。
 しかし借金は最近綺麗さっぱり立ち消えたし、ここはそうした後腐れのある女のいるような場所ではない。となると……。
 伯爵はそこでやっと、バダンテールに政治的に謀られた事に気付き脱出を試みるが、頭上の手錠が虚しく笑うだけだ。
 もし奴らに捕まったのなら、こうして遊びで手錠を使うどころの話ではなくなる。この国の牢獄は故郷の牢獄の何倍も恐ろしいだろう。拷問だって野蛮な国の名に恥じぬ苛烈さを極めるはずだ。
 伯爵はパルテーノペを見上げ、精一杯の哀願を瞳に籠める。女相手にこれでなんとかならなかった事はそんなにない。そんなには。
「あは。なにその目。大抵の人間は憐れっぽく感じてなんとかしてあげたくなっちゃうのでしょうね」
 パルテーノペの浮かべた笑みは悪意のあるそれだったが、何故か直感的に伯爵自身に向けられたものではないように思われた。そして手錠の上から乗せられた彼女自身の手のふんわりとした手触りは、そのまますべて成り行きに任せてもいいかもしれないと思わせてくれた。
 扉が不躾に蹴破られ、揃いのお仕着せを着た上に帯剣した男達が雪崩れ込んできた。
「捕まえろ、あいつがベネチアのスパイ――」
 その野太い声をパルテーノペの鈴のような声が遮る。
「あなた達この方を誰だか知ってるの。筆頭大臣ショワズール閣下……の右腕、バダンテール子爵様よ。それを知っての狼藉というわけ? 無礼ったらないわ」
 その言葉の尻馬に乗り、伯爵は仮面の下で威厳たっぷりに闖入者達を睨みつけた。
「あなた方の探している与太者は隣。凋落の国の唾棄すべき薄汚いスパイ野郎はね。本当、失礼な人達ねえ……」
 パルテーノペの夜に輝く白い指が刺突剣の剣先のように壁越しの隣室を指す。
 男達は暫しの狼狽の後、“筆頭大臣ショワズール閣下の右腕バダンテール子爵”に最敬礼し部屋から撤退した。すぐに隣の部屋で先と同じやり取りをする声と、実際に下手人を確保したらしい声が聞こえた。そして来た時と同じように足音が廊下を遠ざかり、階下へ降りて行った。
「さて、“バダンテール”さん」
 伯爵の頭上で解放の音が響いた。彼がこの世で一番好きな音だ。伯爵は自由になった手首の動きを確かめるようにくるくると回した。
「向こうの本物は滅茶苦茶に蹂躙されて昇天してるでしょうよ。自分の素性を明かす元気もなく、無抵抗で連れて行かれたようだし。表から堂々と逃げるならあいつらが引き上げたばかりの今の内かもしれないわね、伯爵」
 次いで外される仮面。伯爵は潜めていた息を大きく吐いた。そしてまた鷹揚に寝台に横たわった。
「ねえ、お友達は選ぶべきだと思うわよ。アンドロギュヌス達に犯されて半死半生のあなたを逮捕させようとする男なのよ、あれは。まあ、わたし友情ってよくわからないから、そういうものだって言うなら余計な事したわね。でもあいつやな男よ、いつもここに来てはわたし達を馬鹿にして、それでも抱いてはした金しか払わないんだもの」
「なるほどそういう事か。奴はぼくをこの上もなく不名誉で抵抗を許さないような形で逮捕させようとしたんだな」自分らしい捕まり方と言えばらしくもあるが。だが不自由はやはり嫌なものだ。「しかしきみらはその計画を利用して奴を陥れたと」
「お礼はいいのよ」
 パルテーノペはなかなか帰ろうとしない伯爵に服を着せてやりながら、嫌味ともなんとも取れない事を短く言った。
「はあ、はあ、はあ。きみはぼくを助けたと恩人だと言いたいわけ。なら事に及ぶ前にひとこと言ってくれればいいのに人が悪い! 一瞬肝が冷えたじゃないか」
「言ったらあなた、それって退屈でしょ」
「確かにそうだ。我々は気が合うようだ」
 身体の方も、と伯爵は続けた。
「そう思うなら、また来てよ。わたしあなたの本が結構好きなのよ」
「いやもう来ないね」
 伯爵は立ち上がり、上着を着るとパルテーノペに向き合った。こうしてみるとパルテーノペはやはり成熟の一歩手前といった歳の頃に見えて、やはりわけありの女に思える。そしてどういうわけか、ここで終わる縁には感じられなかった。
「あ、そう。残念」
 一方パルテーノペはそんなに残念でもなさそうに言った。
「きみが来ればいいよ。こういう所は上前撥ねられるから正当な対価を相手に払えるとは限らない」
「でもあなたはきっとどこにいるか言わないで消えてしまうでしょ」
「ああ、その方が雰囲気があったかな。ぼくはルイ十五世広場の目の前にある……」
「ラブレース卿の邸宅に逗留してらっしゃるんでしょ」
「うんイングランド人が嫌いでなければ来たまえ。……おやよくご存じ」
「父なのよ」
「ああそう」そういえばこちらで教育を受けさせている娘がいると聞いたような気が……。「えっ」
「あなたの言っているのが法学博士にしてロンドン本部所属のラブレース卿で間違いないならね」
 ロンドン本部の、という所でパルテーノペの指は伯爵の胸で鈍く輝く六芒星のペンダントを三度突いた。
「こんな事、お父さんは知っているのかい」
 つまり、こんな淫らで危険な仕事をしていると、と言外に滲ませる。
 伯爵の背に冷や汗が一筋流れた。先に逮捕されそうになった時にも勝る焦りがあった。
 こちらで自分が自由に動けるように便宜をはかってくれているのも、ロンドンで言い渡された罪を綺麗さっぱり雪いでくれたのもラブレース卿なのだ。つまりは恩人。その娘と自分は……。
「知らないわよ。当たり前」
 伯爵はだろうな、と頷いた。こんな事をあの品行方正な法学博士が知ったのなら、ただちに卒倒しそうになるのを堪えて娘を修道院にでも送ってしまうだろう。
「知っていたら今頃わたしが相手をした男達は重石をつけられて汚い川底で痩せた魚の口吻に愛撫されているわ。つまりあなた、わたしの素性を本にしてあちこちで吹聴するなんて脳の足りない事をしない方が身のためという事よ」
「わかった」
 伯爵は素直に頷いた。とりあえずほとぼりが覚めるまでこの話は懐に温存しておこうと思いながら。
「あなたこの国を転覆させるためにやってきたイングランドのスパイなのでしょ、もう少し色々警戒したらどう。毎度毎度こんなのに引っかかっていちゃあ、命がいくつあっても足りないのよ」
「は! スパイだって!」
 伯爵は大仰に手を広げて笑った。
「違うの?」
「いいや、そうだよ! お見込みの通り、ぼくはスパイだ」
「はあ、ご自分ではそのつもりはないのね」相手のふざけた調子に、パルテーノペは呆れた声色で返す。「でもわたしの父はあなたにそうさせるつもりのようよ。じゃなきゃあどうしてあなたのような好色を、あの堅物の父がわざわざ助けてやるというの。そして自分の海外赴任に付き合わせるの」
「好かれているからだと思っていたよ。ほら、ぼくは話が面白いし、人を退屈させない才能がある」
「本当にそうは思っていないくせに」
「いや思っているさ……。まあそれはいい。つまりラブレース卿はぼくをイギリスのスパイにするつもりだって?」
「そう。あなたは今日のように口八丁手八丁であなたの冒険譚に興味のある高官の友達になるか、あなた自身に興味のあるその奥方につけこんで、色々聞き出すの。きっと逆らえばまたロンドンの法廷に逆戻りよ。いいえ、今度は裁判すら受けさせてもらえないかもね」
「諜報活動なんて気が重いな。実はぼくは二重スパイでね。二重どころじゃない。色々な所で恩赦の代わりに隠密の任を押し付けられている。可哀想だとは思わないかい」
 伯爵は哀れを誘う声色で泣きごとをこぼした。それも嘘ではなく、真実の吐露だ。しかし大抵の人間はそれを伯爵の大それた法螺だと受け取ってくれるから、彼が本来の任務を隠すためにわざわざ嘘をつく必要はないのだ。
「あなた嘘がうまいとよく言われるでしょうけれど、それって嘘をついていないからでしょ」だがパルテーノペにはすべてお見通しのようだった。「ねえ、唾棄すべきスパイさん」
「まあ一周回って本当の事さ。お見込みの通り」
「大体多重スパイが可哀想ですって? それって最後に一番得した人物に付くって事じゃない。いい性格だわ」
「そういう考え方もある。ではきみのお父上を出世させてあげてもいいよ。きみがぼくに、どうかと跪いて頼むなら」
「父の出世は関係ない。わたしとあなたの約束にしましょう」
「というと」
「最後に得を取るのはどこの国の元首でも王でも皇帝でもない。わたし達二人。二人でこの国を、この世を滅茶苦茶にしてやりましょ。何年かかるかわからないけれど、あなたとならできそうな気がする。わたし諜報活動に興味があるの」
「いいよ。それはまあいいけど……」
「いいの? こういう時は一度くらい渋って断るものよ。女に危ない思いはさせたくないだとか、少しは格好をつけて欲しいものだわ」
 パルテーノペが非難がましく口を尖らせるが、伯爵は上の空に視線を中空に彷徨わせる。
「うん、だから、それはまあいいんだよ。きみが諜報員になりたかろうがそうでなかろうが、そんな事は些細な問題だ。ただ気になるのは、きみのお父さんはこれを知っているのかという事だね。本当にただそれだけ」
 つまり、娘が大それた野望を抱いているという事を。
「知らないわよ。当たり前」
 伯爵はだろうな、と頷いた。
 面倒な事になった。
 借金取りよりも寝取られ男よりも軍隊よりも何よりも、娘を持つ父親というのが一番厄介なものなのだ。

「お父さんは知っているのかい」 おわり