呪禍と幻想 - 1/3

 圧巻である。
 闘技場にひしめく目もあやな戦車の群れ。物々しくも豪奢。
 常ならば裸同然の者から金属を纏った者まで玉石混合の様相であるが、剣闘試合も値の張る戦車を用いてのものとなると格の統一感がある。
 ただし見た目の上ではの話だ。
 陽光をギラギラと品悪く反射させる車体に居並ぶは屈強かつ良質な装備を纏った男ばかりだが、おそらくこの戦いに要する様々な練度が水準に達している者は片手ほどもいないだろう。少しばかり儲かっていて目立ちたがりの主人が金に飽かして体裁を整えただけに過ぎない。元より戦車での戦いを叩き込まれてきたセジェルとルシャリオの敵ではない。
 他の戦車の馬達が剣呑な予感に慄き、あるいは興奮して鼻息荒くうろついたり土を蹴り立てている中で、ルシャリオと手綱で繋がる四頭の馬達は落ち着いたものである。
 元々野生の馬であったが、ルシャリオが調教しうまく手懐けた。猫に限らず、あらゆる動物の扱いに長けている。
「馬は殺さないでくださいね」
 敵方の馬達に目を配りながらルシャリオが言う。
「そんなのは惰弱で卑怯な輩のやる事だ」馬など屠らずとも将は射れる。
「馬車は壊せばきっと喜びますよ」
「誰がだ。何の話をしている」
 わかっているくせに、とルシャリオは笑う。
「色々と奔走してくれたあのお嬢さんのために、派手な破壊を見せてあげましょう」
 溜息が出た。元はと言えば「ごめん、やっぱりお金ない」などと宣った“あのお嬢さん”のせいである。
 月が一巡ほどする前の事、次の剣闘試合は戦車を用いたものに参加すると決めて間もない頃。
「何故だ」稼いでやっているはずなのに、とセジェルはヴィットリアに凄んだ。
「この前すごい買い物したから。奴隷を一人。イケメンの」細い指が指し示すのは訓練所の片隅で猫と戯れるルシャリオ。「オトコにおねだりされて」
「強請ってなどいない」
「やりますね、将軍」
「やっていない」
「ヤる事はヤってるわよ」
「やりますね、将軍」
「だから……もういい」
 近頃不作法娘に感化されて上官への敬意が薄れてきた副官にセジェルは一瞥くれてやるが、しかし今となっては立場は対等か、と思い直す。同じく守銭奴に金で買われた身だ。
「とにかく、だから戦車は買えないの。新車となるとかなりいいお値段するから」
 今回は参加見送り、とヴィットリアは頭を横に振る。
「折角運転手もいるんだし、将軍が戦車で戦うところ見たかったんだけど」
 戦車レースや戦車での剣闘試合はかなりの配当金があると聞く。それをみすみす諦めるなど金の亡者らしくない。
「なんとかならないのか」
「珍しい。食い下がるなんて。そんなに戦車乗りたいの」
 まあ考えがない事もないけどね、と言うヴィットリアに引き連れられてやってきたのは彼女の父親の居室であった。
 自分達のような奴隷が足を踏み入れて良い場所ではないだろう、とセジェルが止める前にヴィットリアはノックもなしに扉を開けて不作法に室内に入り込む。
「パパー」
 日当たりのよい窓辺で書き物をしていたふくよかな男が戸口の三人を見遣って眉を顰める。
「その呼び方は頼み事だろう」
「そうよ」
「断ったらお前の背後の剣呑なのと爽やかなのが飛びかかってきて私が頼み事を呑むまで殴る蹴るの暴行をするんだろう」
「そうよ」
「違う」セジェルもさすがに口を挟む。そんな下郎と思われては名と矜持が廃る。
「これ、戦車買ってくれたら手荒な真似はしないって意味だから」ヴィットリアは不躾にセジェルを指差す。
「無茶言うな」ヴィクトリウスは人の良さそうな顔を最大限苦々しく顰めた後に「ああ、いやしかし、これの礼はしないとな」その足元に平伏す獅子の毛皮の絨毯を指差し、次いでセジェルに目をやる。「君に」そしてふっくらした頬に艶を巡らせる。「そうだな、アレならやってもいい」たちの悪い“いい思いつき”とやらが浮かんだ時に娘がする顔によく似ていた。
 対して娘の方は挑発的な笑みを苦々しく歪ませて、それから一つ付け加える。
「なら馬もちょうだい」
「その辺で野生のやつを捕まえなさい。お前が自分の裁量と金でやると言うから訓練所を開く事と剣闘奴隷を買う事を許したんだ。これ以上は話が違うだろうよ」
 ヴィットリアは白い頬を大いなる不服とちょっとした納得に膨らませて渋々といったていで頷いた。
 彼女がタダで手に入る物に対してそんな顔をした理由はすぐにわかった。
「廃車!」
 いかな物腰穏やかなルシャリオでも選ぶ言葉はこれしかないようだった。
「廃車を配車、なんてね」
 訓練所に運び込まれた戦車——というよりおそらく馬車として使われていた物——の車体はへこみ、車軸は折れて、さながら地に臥す歪んだ鳥の死骸だった。
「兄が乗ってたの。それで自損の対物起こしちゃって」とヴィットリアは簡単に言うが、何にどれ程の速度でぶつかったらこうも完膚なきまで壊れるのか。角を曲がり損ねて横っ腹を集合住宅にでもぶつけたか、まあ、搭乗者の生命も馬車諸共潰えた事であろう。
「事故車ですか。ちょっと験が悪いですよ」
「ちょっとどころの話じゃないわよ。これまでの持ち主全員これで事故起こしてるんだから」
「呪われてるじゃあないですか」
「それくらいの方が箔がつくってものよね。名前は、そうね、フェンダーベンダー号にする。これからよろしくしてあげてね」
 ヴィットリアは馬車の成れの果てに寄りかかりながら鷹揚に言う。当然自らの奴隷達がそれを有難く受け入れるものだと思っているのだろう。
「捨てろ」そんなもの、とセジェルは吐き捨てる。
「それができるならうちまで巡ってこないわよ。土に埋めても海に投げても戻ってくるんだもの」
「呪われてるじゃあないですか!」
「捨てられても戻ってくるなんて、健気じゃない。きっと走り足りないんだわよ」
「それを使うにしても修繕にだって金はかかる。また誰かにねだるつもりか」
 セジェルは言葉の端に品性下劣にも、という含みを多分に滲ませるが、そんな嫌味も気に掛けず、当然とばかりにヴィットリアは深く頷く。
「工面する当てはあるのよ」
 努めて興味なさげに、ほう、とだけ言ったセジェルをルシャリオが室の隅に引っ立てて小声で捲し立てる。
「将軍、止めるか、誰から借りるか聞いた方がよいのでは」
「何故だ」
「だって、あんな若者が言う金の当てなんて! なにか女性特有の、こう、直接的に言うのが憚られるような、ある意味での商売を……」
 非常に入り組みまだるっこしい言い方のルシャリオを眼光鋭く睥睨したままセジェルは沈黙する。止める気も聞く気もない。こちらは奴隷で、相手は雇い主だ。金を工面するのは主の仕事だ。
「あなたが聞かないなら私が聞きますよ。そして軽々しくそういった行為をしてはいけないと説得します」
 そうした見境ない生優しい態度のせいで女に勘違いされていつも面倒ごとを起こすのだ。こんな状況で守銭奴女などとそういういざこざを起こされては困るので仕方なく代わりにセジェルが問う。
「貴様、身体を売るつもりか」
 そんな直接的な聞き方、とかなんとかルシャリオが後ろでぼやいているが知った事ではない。
「それ自分の事?」
 聞いてやっても人を食ったような態度なので甲斐がない。
「わたしの処女はとってもお高いの。だから使い時は今じゃあない、でしょ」
 直裁な表現にルシャリオは仰け反り、声もなく口の開け閉めを繰り返す。生真面目な副官はこうした単語に不気味なまでに耐性がないのだった。
 一方セジェルは鼻で嗤って言い放つ。
「処女だと。果たして生娘が恥ずかしげもなく己を処女だなどと言うものか」
「それは将軍の願望でしょう。おぼこい女には恥じらいを持って欲しいっていう。処女が処女と言って何が悪いわけ。大体処女じゃないのはそっち」ヴィットリアは一息にそう言うなりセジェルを鋭く何度も指差した。
 それに過剰に反応したのはルシャリオである。
「しょ、将軍、処女……」の後になんと続くのか分からないが、セジェルはルシャリオの悲鳴を遮り叫ぶ。「貴様ら黙れ! 人が」心配して聞いてやったんだぞ! とまではすんでの所で言わずに済んだ。自分自身さえ価値ある商品として胸算用するような守銭奴を心配などしていようはずもない。
 セジェルやルシャリオの心中の恐慌になど少しも興味のないヴィットリアは妙な話の流れを掻き消すかのように面倒臭そうに手を振る。
「二人とも変な妄想はやめてよね。お金は借りるの、お兄様から」
「事故で死んだんじゃないのか」
「死んでないし、兄が一人しかいないなんて誰が言ったの」
 つまるところヴィットリアは上に二人の兄がおり、事故を起こしたのは二番目、金を借りに行くのは一番上という事のようだった。
「将軍はうるさいし愛想ないから着いてこなくていいからね。綺麗どころだけ連れて行く」と一人置いていかれたので、貸す者と借りる者の間でどういう話し合いが持たれたかは知る由もないが——そしてわざわざルシャリオに訊ねるのも気にしているように思われそうで憚られた——、とにかくヴィットリアは馬車を修繕し戦車に格上げするのに十分な金を持ち帰ってきた。
「いくつか条件つけられたけどね」
 そのうちの一つが、ヴィットリアの兄が運営する団体の名前を戦車に大きく記す事。セジェルとルシャリオが乗る戦車の艶やかな黒い車体に躍る金文字は“レテラウス識字センター!”
 あまり趣味がいいとは言えないだろう。車体に落としていた目を上げると、御者と目が合う。
「随分見違えましたね。ただの馬車だったとは思えないくらい」
「ただの馬車どころではなく、これはおそらく元は競技戦車だ」
「確かに、床はよくしなる籐で編まれて緩衝を意識していたようですし、車体も装飾が少なく流線型です。レース用だったんですね、フェンダーベンダーは」
「パラゴンパンサー」セジェルは剣で車体を撫でて塗装の一部を削り取る。白地に掠れた朱色の文字が辛うじて読み取れる。「それが本当の名前だ」
「存分にかつての栄誉を全うさせてやりましょう。今回は廃車にせずに帰還するんです」
 あの娘は良くも悪くも拾い物の才覚がある。そしてそれを再び飛翔させる手管も。
「スペクタキュラーか」思わず呟く。
 開戦の喇叭が轟いて、空気を震わせる嘶き、巻き上がる土埃、輻輳する車輪の轍。
 さすがはルシャリオ、開戦の音が鳴り始めるまさにその瞬間に手綱を引き絞り、いち早く戦車を駆る。素晴らしい反応速度。
 セジェルもその機を逃さずにつがえた矢を射る。放物線を描いて飛び上がった矢は射手の狙いを寸分も違わず貫く。闘技場の端に陣取っていた戦車の御者がゆらりと揺れて倒れる。中途半端に走り出していた戦車は制御を失い、並走していた戦車とぶつかり二騎とも派手に大破する。
 開戦間もない脱落に驚きに満ちた歓声が上がる。その轟音が退く前に既にセジェルは二人目に手をかけている。構えた剣を軽く払えば互いの駆け抜ける速さも相まって擦れ違いざまの戦車に乗った剣闘士の首が簡単に飛ぶ。骨も筋も腱も一刀のもとに断裂し、その手応えに両腕がじわりと痺れる。
 黒い戦車は血飛沫さえも珠と弾いて駆け抜ける。競技戦車の面目躍如。
 セジェルは戦士を失った御者の驚いた顔を見送りながら返す刀でその後続の弓士を得物ごと斬り払う。
 その勢いを殺さぬまま、剣を振って血脂を飛ばす。散った穢れは横様から追い縋ってセジェルに長物を叩きつけようとしていた闘士の目を潰す。狙い狂った槍は地に突き刺さり、得物を手放すのが遅れた闘士は馬車から投げ出されてあえなく後続車に轢き潰される。鎧兜を身に纏った大男を車輪で噛んだ方も無事には済まず、前輪が飛んで機動力を失う。戦線離脱だ。
 こうしてセジェルの周囲の邪魔者が殲滅されたところで、これ幸いと後ろから追い上げて挑みかかってくる者がいた。その赤い戦車は火の玉のように戦場を駆け抜け距離を縮め、その最中にも矢を射かけてくる。
 狙ってくる矢はそれだけではない。今や猛攻目立つ黒の戦車は遠巻きにされ、当たれば八卦とばかりに弓矢で狙われ始めていた。
 しかし無秩序に疎に降ってくる矢などセジェルにとっては小虫を払いのけるも同然。宙に描かれる剣の軌跡は矢を防ぐ傘だ。
 矢の雨は御者にも等しく降り注ぐが、セジェルがわざわざ守ってやる必要はない。ルシャリオは片手に手綱をまとめ、もう片方で軽々と大楯を掲げて矢を受け止めている。
 セジェルの体に愉悦が満ちる。これこそが求めてやまない血の沸騰。これが信頼に足る者と闘う事の醍醐味。