槍試合 - 1/4

 鈍く輝く鉄鎧が槍の突撃に晒される。
 お互いの馬の速さが相まってその衝撃たるやちょっと太腿で鞍を閉めたくらいでは落下に耐えられまい。
 赤い飾り布を肩から垂らした騎士は、青い騎士が突き出した槍によって空に飛ばされ、優美な弧を描きながら半回転する。辺りには青く塗られた木製の槍の先端の破片が持ち主の勝利を祝うように舞い散る。そして赤い騎士は地面と激突。地面は昨日雨に降られて泥濘んでおり、その騎士は文字通り汚辱に塗れた。
 それは一瞬の爆発と言ってもいいだろう。命の輝きの発露。死の凝縮。
 勝者は凱歌によって迎え入れられ、敗者は低俗な欲望しか持たない蛆虫のようにただ地面を這いずる。野蛮で心躍るゲームだ。
 とはいえそれが目の前で何度も繰り返されればそのうち飽きてもくる。
 もし自分がしがない市民で――と、バランタンは時折夢想するのだ――こうしたバルコニーで余すことなく試合を観戦できる立場でないならば、飽きるという事とは無縁だっただろう。おそらく安酒片手に槍の欠片が飛んで来るような危険な観戦席で野次だの罵声だのを飛ばし、次はどちらの騎士が勝つかなけなしの金を賭けるのだ。だが飲代が無くなっても困る事はない。秋の収穫の祭典の最後にはワインの大判ふるまいがあるのだから。
 バランタンは喉の奥であくびを噛み殺しながら、椅子の肘掛けに腕をついて、眠気に傾ぎそうになる顎を支えた。
 このように彼にとっては代わり映えしないやり取りも、しかしその隣に座す者にとっては一つ一つが物珍しく映るらしい。
 バランタンの耳に鈴の転がる様な声が飛び込む。
 刺激の強さに失神寸前の悲鳴でもあげているのだろうか。まるで上流階級の不感症女のように。そういう女というのは得てして繊細なふりをしているだけで、実の所悪い意味で鈍感で無神経だ。バランタンはそうした類の鋼のような心の人間は嫌いだった。
 だがバランタンは妻がそんな人間でない事くらいよく知っていた。だから隣の女が発しているのは悲鳴でなく密やかな抑圧された笑い声なのだ。バランタンの妻であるその女は残虐な場面を見て純粋な悦びに声を震わせているだけなのだ。その証拠に、白い顔の中で毒々しいまでに赤い唇は堕落した微笑をたたえていた。
 いつの間にか次の試合が始まっており、そしてまた一瞬のうちに終わり、敗北者が無様に土つく。そして公妃が白い喉を不健康な色の陽光に晒して嗤う。
「気に入った男でもいたか」
 薄暗い声で聞けば、帰ってくるのは亭主を喰ったような鷹揚な返事だ。
「ええ、隣に座っておりますわ」
 そしてそっとバランタンの手に絡みついて来る、女の冷たい手。惻隠の籠もったその感触に男は胸苦しさを覚えた。
「喜んでいるのか。人が槍に突かれて落馬する所を見て」
「あなたにはそうお見えになるの? なら、そうなのでしょうね。見てくださいな、あの赤い騎士。脚が変な方向に曲がっているの。それも曲がるべきではない所で。すごいわ。あの飛び出している白いものってきっと……」
「脛の骨だ。二本あるうちの細い方。あの騎士はもう使い物にはなるまい」
 俯せに倒れた騎士は踏みつぶされた後の多足の虫のようにぎこちなく蠢きながら、何を思ったか必死に頭を持ち上げた。すると古代の魚人戦士のような冑に空いた数多の丸い孔の一つ一つから滝のように血やら肉脂やらが地面に滴った。
「挽肉ですとか、たまに行商人が持ってくる小麦の麺って、きっとああやって作りますのね。ああして孔から絞り出すの」
 熱中する程に締め付けのきつくなるクロードの手を振り払い、バランタンは胸の悪くなりそうな描写を遮るように声をかぶせた。
「赤の陣営ばかり負けすぎる。どうなっているんだ」
「あなたは赤い方を応援なさっているの?」
「そういうわけではない。負けてばかりいるから気になるだけだ」
「男というのは弱い方に肩入れしたくなるものなのです。感傷的なの」
 男は訳知り顔の女をじっとりと陰気に睨みつけた。
「お前はまったく、男の何を知っているというんだ」
 それに対する答えは意味深な微笑みだった。
 バランタンは内心舌打ちして、今度は向かい側に聳え立つ櫓の特等席に座す若い男を睨みつけた。
 華々しいなりをした軽薄そうなその男はバランタンの甥であった。どこかの田舎に伯爵領だか男爵領だかを持っているらしいが、ただそれだけの凡愚だ。別段武功を立てたという話も聞かない。
 本当ならばこの秋の収穫の祭典になど呼びたくはなかったのに、気付けば潜り込んでしれっとしている。おそらく次期大公は自分だと喧伝するためにやってきたのだろうが、生憎バランタンはしばらく死ぬ予定はなかった。
 軟弱で軽薄というのはバランタンにとっては欠点にしかなり得ないのだが、女はそうした男を好むらしい。側近の妻たちはもちろん、市井の民までが彼の不肖の甥に執心なのだ。どうして自分の妻の興味までは惹いていないだろうなどと楽観視できるだろうか。
 それにクロードは甥が差し出した贈り物を喜んで受け取り、それどころかこの祭典の間、公に姿を出す時にはそれを必ず身につけているのだ。
 バランタンはクロードが着ている目を焼くほどに美しいブロード織のドレスを横目で睥睨した。それはサラマンダーと百合が金糸で刺繍された豪奢な紋章衣で、光の加減によってその青い地色は高貴に艶めいた。
 バランタンが贈り物をしようと画策すればいち早くそれに気付いてやんわりと拒絶するくせに。それか身分に見合わぬ随分と貧相な物を欲しがるというのに。
「赤が好きなのではないのか」
「何の話です」
 バランタンは不躾に指でクロードのドレスを指さした。
「いつも赤いのを着ている」
「わたくし青も好きですわ。あなたの色ですもの。あなたの紋章の色。そしてこの都市の色」
「気に入っているのか、それを」
「この百合も、あなたの紋章ですから」
 クロードは左胸の上に咲く黄金の百合を手で優しく撫でた。
「サラマンダーは違う。私が厭う輩の紋章だ」
 火を吐くトカゲ、それはアンボワーズの玉座に座る、バランタンによく似た男の象徴だった。そして青は高貴なる王の色。言外に、この広大な大公領は自分の物だと主張しているのだろう。ともすればその妻も。
 つまり甥はアンボワーズ宮廷の回し者なのだ。礫か砲弾をぶつけて追い払ってやりたいくらいだった。
「まあ、また勝った。また青が勝ちました」
 今度の赤い騎士は槍で突き飛ばされた勢いのまま、互いの滑走路を隔てる柵に強か背を打ち付けて伸びていた。
「お前は青を応援しているのか」
 その詰問の声は小さくはあったが甲高い喧噪をかいくぐる程に低く暗い。
「どちらを応援しているという事もありません。どちらかが完膚なきまでに負ける所を見たいだけだわ」
「ではお前は青だ。青の側につけ。私は赤」
「どういう事です。何か楽しいお考えでもおありになるの?」
「これは賭けだ」
「賭け」
「そうだ」
 そう言うとバランタンは尊大に腕と脚を組んで妻を睥睨した。
 一方でクロードはそれに萎縮する事なく、唇に指をあててくつくつと笑った。
「あの雨の日のように、また賭けを? 今度は必ずわたくしが勝ちますね。だってあなたがおっしゃるようにどういうわけか青ばかり勝ちますもの。陛下、今日のあなたは少しおかしいわ。わたくしに勝ちを譲ってくださるおつもりなの?」
「どうして自ら負け戦に挑む事があろうか。私は最終試合に赤の武具に赤の馬具で出る。つまり私は赤の陣営というわけだ。私がその試合で勝ったならばお前の負けだ。私の命ずる事に何でも従ってもらう」
「まあ、ずるい。あなたが負けるはずがありませんのに。でもいいわ、勝ち目のない賭けもまた勝負心をそそります。万に一つもないでしょうけれど、ではわたくしが勝ったなら西の銃眼塔を修繕してくださいな」
 銃眼塔は城の西に位置し、かつて城壁がもっと狭かった時代には城壁にその一側を接していた。そして有事には弓兵が詰めて迫りくる敵兵をその銃眼から狙い、次々と射抜いていたのだ。
 しかし城壁が広がった今となっては銃眼塔は退役し、ゆったりとその余生を旧城壁と朽ち果てるままに過ごしていた。
「あんな無用の塔。朽ち果てるままにしておけばいいのに」
「先日の雨で一部が崩れた事をお忘れかしら。倒壊したら危険だわ。あの辺りは子供がよく遊んでいますもの」
「では破壊してやる。代わりに新しい兵舎を作る」
「それはいいお考えです。破壊と創造。まるで神の所業ですわ、陛下。それで、あなたが勝ったらわたくし何をしたらいいのです」
 バランタンは待っていたといわんばかりにクロードの方へ身を乗り出し、その顎を捉えると噛みつくかのように顔を間近にした。
「そのドレスを引き裂いて燃やせ」
 そして熱っぽく長ったらしく唇を吸った。
「ん……ふぅ」
 クロードは愛らしい息を立て、バランタンの胸元にしがみついてくる。
「見られてしまうわ」
 やっと唇を解放されたクロードは困ったように眉を下げ、潤んだ瞳で夫を見上げる。その表情は彼の嗜虐心を煽るに不足はなかった。
「構うものか」
 バランタンはそう言いながらも横目で背後に立つ二人の衛兵に下がるように無言の鋭い圧力をくれてやる。見ないようにしていても勝手に目に入ってくる主君とその妻の秘め事一歩手前の行為に気まずそうにしていた男達は安堵の表情を浮かべた。
「見せつけてやればいい」
 衛兵達が緞帳を潜ってバルコニーを後にした事を確認するや、バランタンは激しい接吻を繰り返す。向かいの櫓からもよくよく見えるように。
 唇で相手のそれを押し広げ、舌を差し込み荒っぽく弄る。クロードは抵抗もせず、小さな吐息を漏らしながら夫の行為に身を委ねている。
「舌を出せ」
 従順に突き出された舌を舌先で舐めわざとらしく水音を立てて吸い付く。それに飽きると今度は口を大きく開けて相手の小さな唇を丸ごと飲み込むように口付ける。