スターバックスの今週のスピリタス - 1/4

「わたくしに触れる前によく胆に銘じておいてください。これはビジネスです。そうでないならば貴女のような方の家に一人で出向くような真似はいたしません」
 つんと顎を上向かせ、鋭く高い鼻から吐き出される諦観と不快の息。顰めた眉は片方だけぴんと持ち上がる。最後に黒目だけが動いて相手を見下ろす。
 慇懃無礼か高飛車もここに極まれりである。だが自分はそれに見合う立場にある、とクシーダは思っている。何せ彼は領主御用達の商会長である。扱う品も一流なら売る相手も一流。
 ……つまり客は選べるが買い付けに関してはその限りではない。こと、相手が希少品を扱う場合には。
「はいはい」
「返事は一度でよろしい」
「へい」
 なおざりな返事に続くおざなりな返事。こんな“ぞんざい”で城壁の外に住むような生き物がどうしてどうして、あんな世にも崇高な蒸留酒を生み出せるのか。
 限りなく純粋なアルコール、その名もスピリタス。一口飲めば舌どころか胃袋まで地獄の業火で焼かれる。
 卸された酒ケースの中に一瓶だけ紛れていたそれを飲んだ領主はまさに文字通り酒精に心酔。定期的な入荷をご所望だ。
 しかし作り手は「無理」とすげない拒絶。商会の応接間に招き、ディナーまで振る舞い、最大限礼節を弁えて頼んだというのに。
 スピリタスは普通の酒より醸造に手間と時間がかかり、そもそも売り物にするつもりもなく、間違えてケースに入ってしまっただけだ、というような事をつっけんどんに言われた。彼女がそっけないのは、クシーダが傲岸不遜なのと同様に、いつ誰に対してもだ。一々気にする事でもない。しかし今回ばかりは腹が立った。
 何故、少し手を伸ばせば掴める物を手に入れようとしないのか。こんな崩れかけの石造りの荒屋が強固な城壁に守られた街の家屋より優れているとは思えない。歴史の闇に飲まれて打ち捨てられた邪教の神殿の名残は不気味で、孤独と寂寞しかない。
「領主の覚えめでたくなる機会を不意にするなんて、よほどこの沼地の豪邸がお好きなのですね」
 領主は無類の酒好きでスピリタスのためなら金に糸目はつけないと言っている。もし定期的に供給できるなら、領主の厚意により城壁の中に住まう事も不可能ではないだろう。たとえ彼女のように市内の居住を許されていないような人種であろうとも。
「水場近いと便利じゃん。で、あんたは目医者にかかった方がいいよ、ここが豪邸に見えんならね」
 クシーダは眉を跳ね上げ片眼鏡を外し、染み一つない布で拭きながら、ハハハ、と大仰に笑ってみせる。
「貴女のようなうろくずにとっては豪邸でしょう、という意味で申し上げたのですよ」
 怒りか憎悪にか、女の鱗の下肢が鞭のように撓って石の床を掃く。
 うろくず、セイレン、メリシナ……彼女はそうした類の人ならざるものであった。
「あんたそういうことばっか言ってると殴られるだけじゃ済まないよ」
 女の無駄のない清廉な顔が嫌悪に歪み、縦に細い瞳孔がより収縮する。目と他のいくつかの特徴は別として、身体の上半分は人間とそんなに変わらない。サイズの合っていないぶかぶかなシャツ越しにも、なだらかな肩と胸の膨らみが見てとれる。一方裾から覗く下半身は完全に蛇だ。それも、二股の。
 ガラスの嵌っていない歪んだ窓から差し込む陽光を受けて鱗がゆらゆら輝く。何かの願いをこめて泉に投げ入れられた金貨の如く。
「おお、スターバックス、心配してくださっているのですか。人ならざるものながら人並みの高貴な魂があるとみえますね」
 スターバックス、それが彼女の名だ。彼女を拾って養育し、酒の醸造法を教えた異世界人が名付けたらしい。その響きには思わず吸い寄せられるような不思議な魅力がある。
 スターバックスは城壁の外、広い農村も川沿いの粉挽小屋も超え、川のせせらぎ注ぐ池のほとりに住んでいる。気ままに種々の酒を仕込んでは方々の安酒場や宿屋に卸して小銭を稼いで生活していた。
 クシーダが彼女の酒と邂逅したのは偶然立ち寄った城壁近くの場末の酒場だった。不揃いの瓶に詰められた無骨な見た目によらず、中身は逸品の三ツ星級。もちろん三段階評価で。いかな辛口のクシーダでも舌を巻かずにはいられない味わいは、安酒場で官能のいかれた輩に浪費されるがままにしておくべきではない。客が入れ替わる度にテーブルクロスを変えるような上流の店で、何倍もの値段で取引されるべきなのだ。
 そういう使命感にも似た独善的な霊感インスピレーションがクシーダの神経と焦燥を昂らせるような品は商会長である彼自身が面倒を見る。そうしないと気が済まない。
 その時もクシーダは店主の胸ポケットに金を詰め込み醸造人を聞き出して、わざわざスターバックスの家まで出向いて半ば執拗に無理矢理契約を交わしたのであった。
 欲しい物を手に入れて、クシーダの霊感も鎮まるかと思われたが、今もってそれはクシーダを責め苛む。
「人間の魂なんかいらない。あんたとおんなじにはならない」
 そう拒絶する表情の、声色の、凛として清い事。
 クシーダはそれに見惚れ、そして悔悟した。できるなら床に身を投げ出して泣いて縋って先の失言とこれまでの高慢な態度について許しを乞いたかった。
 だって好きだから! 目の前のうろくずが、セイレンが、メリシナが、スターバックスが!
 情けない事に、恋の始まりは醜態からであった。
 一人漫ろ歩く夜道、城壁の外、かつて不誠実を理由に取引を打ち切った職人達が徒党を組んで因縁をつけてきた事があった。クシーダ自身、己は荒事には滅法向かないと分かっていたが、尾を巻いて逃げるほど潔くもなく、口先だけで謝るほど懸命でもなかった。
 そしてそこまでするほど自分が可愛くなかった。何も生まず何も持たない惨めな気持ちだけが常にあった。だから人目もない夜に城壁の外を一人彷徨くのである。
 だからクシーダは片眼鏡を外しながらこう言った。
「殴りたいなら殴ればいい。それで本当に気が済むのなら」
 済むのである。人間の大半は憎いかも〜と思った相手をボコボコに殴れば枕を高くしてよく眠れるのだ。
 押さえつけられ殴打されて、服は血と土にまみれた。それでも許しを乞うたり助けを呼んだりはしなかった。これ以上の無様を晒すのは御免だった。だが悪い事は列をなしてやってくるもので「おっ、ケンカか」果たして樹上からぬるりと現れたるは見まごう事なく数ヶ月前に契約を結んだ半人半蛇。スターバックス。
 浅い付き合いだったが、彼女に嫌われている事だけはよくわかっていた。ムラのある作業工程を見直させ、もっと見栄えの良い瓶を使うよう執拗に高圧的に指導したし、相手もそれにかなり強く抵抗した。口汚く罵られもした。高飛車でクソいけすかない野郎! と。
 だから見て見ぬふりをされるか、暴力に加わるか、そのどちらかだろうと、そう思った。おそらく後者の可能性の方が高いとさえ。
 だが人ならざる者は「うーん、多対一か。そんなのつまんないだろ」そう言って酒瓶を振り翳し、荒くれ者達に殴りかかっていったのだ。
 クシーダはその勇姿に尊さと感動を覚えずにはいられなかった。そして己を奮い立たせた。
 まあ、負けたのだが。ボロボロに。しかし命のやり取りになる前に相手が根負けして引き上げてくれたのは幸いだった。何せ殴られようが蹴られようが恐れを知らぬうろくずは怯まないのだ。不屈の鱗戦車だった。
「いい歳なんだから、夜に一人でこういうとこ歩いちゃいけないよ。なんか理由があんだろうけどさ」と、顔を腫らして鼻血を垂らしたスターバックスは地面に倒れたまま笑った。「長生きしてくれないと。あんたが死んだら、また酒買い叩かれるようになるし」
 嫌っている人間の喧嘩に加勢して、いいだけ殴られて、内心どう思っているか知らないがそれでも快活に笑う狂人を、彼女以外に知らない。
 ——人間の魂なんかいらない。あんたと同じにはならない。
 確かに人間の魂などいらないだろう。彼女は彼女であるだけで素晴らしく、いい意味でありうべからざるものだ。
 言葉の虚飾に頼らず彼女のようになれたらと、いつも希う。
「ご心配なく。何度生まれ変わってもなれませんよ」
 スターバックスと打ち解けるなど不可能であると痛い程分かっていた。彼女に魂がないからでも、種族が違うからでも、身分の差があるからでもない。クシーダ自身の問題だ。頑迷で高慢な性質に、もはや修正は効かない。この歳までそうして生きてきた身には、生まれ変わるにも等しい難業だ。
 人間としての魂があるだけのこんな下等な生き物に、スターバックスの気持ちが向けられる事はないだろう。
 精神の交歓が成らないのであれば、せめて肉体のそれだけは成立させたかった。
 遅すぎた恋情に身を焦がされていたクシーダは、先日の納品の際にスターバックスに遂にこう宣言した。
 週に一度、わたくしを丸一日好きにできる権利をさしあげます。家柄もよく健康的で、謂わば高級品です。貧乏人には嬉しい話でしょう。代わりに残る六日は馬車馬のように働いてスピリタスを醸造するのですよ。
 スピリタスの供給にかこつけて、嫌々という素振りで身を差し出すなど、頑迷や高慢故で説明がつくだろうか。短慮、浅薄と言って然るべきでは、とクシーダ自身も思う。
 とはいえ相手も乗り気なのだ。
 ああ、じゃあ色々やってもらおっかな。スターバックスは悪童のような笑みを浮かべてそう言ったのだから。
「さっさと始めましょう。ベッドはどこです」
 あまり片付いているとはいえない、というかむしろ散らかり放題の家を見回す。不潔な場所に屯する虫や湿った場所に密生する菌類とお目にかかれそうな。近いうち掃除人を寄越さないとならないだろう。そうでなしに毎週ここに来るのは苦行だ。いくら好いた相手の家であろうとも。
「はあ? そこだけど」
 やる気なく伸ばされた指先を辿れば、部屋の中央に聳え立つ服やシーツの積み重なった山に行き当たる。おそらくその下に寝台が埋まっているのだろう。何故服をクローゼットに片付けないのか、どうやってそこで寝ているのか、謎は尽きない。興味ではなく、あくまでも疑問だ。
「おもてなしの心が隅から隅まで行き届いておりますね。この有様を見て喜ばない客人はいなかったでしょう」
「しらん。今までうちに人呼んだことないから」
 よもや自分が初めてこの家屋に踏み込んだ人間だとは。クシーダの唇の端が嫌味な形に歪んだまま痙攣し、青い恋に触れた少年のように心臓が躍る。案外こういう状況には慣れていない。あえて避けて通ってきた道だ。
 洗ったのか洗っていないのか、たぶんどちらも入り混じった布の山をクシーダは床に蹴落とす。発掘されたのは石の寝台だった。シーツ一枚を乱雑に敷いただけの代物で酷く寝心地が悪そうだったが、何事よらず大雑把な人物の持ち物だと思えば納得である。
「なにすんだ。洗ったばっかのやつもあんだけど」
「何をするとは、何を今更。決まっているでしょう」
 クシーダは片眼鏡をポケットにしまうと上着を肩から落とし、一番まともそうな椅子の背もたれにかける。煽り立てるように喉をそらしてリボンタイを解き、ゆっくりとシャツを脱いで肌を晒す。
 城壁騎士や傭兵のように頑強とまではいかないが、余暇の戯れと自衛のために剣術を嗜んでいるおかげで、歳の割には悪くない身体だと自負している。とりあえず上半身は。
 相手は見たところ若く、色々と持て余していそうな女である。世の中への憤怒とクシーダへの嫌悪を肉の欲望に変えて挑みかかってくるだろう。
 しかし果たして相手の反応は「暑い? あんたらと感じ方違うからよくわからん。半分蛇だし」その呆けた言い分の腹立たしい事といったらない。
「わたくしを馬鹿にしているのですかッ!」クシーダは声を荒げ「こんな屈辱的な仕打ちは初めてです」気付けばスターバックスをかき抱き唇を重ねていた。
「酔ってんのかい、朝っぱらから」
 存外力強い蛇尾がクシーダの腰を巻き取り、引き離す。頬の一つも打たれるかと思ったが、相手はひどく冷静で居心地が悪い。
「このわたくしが酔いしれた様を他人に晒すなど、そんな醜態を演じるわけがないでしょう」
「シラフでこれかい」
「わたくしを厭うているからといって、貴女のその態度は気に入りません。あまりにも失礼です。自宅に呼びつけておいて、いい大人が二人きりで、何を言うかと思えば、暑いかですって? ええ、熱いですよ」
 クシーダは腰に巻き付くひんやりした尾を平手で激しく打ち据える。「痛い!」掌が痛んだ。鱗の鎧は案外と硬い。そしてその中に無駄な肉はない。
「え、こっちが悪いんか? なんか変なこと口走ってキスしてきたのはそっちの方じゃん。それに厭うって、嫌うってこと? あのさあ、喧嘩手伝ってやったのにそういう風に言われたら甲斐がないよ」
 スターバックスは眉尻を垂らし、呆れたような困ったような笑いを溢す。
「つまり」嫌ってはいないし危険的状況に嘴ならぬ尾を挟む程度には良性の感情を抱いているという事か。クシーダはしばし息を飲んだ後一息に続ける。「あの役に立たない加勢は公私混同ですか? ビジネスの相手に対して、それはどうかと思いますが」言い切ってから、ここが素直になる最後の機会だったと気付く。冷静に手を伸ばせば掴めるはずだったものを。
「あんた相当とっちらかってるな。初めて会った時から思ってたよ」蛇の目がひどく優しい笑みに細まる。腰を抱く鱗の感触は常々想像していた以上に優しく、穏やかだ。「ガラス細工みたいだなって。お湯ぶっこまれて壊れる寸前の」
 この人頭蛇尾はどうしようもない善人だ! クシーダは自身の矮小さに打ちひしがれ、スターバックスの寛大さに打ちのめされ、益々眷恋の念は募る。
「ああ……貴女もそのような皮肉が言えたのですね。貴女のような単純な方は、貴い人間を組み敷いて気が済むまで甚振って、醜態を嘲笑って溜飲を下げるのみかと」
 相手の一挙手一投足に悶える肉体を律するのも、腹の底から抜ける熱っぽい息を抑えるのも、もうやめた。淫奔に見られようと構わない。誘惑を試みているのだから。善良な蛇の。
「うわ、好きにしていいってそういう意味かぁ」
「察しの悪い冷血動物。頭に血が巡っていないのでは」
「たかが酒のために冷血動物とヤろうなんて、まじでイカれてるよ」
「たかが酒! 貴女は何もわかっていない」自らとその手で作り出すものがどれだけ素晴らしく価値ある物なのか。
 スターバックスは、はあ、と大袈裟な溜息を漏らす。
「わかってないのそっちじゃん。あんたさあ、人間の女ならみんな自分に抱かれたら喜ぶと思ってんだろ。眼鏡なくても見りゃ分かるだろうけど人間じゃないし、けど水妖共も仲間に入れちゃくれないし、そもそも女かどうかもよくわかんないっていうか……」
 みなまで言わせる前にクシーダは口早に相手の言葉を封じる。
「存じております。わたくしのリサーチ能力を見縊らないでいただきたいですね。スターバックス、貴女はアンドロギュヌス」
「アンドロなんだって?」
 風情なく話の腰を折られては幾ら好意を抱いていようとも多少は苛つく。
「貴女には少し難解すぎましたか。言い換えましょう。両性具有、半陰陽、ふたなり」
「ふた……ああ、両方ついてるって意味か。ちん……」
「それ以上おっしゃらなくて結構」クシーダは再び相手の言葉を強く封じる。
「なんで知ってんのさ」
「貴女の水浴びを目撃しました」