戦友と報酬 - 1/6

 実にやりにくい試合だ。
 そう思いながらもセジェルは鉄兜の繰り出してきた剣を弾き、その胸を覆う鉄板の中心を蹴り飛ばす。得物を弾かれて体勢を崩した所に体幹の衝撃が相まって、鉄兜はどうと地面に仰臥した。
 大ぶりなだんびらも鎧をまとった身体も重かったが、高揚して力任せに飛び込んでくる敵を往なすのはセジェルにとっては容易い。長の研鑽と天賦の才の前に付け焼刃はひれ伏すしかないのだ。
 だからこそここまで死なずにやってこられたし、今日だっていつも通りに勝つはずなのだ。だが一人倒しただけでは終わらない。やりにくい試合なのだ。
 背後から鬨の声が迫る。セジェルは振り向きざまにグラディウスを薙いだ。鈍く輝く刃は飛びかかって来た男の革鎧も、その下の人皮も、もちろん肉をも切り裂いて血潮の軌跡を描く。セジェルはその勢いのままにグラディウスを振り切る事なく、無駄な勢いを殺して重たいそれをぴたりと虚空で止め、次の一閃で身を起こしてきた鉄兜の喉をまるで草でも刈るかのように易々と掻き切った。降参を促す暇はない。そんな事をしている間に自分の頭は胴体と生き別れになってしまう。皆が皆セジェルを狙っているというわけではないが、隙あらばと思っている輩は少なくはない。
 それもこれもこれまでの試合で少々悪目立ちし過ぎたせいだ。とりあえず向かう所敵なしで、先日は獅子を屠ったのだ。そんな男を討ち取ったとあらば。
 続けてやってきた二人。姿を認めてはいないため味方の印をつけているかどうかはわからないが、野蛮な声を上げて飛びかかってくるならば例え味方の印を身につけていようとも敵である。
 そこに信頼がないのであれば、協力というものに過剰にのめり込んではならないのだ。
「激情のままに味方を切り刻んじゃあだめなんだからね」
 娘は盛大に溜息をついてこう言った。整った前髪をセジェルの剣で崩された事に機嫌を損ねたのであろう。
 しかしセジェルに言わせてみれば、一心不乱に得物を振っている剣闘奴隷に後ろから近づいた娘の方が悪いのだ。娘の浅慮と引き換えに犠牲になったのが精緻に巻き上がった前髪のほんの先端だけで済んだのは、娘の気配に気づいて一瞬で剣の惰性を殺し軌道をずらすという難業をやってのけたセジェルの感覚と技巧と慈悲のお陰なのだから、むしろ感謝して欲しいくらいだった。
「はて、お前はいつから俺の味方になった」
 随分と年上の男を窘める娘に、セジェルは剣を振るう手を止めず、いつもの無表情で冷たく言い放った。風を切る剣は手元が狂えば娘の細い首くらい軽くすっ飛ばせるだろう。なにせ獅子のそれさえ切る事ができたのだ、いわんや女子供をや。
「わたしじゃなくて。今日はちゃんと協力して戦ってよ、そういう試合なんだからね」
 そうセジェルに言い聞かせる娘は剣がその鼻先を掠め続けても身じろぎ一つしないのだから妙に肝がすわっている。あるいは、自分の所有物ならば、まかり間違っても主人である自分を斬りはしないだろうという過信か、もしくは信頼か。
「味方を傷つけはしない。手が滑らん限りは」
「とはいえチーム戦だからって油断しないでよ。最後に立ってる人数が少なければ少ないほど、一人あたりの報酬は高くなるんだから。意味わかるよね」
 つまり、自分の報酬を増やすために仲間を討つ品性下劣な輩もいるという事だろう。
「将軍が負けたら折角高まった評判に傷がつくの。気をつけてね」
 報酬を案じての事だと分かっていても、心配そうに歪む娘の顔を見ると少しばかり胸がざわつく。
「お前ごときが案ずる必要はない。油断などここ最近一度もしていない。この先も一生することはないだろう」
 なにせ彼が信頼してその背を任せられる者達はもうこの世にはいないのだから。
「なんかそれ、疲れそう」
 疲れるものか、寧ろ一層気概が湧く。
 セジェルは猫並に広い視野で斜め後方から音もなく迫ってくる剣奴を捉えた。そしてその剣奴唯一の自慢なのであろう短剣二刀流の腕が遺憾なく披露される前に剣で横一閃をお見舞いした。不健康そうな黒い血がまるで洞窟から飛び出してくる蝙蝠の羽ばたきのように飛び散る。それから一呼吸ほど後、腹を掻っ捌かれて抑えの無くなった内臓が自由を謳歌するかのように躍り出る。
 剣奴は両手の短剣を捨てて、内臓を押さえてその場に蹲った。戦意喪失はそのうち緩慢な死へと変わるだろう。
 今度こそ味方だった。たった今切り裂いた腹に巻かれていた緑の腰ベルトは自軍の証。
 誰が味方で誰が敵なのかわからない。信頼に足るかどうか計りかねる輩を味方だと言われて隊を組まされるのだ。それゆえなまじ剣が鈍る。やりにくい試合だ。
 セジェルが手首のしなやかな動きだけで剣を一振りすれば、刃を真っ赤に染める血糊と脂が小さな雫となって散る。ギラギラと不躾に照りつける陽光の下でも、血を吸ってまるで月光を浴びているかのように妖しく輝くその刃。そしてその刃よりも一層剣呑な表情をした男。
 それを見た奴隷達は示し合わせたわけでもなしに、一斉にセジェルを狙うのをやめた。格の違いが本能で分からなかったとしても、目の当たりにすれば理解できよう。
 それでも考えなしに飛びかかってくる蛮勇な命知らず、もとい阿呆もいる。そういう奴らには身を持ってわからせてやるしかないのだ。
 まず一人目。利き腕を切断。鈍器を持った手が飛んでゆく。二人目。真横から顔を削ぐ。面を剥ぐように顔がぼとりと地面に落ちる。三人目。足を切断。足首から上は地に伏せる。四人目。剣の柄で殴る。頭蓋骨が卵の殻のように陥没する。そろそろなまくら剣の切れ味が落ちてきた。転がっている死体から弓と矢筒を拝借する。五人目と六人目。矢で射る。二人まとめて貫通。七人目。攻撃を避けて弓で殴る。八人目はもういない。
 手慰みに闘技場の端で味方であろう奴隷を殴り殺そうとしている敵に向けて矢を射る。放物線を描いて飛んだ矢は猛禽が獲物に襲いかかるように急降下し、敵の息の根を止めるだろう。
 確かな手応えにセジェルは矢の行く末を見届けず、闘技場の中心から端へ向けて次々と矢をつがえては放つ。
 客席の娘もさぞや鼻高々といったところだろう。セジェルは輝く笑顔で「あれ、わたしの剣闘士!」と周りの観客に吹聴して回る娘の姿を想像して……。
「何をばかな」
 セジェルの放った矢が初めて志半ばで墜落した。邪な気持ちで射た矢は飛ばないものだ。自分が殺せば殺すほど娘も嬉しかろう、などという歪んだ意欲でつがえた矢など。
 セジェルの身体の髄が冷たくなる。戦いの最中に女の事を考えている己に驚愕したせいだ。
「危ない!」
 背後からの声に振り向く前に、背中に重たい衝撃がはしる。咄嗟に払いのければそれは倒れ込んできた剣闘士だった。背中に大きな刺し傷があり、心臓を裏側から正確に抉られたことが伺える。ベルトの色を見るに、どうやら死せる剣闘士は味方らしい。警告を発した主かもしれない。
 下手人はすぐにわかった。
 魚顔兜ですっぽりと顔を覆った剣闘奴隷。ベルトの色は赤。敵だ。
 セジェルは脳裏から女の姿を追い払い、足元に突き立てていたグラディウスを手に取った。得物を持ち替えた事で幾分か気持ちが鎮まる。それよりなにより、死ぬか生きるかの瀬戸際に追い込まれていると気づいたら女の事など考えてはいられない。
「お待ちください!」
 セジェルが剣を振り上げるや否や、その魚顔戦士は悲鳴のような声をあげた。しかし立ち竦む事はなく、セジェルの剣をしっかりと己の剣で受け止めた。
「私です!」
「誰だ」
 セジェルは追撃の手を止めずに問う。一方で魚顔戦士もまたセジェルの刀を弾く防衛の太刀筋を緩める事はない。二人の攻防の技巧は拮抗して、このままどちらかがこのある一種の調和を破らない限り勝負はつかないだろう。言いかえれば、セジェルが魚顔戦士に興味を失い、娘の言う所の上品さを取っ払って本気を出すか、魚顔戦士が場の膠着に痺れを切らして我を忘れて猛攻に転じれば、すぐに勝敗は決するだろう。どちらにせよ、勝ち目は多分にセジェルの方にあったが。
 先に膠着状態を破ったのは魚顔戦士だった。
「だから、私です将軍っ!」
 その男は兜を脱ぎ去り、自棄を起こしたようにそのままそれをセジェルの方へぶん投げた。
 それはセジェルの頬の横を掠め「げえっ」彼を背後から斬りつけようと忍び寄っていた剣闘奴隷の頭に見事ぶち当たった。
 セジェルはやっと、自分と切り結んでいた相手が誰だったのか認識した。
「将軍、指示を」
 嫌味な程に整った素顔を晒し、指示を仰ぐ魚顔――娘風に言うならば、スター――戦士にセジェルは言い放つ。
「一々命令はせん。俺はもうお前の上官ではない」
「了解」
 セジェルは腹心の部下の背を見送ることなく、走り出した。監視せずとも信頼に足る男だからだ。
 それからの試合は戦車が走るよりも早く収束していった。
「将軍、敵はすべて掃討しました」
 足元は死屍累々。息をしている者も中にはいたが、それだけだ。邪神のように息吹で生き物を殺せるのであれば話は別だが。
「どうかな。俺の目の前にはまだ一人いる。お前の目の前にもいるはずだ、ルシャリオ。俺とお前は違う隊だ。ならば最後に闘技場に立っていられるのはどちらか一人だけ。俺はお前の血は見たくない。だが俺が地に膝つくつもりもない」
「えっ、つまり、私が降伏を?」
 ルシャリオは呆けたような声を出した。
 野蛮で堪え性のない観客達はなかなか最後の勝負に出ない二人に焦れて、野次を飛ばし始めていた。
「したくないならいいぞ」セジェルは腰の銀の短剣に手をかけた。今回の試合で一度も血を吸っていないそれは飢えた剣呑な輝きを発している。「まあ、すぐしたくなるだろう。俺にこれを抜かせるな。一度抜いたからには脅しには使わん」
「降伏したくなってきました」
 ルシャリオは血で汚れた剣を捨てて地に膝をついた。
 殺せ! という観客という名の怪物の声の中で、一際澄んだ声が響く。
「わたしの剣闘士の勝ち!」
 セジェルは思う。やはり娘の顔は輝かんばかりの笑顔なのだろうか。