「あなたの一日の半分をいただく事はできますか」
男は鮮血のように真っ赤なジュースを差し出し、そう提案してきた。よく磨き抜かれたグラスに絡みつく長い指はまるで蜘蛛だ。
逡巡というには短すぎる間を置いて、客はおざなりに頷き果実の液体を味わう。
息を吸い込めば肺を満たすのは琥珀色の鎮静的な芳香。それは血流に溶け込んで全身を巡り脳髄に染み込む。そのせいかどうかは知らないが、壁も床も卓も、見渡す店内はどこもかしこもセピア色に見えた。
ただ目の前のカウンターに置いた果実のジュースだけが血のように爛々と輝いていた。優美な曲線を描くグラスの底から炭酸の細かな泡が吹き出してマグマが滾っているようにも見える。ストローを差し込んで掻き混ぜると一段と泡が沸き立ち大きな氷が清い音を立てる。
コーヒーを飲むと胃が痛むのだと言ったら出されたのがこれで、それ以来気に入って飲んでいる。多分に悪趣味な所もあるので、人の味がするという謂れのある果実を絞ったと聞かされれば尚更。
息抜きの一杯をごくりと飲んで再び仕事にとりかかる。
雇われとして一日の半分を過ごす店内。地下ゆえに採光窓はなく時間を知らせてくれるのは壁掛けのアンティーク時計だけ。
昼と夜の狭間、店内に客の影はない。
色磨りガラスの嵌め込まれたドアに“夜営業二十時から”の札をかけて施錠する。
食器を洗い、卓を拭き取り、モップで床を磨いていると「おはようございます」ゆるやかに流れるBGMを損なわない柔和な低い声が背後から耳を撫でる。
「おはよマスター」
階上の自室から降りてきた夜番はすでにきっちりと身支度を整えてカウンターの中に立っていた。
彼ほどこの店のマスターに相応しい人物はいないだろう。骨董的な内装、取り揃えられた調度品に似て、彼は洒脱で上品で趣があった。
彼の褐色で掘りの深い無国籍風の顔は苦味走って大変精緻で、秀麗な眉の下には銀貨のように煌めく瞳がある。肌よりワントーン色素の薄い唇はいつも穏やかな笑みに緩やかに結ばれて、全体的に親しみやすい印象。
短く切り揃えた青みがかった黒髪は乱れなくきっちり撫でつけられて、整った顔にはしっかり手入れされた立派な口髭。
そしてすらりとした体躯を糊の効いたシャツとリボンタイ、ベストで一層引き締めて、トラッドな風合いの美意識が漲る。あるいはクロモフォビア的というか、禁欲的な修道士風というか。
「何か召し上がってから戻られます？」マスターは一従業員に対しても慇懃な姿勢を崩さない。「ミルさん」
ミルには親から賜った“みるく”という大層な名があるのだが、名前に完敗する容姿と気質であるが故に他人には苗字で呼ぶよう厳命している。しかしマスターだけは忘れっぽいのか、ちょっとした意地悪なのか頑なに名前で呼び続けるので“ミル”あたりで手を打ってもらう事にした。コーヒーミルのミルって覚えてね、と言ったらみるくと呼ばれる確率は大幅に減った。
「んじゃあナポリタン」
マスターは、はぁいと頷いて腕を捲る。シャツの清潔な白さと、袖口から覗く健康的なコーヒーブラウンの肌のコントラストが網膜に焼き付くようだ。
ミルは清掃を続けながらも、奥の簡易なキッチンで作業に精を出すマスターをちらちらと観察する。
切れ味のよい三徳ですぱすぱ食材をカットして、手際よくフライパンで炒めてゆく。筋張った逞しい前腕が機敏に動く様子は圧巻。
コーヒーを淹れる手腕もさる事ながら、マスターは料理の腕も目を見張るものがあった。
昼営業の時間帯を担っているミルもメニューにある軽食ならどうにかこうにか仕上げることはできる。しかし常連客が時折メニューと時間帯無視のアクロバティックな注文をぶん投げてくるので、そういう時には仕方なしにマスターを起こしてなんとかしてもらう。
時間外労働を頼むのは気が引けたが、マスター曰く、前職のブラック加減に比べたらたまに起こされて料理をするくらいどうという事はないらしい。それにミルが働き始めるまでは一人で二十四時間やっていたのだからそれよりはマシらしい。
むしろミルが昼番に入った事で余暇の時間が増えて助かるようだ。
お待たせしました、とカウンターに置かれた皿から立ち上る湯気の香りと室に染み付いたそれが混ざり合って食欲を唆る。
コーヒーの香りはどんな匂いとも合い口。ミルの内臓はそれを受け付けないが、官能はコーヒーに惹かれてやまない。
それはコーヒーブラウンの肌の彼に対しても同様だった。
健康も金も家族もないミルを拾ってくれた恩義がいつしか親愛になるのは自明で、それが性愛になるのに時間はかからなかった。
「コーヒー淹れよっか。最近上手くなってきたと思う。オーナーもね、コーヒーの味がするって言ってくれるようになった」
料理をぺろりと平らげたミルはウェットティッシュで無造作に口を拭いながらマスターにそう提案する。
マスターはなんでも褒めてくれる。そこが好きだ。酸化した泥のようなコーヒーを淹れても、初々しい自然の味わい、と言って彼は全部飲んでしまった。
「いえ、それは定休日の楽しみに取っておきます。それよりも」
ミルの隣に腰掛けて微笑ましげに彼女の食べる様子を見守っていたマスターが腕を伸ばしてくる。それはミルの腰に巻き付いて優しく引き寄せる。これから行われるであろう事を身体が勝手に想像して、その奥深くに火が灯る。
大きく安定感ある手がしっとりとミルの背と後頭部を支えながら撫でて、近づいてくる唇。吸い付くように啄んでみるとマスターのそれは案外柔らかくて心地よい。段々と夢中になってきて、ミルの背筋を快感が流れ落ち腰に溜まる。
瑞々しいマスターの唇がミルの唇を割って舌が忍び込んでくる。最初は舌先で探るようになぞり、互いに昂ってくるや唾液を混ぜ合わせるように舌を重ね合わせ、扱き合い、粘膜で交歓する。わざと水音を立てられて、暗く淫らなその音に耳から犯されているかのようだ。
食事の直後にそうした深いキスを交わすのもどうかと思うのだが、ほぼ毎日の事なので最近慣れた。マスターはそういう汚穢な趣味嗜好の人なんだと思うようにしている。
大体この後に言う事も「それよりも、みるくさんのミルクが欲しいです」なのだから。上品で洒脱な見た目によらずそういう安っぽい卑猥な事柄に興奮するのだろう。猥雑なものに自身が穢されるのが堪らなく好きなのかもしれない。それ故に気安い見た目で男か女かよくわからない自分に入れ込んでいるのだとミルは思っている。
「だから名前で呼ばないでったら」
「あ、すみません」
まったくそうは思っていなさそうに軽く謝ってマスターは慣れた様子でミルのエプロンを外す。首筋を掠める手の感触に項が粟立ち神経が昂る。彼の手つきはとても優しく丁寧だ。どんなに燃え盛る行為の最中でも。まるで博物館の展示物を検める学芸員か、あるいは邪神の偶像を崇める信徒のように。それが奇妙で、もどかしい時もある。
「私あなたの名前好きなので」
耳元で擽るようにそう吐息混じりに言われると怒る気力が失せる。まったく客商売向きの声である。
そしてマスターはミルのともすれば少年のようにも見える華奢な身体に唇を沿わせながら膝を折り目の前に跪く。
ミルの下衣の金具が外されて前を寛げられる。ほっそりした腰を撫で上げながらシャツを捲られ、露出した薄い腹部に当てられる唇。ぞわりと快感が昇り立つ。思わず震えた吐息が漏れてしまう。見上げてくる顔が満足そうに笑む。接客に用いるそれではなくて、どことなく淫靡で艶の香り立つような。
「名は体を表すのいい例です。ミルさんの肌は乳白色で滑らかでとってもきれいですから」
シミとかホクロとか傷痕もあって、マスターが言う程いいものではない。というか多分普通より汚い。そんなのは褒め殺しだ。
何の変哲もないミルの苗字だってマスターにかかればなんだか良さそうなものになる。
曰く、斗南というのはひっくり返すと南斗六星、つまりミルクディッパーで……なんたらかんたら。よくわからないが、だから“斗南みるく”というのはマスターにとってはいい名前らしい。
そう講釈垂れた時のうっとりとした彼の顔といったら。ミルを惑わせる妙な色香があった。飲んでいたのはザクロジュースなのに、一気に酒でも呷ったかのように酩酊していた。それを思い出すだに滾ってしまう。今だって、お陰で完全に出来上がってしまっていた。
ミルの飾り気ない下着にマスターの指が絡んで、ずらされて性器が溢れて聳り立つ。雄々しく反り返り、悍ましい筋の隆起する男のそれ。しかし竿の付け根のその奥には女の器の入り口も存在する。
ミルは両性具有だった。見た目はよく言えばボーイッシュな女子、忌憚なく言えば中学生男子。胸の発育はあまりよろしくなく、それと関係しているのか女の性感には疎い。
だからマスターがミルの持つ女の性にはさして興味がなさそうなのは助かった。彼が弄り倒すのは専ら性感の分かりやすい男の性。ミルとの交合に用いるのもそっちなので本当に狭苦しい癖の仕上がった人だった。どういう遍歴の性騎士なのかすごくかなり大層気になるが、相手もミルを詮索しないのでこちらもしない。
勃起の反りを指の背で撫で上げられ、輪にした指で扱かれながら、至近距離でじっと検められる。
「ここも色素薄めで大きさの割に」かわいいとでも言いたいのだろうが、ミルは羞恥のままに掠れた大声でマスターの言葉を遮る。
「いやもう言わないでそういうことをさあ」
「では口を塞いでもらうしかないですね」
わざとらしく開けられる口。肉色の粘膜が艶めき蠱惑的にミルの欲を誘う。蠢く舌は妖艶。本当にこの男の精神と肉体は何がどうなっているのか。いやらし過ぎる。
「そんなふうにされたら優しくできないよ」
ミルは立ち上がり、男の後頭部を掴んで欲望の塊を押し込んだ。
「んぐっ……かふ、っん」
口内一杯に満たしてやれば秀麗な眉根が寄ってその下の目がぼうっと霞む。堪らなく唆られる表情だった。
いつもこうなる。
昼と夜の境目、分かち合った務めの入れ替わる時間、抗い難い誘惑、そして乞われるまま与える。
情欲が滲んだ粘膜はひどく熱く柔らかで、具合の良い締め付けだった。
「あっ、うぁ、あっつ……」
ミルが腰を振るまでもなく、性器を受け入れた器が動く。前後の動きに併せて神経と筋肉で練り上げられた舌と唇が硬い怒張を癒す。肉棒から遠ざかる時には舌は竿を包み込むように張り付き扱いて、抜け切る寸前には先端の笠を円を描くように舌先で舐る。奥まで迎え入れれば唇が根元を吸い上げ締め付ける。
時折素肌を擽る口髭と生暖かい吐息が愛おしい。
これまでにミルと情を交わした時の反応をつぶさに捉えて組み立てられた動きが良くないわけもなく、マスターの探究心と奉仕の精神には感服を通り越して怖気を覚えさえする。しかしそれも段々肉悦と渾然一体となってわけがわからなくなってくる。
「んっ、ふ、はふ……」
男の低く鼻にかかった喘ぎが香ばしい匂いの空気に蕩ける。
端正な顔立ちが淫欲に炙られて色香を増している。伏せられた目を縁取る長い睫毛は快楽に震えて美しい。
筋張った太棹が薄い唇を割って出入りする様子はひどく性感に訴えてきて勃起が更に太く硬くなる。本来ならばそんな事をするための器官ではない所を犯す背徳感に酩酊して頭がくらくらしてくる。
ミルはマスターの整えられた髪をくしゃりと乱し、指を絡めて捉えると奥を目指して突き入れる。
「ん゛ッ！？ んぉ゛、ぐぷっ、ぇ……ッ」
喉奥から漏れる音は苦し気だが、しかし表情は満足気に緩んでいる。上目遣いに注がれる視線は夢見るようにぼやけて潤んで、ミルの乱暴な責め苦への悦びに満ちている。
男は軽微な被虐趣味だった。強引で少々無理矢理な交合を好む。本人がそう言っていたのでミルの独りよがりではない。
ミルは男の後頭部と項に手をあてがい腰を動かす。泡立つようなくぐもった音が熱い口の中から漏れてくる。
口内は阿るようにゆったり収縮して、竿に張り付いた舌は脱力している。それがまたどうにも使い勝手がよく、和らいでいる舌を竿で擦り付けながら喉の入り口のカーブを突く。その度に均整のとれた身体が引き攣り震えて喉奥がきつく締まり、笠が刺激され心地よい。
加虐にそう敏感に反応されるとミルに嗜虐の気はないというのに昂ってくる。そういう風に心身を作り替えられて行くようで怖くもあるがそれ以上に快楽を追う好奇の方が勝る。
「マスターの口、どろどろで熱くて、引き締まって気持ちいい。感じてるみたいだし、もうこれ口じゃなくてまんこじゃん。どんだけ淫乱」
「んっ、ふぅ……ん」
わざと安っぽい揶揄で煽ってやれば甘ったるい喘ぎを漏らし、マスターの下半身がゆるりと揺れる。内腿が切なげに擦り合わされて引き締まった腰がしなやかにうねる。彼のスラックスの中のぐちゃぐちゃどろどろな惨状を想像するとミルの全身に毒が回るように激ってくる。
屹立を抜くと口からはふはふと獣のような息を吐き、奥目指して突き入れると鼻から漏れる空気がミルの恥毛を揺らす。
上目遣いに注がれる視線は夢見るようにぼやけて潤んで、精緻も美しさも過ぎればひどく淫猥になってしまうのだとミルは知る。
「はぁ、エロいなぁ……」なにか美味い物を飲み食いしている時もそうした顔をするので気が休まらない。「そういう顔、こういう時だけにして欲しいんだけど」
「ほういうほひしはしへないえふ」
こういう時しかしてないです、と頬張ったまま主張され、振動にもみくちゃにされて果てそうになる。
「しっ、してるんだよぉ！ いつでもぉ！」
ミルは奥歯を噛んで流れに耐えて、仕返しにぐいと奥まで陰茎を差し込んでやる。ぐぽ、という空気を掻き混ぜる音が喉奥から弾けて、マスターの身体が一際強張る。
「ふッ、ん……ぉ゛」
おそらく絶頂したのであろう。
撓った背ががくがく震えて、瞑目寸前まで細めた目から溢れた涙がとろりと色濃い肌を撫でる。
「喉突かれて泣きながらイくのヤバすぎでしょ」
強引に使われてあまつさえ口内で感じるなんて、一体どこの誰とどんな性行為をしてきたのだか。
マスターの手が肉体に染み渡る興奮を鎮めるかのように彼自身の下腹と腰骨を撫でて、そのまま胸まで上りミルの身体に伸びてくる。内腿を蜘蛛のように指が這い回り、掻痒とくすぐったさ、快感の境界を行き来する。
溜め続けた射精感が限界を迎えつつあって、ミルの腰の動きと吐息が疾く小刻みになってくる。
「出していい？」
マスターは頷くように瞑目して中をきゅうと締めつけミルを捉える。両手は自身の顎の下に受け皿代わりに揃えて差し出す。口淫の終わりには衣服を汚さないようにこのポーズを取るのが彼の決まりで、しかしミルには理由如何を問わずそれが媚態にしか見えない。
「えっろいな、ほんと……！」
ミルは掠れた声で喘ぎながら下肢に迸る無駄な力に踵を浮かせ、精汁を昂揚にぬめる口内に吐き出した。
マスターはぎゅうと喉から舌先まで陰茎に吸い付かせ、尿道に残る残滓まで貪欲に食らいつく。
「うあっ、あぁ、ん……」
腰骨から持っていかれそうな激甚な快感に情けない声を出し、ミルは萎えた性器をずるりと引き抜いた。マスターの唇とミルの性器の間が刹那、粘液の橋で繋がり、そしてそれは撓んで彼の掌に落ちた。
マスターは恥ずかし気もなく大口を開け、中に溜め込んだミルの欲液を見せつける。
「はぁ……っ、んあ」
血の巡りのよい真っ赤な口内にしつこく絡みつく白濁。何か言いたげに蠢く舌がそれを撹拌して非常にいやらしい。そしてマスターは口を閉じ、喉を反らしてわざとらしい嚥下に蠕動する様を見せつけてくる。