大司教のいとも絢爛なる霊感 - 2/6

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと言ってだな……まあ意味は知らないがとりあえずあの事は気にするなという事だろう」
 言葉こそぞんざいであったが、優しく抱きしめられて頭を撫でられるとタベルナはなんだか慰められたような気分になってくる。
 ああ、これが好きの効力なのかしら。
 タベルナは珍しく甘い事を思い浮かべながら大司教の胸元で囁いた。
「すきです」
 それは緋色の炎に飲まれてしまうかと思われたが、きちんと大司教に届いていた。
「それは真か」
「礼拝の間、わたしが猊下を見ていたのは事実です」
「うわー、やっぱりずっと見てたのか。変態だな。これは余の勝利だと言わざるを得ない」
 勝利宣言をする大司教をタベルナが非難する。
「猊下もずっとわたしを見ていらっしゃったじゃありませんか」
「見られていた事を知っているのは、お前も余をずっと見ていたからだろう」
 タベルナは大司教の子供のような物言いに微笑みながら、その心の内を伝えた。
「もし猊下がどうしても勝ち負けに拘られるのでしたら、わたしが負けでいいです」
「そうか。争いは程度の同じ者の間でしか勃発しないと言うが、本当らしいな」
「わたしは猊下ほど高貴ではないですからね」
「だから争いは起こらん。お前はすぐに負けを選ぶ。お前には興味のない争いなんだろうな。だとしたらお前の方がよほど高貴ぶった鼻持ちならない奴だ。本当に」
 言葉の厭味っぽさとは裏腹に、大司教は珍しく穏やかに微笑んだ。
 いつもそういう顔をしていればいいのに、と思いながらタベルナは吸い寄せられるようにその顔に手を伸ばす。
 それが間違いだった。
 大司教はたちまちのうちにぐわしとタベルナの細い手首を掴み、穏やかなそれを一瞬にして凄味のある悪魔のような表情に変えて言い放った。
「ならこうしてもよかろう!」
「えっ」
 大司教はあれよあれよという間にタベルナを長椅子に押し倒し、その服に手をかけた。
「うえぇっ、ええっ? な、なんで!?」
 今まで穏やかに話していたのになにがどうしてこうなる!
 タベルナは驚きに目を白黒とさせるしかない。
「お前は馬鹿だな。少ししおらしくしただけでころりと来るとは! 所詮はおぼこい小娘だ。ん、いや青二才か」
 大司教のあまりの海千山千具合にタベルナは絶望した。
「ひどい……」
 そして必死に開かれそうになる胸元を両手でかきあわせた。
「手をどけろ。勝者はすべてをかっさらっていくものなのだ。そういう歌があるだろう」
「し、知りません! や、やだっ、だれかたすけて」
 助けを求めつつもタベルナの声はどこか抑え気味で、誰かにこの行為を見つけられる羞恥と大司教に襲われる恐ろしさが鬩ぎあっていた。ここは教会なのだし、せめて何か都合のいい奇跡が起こらないだろうか、などと思いながら。
「助けを呼んでも無駄だ、神さえ聞いていない」
 タベルナの首元のスカーフが解かれ、大司教の唇が滑らかで真っ白な首筋に触れた時……。
「オランジェットか」
 大司教はタベルナの身体から漂う甘い香りを嗅ぎ取ったのか、ふと顔を上げた。
「ええ」
 神は果たして聞いていたのだ。おそらく大司教の言う所の唯一の神ではなく、おっとりした竈の処女神だろうが。
「よくお分かりになりましたね」
 タベルナは胸元をおさえながら起き上がると、外套の胸ポケットから臙脂のリボンをかけた小さな橙色の箱を取り出した。
「わたしこれを猊下に……」
「礼は食べてからいう事にする」
 大司教はそれを手渡されるよりも先に奪い取り、無造作にリボンを外して箱を開けた。
「あー……」
 タベルナは有難味もなく雑に箱を開けられた事に憮然とし、糾弾する機会を逸した。
「何だその顔は。余のために作ったのだろ。文字通り血の滲む努力の末に」
 箱の中の薄紙に上品に収まっている数個のオランジェットと包帯を巻いたタベルナの親指を交互に見て、大司教はにやりと笑った。
「そうですが……」
 きちんと話をして心の準備をしてから渡そうと思っていたのに、これでは風情も何もない。
「ならいいだろう。センチメンタルな奴だ」
 大司教はオランジェットを一つ摘まんで薄明かりに翳した。
 薄く輪切りにしたオレンジの半分にチョコレートがかけられており、まるで。
「泥道に漬かった車輪だ」
「ひどい……」
 身も蓋もない例えを述べた後、大司教はそれを食べた。真珠のように真っ白い歯でその半分を千切り、口に含んで咀嚼する。
 口の中にはまずチョコレートの苦味が広がって、けれどすぐにそれをオレンジの酸味と砂糖の甘味が洗い流す。そして最後に残るのは清涼感のある酸味なのだ。
 タベルナは大司教の舌の上で繰り広げられるその味のうつろいが手に取るように分かる。何かを食べている時の大司教の表情は雄弁だ。先ほどのような嘘がない。
 だからどんなに悪し様に扱われようとも、ただ食事を消費するだけで何の感慨も得てはくれないような人物に食べられるよりは、そう、彼のような人に貶されながらも食べてもらいたいのだ。
「貶したわけじゃない。からかっただけだ」大司教はその味わいに目を細めて深く息を吐くと、ぼうっとしているタベルナを見て言った。「うまかった」
 うまかった、と言う声の、表情の、何と妙なる事だろう。どんな名匠の作った楽器の音色だって、どんな着飾った貴族のポートレイトだって、これには及ばないのだ。
「わたし、わたしやっぱり食べてもらいたいのだわ、猊下に」
 タベルナは紅潮した顔を俯けてぽつりと呟いた。少し手順は狂ったが、それが確認出来てよかった。
「そうかそうか、今更だがそれはよかった。じゃ、戴くとしよう」
 大司教はここぞとばかりにまたタベルナを押し倒し、彼女を見下ろす。
「えっ、なんですか」
「だから食べて欲しいんだろ。お望み通りにしようじゃないか、お嬢さん」
 ほんのりと赤かったタベルナの顔は一瞬でその熱が引き、今度は真っ青になった。
「ち、違います、その食べるじゃなくて……」
「チョコレート菓子なんて持ってくる方が悪い」
「意味がわかりませんよっ」
 身体にかかる大司教のどっしりとした重圧にもがくタベルナ。
「お前はチョコレートの効能を知らないんだな。料理長殿としたことが、勉強不足だな」
 その耳元で甘ったるいが心地よい声が弾ける。まるでオランジェットのような味わいの声が。
「あ……」
 その声は耳を打ち首筋から脊柱を駆け抜け腰が甘く痺れる。顔はきっと蕩けかかっているに違いない。そしてこのまま自身の持てるすべてを捧げそうになってしまう。そうしろと威厳のある声で命令される前に。
「オランジェットは実に美味だった。さて、お前の味はいかほどか」
 顎を優しく手で支えられ、大司教の顔が近づく。
 ああ、このままでは駄目になる。
 タベルナは歯を食いしばって思考を切り替え、大司教の固い胸板を押し返した。
「わたしは食べ物ではありませんっ! 誰か助けてー」
「助けを呼んでも無駄だ、神さえ見ていない」
 そうでもなかった。
 大司教がそう高らかに言い放った瞬間、がらりと懺悔室の扉が開いた。
 神の助け! 天は人をそう易々とは見捨てないのだ。そして大司教に仕事をしろと言っているのだ。
 タベルナは見えざる何かに感謝した。
 大司教はつまらなさそうにため息をつき、顔の高さにある小さな格子つきの窓越しに相手に語りかけた。
「何か悔いてる事があるなら簡潔に! そして懺悔が反社会的行為を含むものだとしても私と私の神は機嫌が良ければ多分あなたを許すだろう!」
 そして不機嫌そうな口にオランジェットを放り込んだ。
 タベルナはきっちりと服装の乱れを直すと、質素な外套を羽織りながら大司教を横目で窺った。
 大司教は割と親身そうに悩める子羊に話をするよう促し、タベルナにはそれが少々驚きだった。大司教の事だから、相手に一言も喋らせずに叩きだすのかと思っていたのだ。
 お茶請けよろしくオランジェットを食べながら話を聞くのはどうかとは一かけらほど思うが、しかしその横顔は真摯で、タベルナはうっとりとしてしまう。
 これにうっとりとしない人間はおそらくいないだろうし、きっと彼を見れば誰だって神の存在を信じるに違いない。優しく語り掛けられれば何でも話してしまうだろうし、命令されればその足の前に身を投げ出し何でも与えてしまうだろう……。
 そこまで考えてからタベルナは懺悔室から逃げるという当初の目的を忘れかけている事に気付き、そのセンチメンタルな考えを追い払った。折角神の与えたもうた好機を逃しては、それこそ罰当たりというものである。
 それ以上に他人の懺悔を聞くのは、それすなわち自分を十字架にかけるようなものだ。今度はタベルナが他人の懺悔を聞いた事について懺悔をしなければならなくなる。ミダス王の理髪師と同じように、一生それを隠し通すことは出来ないだろう。所詮凡人なのだ。
 タベルナは大司教に軽く会釈をして懺悔室の扉に手をかけた。それに気付いた大司教は少し残念そうな顔をする。そんな表情をされると、押し倒されるのは厭とはいえ妙に心がざわつく。
 帰ります、と声を出さずに想い人に伝えながら、タベルナは上着のポケットから取り出した次の饗宴のメニュー表を彼に手渡した。
 大司教はそれにちらと目を落とすと、満足そうに頷き、人差し指を立ててゆっくりと天を指した。
 象徴的かつ神秘的な所作に一瞬心を奪われ、しかしタベルナはその意味を測り兼ねて首を傾げるが、すぐにその意味する所はわかった。
 教会全体を振るわせるような荘厳な音色のカリヨンベルがタベルナの頭上で聖歌をかき鳴らした。

 小心な凡人は懺悔を聞きたがりはしない。
 しかし時に底の浅い悪意を持つどうしようもない小さき人間はそれを好む。オクタビウスも例外ではなかった。
「神はあなたをきっと許すでしょう」
 と尤もらしく言ってやれば、大抵の人間は安心したような顔をする。
 何故そう易々と他人の言う事を信じるのだか。聖職者だからと思って、阿呆な奴等。
 オクタビウスは常々そう思う。
 この上なく滅私の者もいるのだろうが、所詮自分の中身は詐欺師の域を出ないのだ。社会通念上仕方なくこうなったというだけで、そうでなければ尻に火のついた猫のように馬車の前に飛び出して日銭を稼ぐ当たり屋が適職だっただろう。運動神経はまあまあだし、身体も頑丈だ。
 あるいは……。