正夢の彼女 - 6/6

 イザドラがふと目を開けると、燭台の蝋燭はもう燃え尽きて、部屋を照らすのは円熟したテンポで踊る暖炉の炎だけだった。
 目の前には横たわる夫の大きな背があって、彼女は夫の荒い熱の残る背に頬を当てて囁いた。
「夢ではありませんでしたのね」
 しかし身体は夢見心地にぼうっとしていた。これも夢なのだとしたら、あまりにも恐ろしくて甘い。
「だからそう言ったじゃないか。だのに君は」
 夫はイザドラの方へ身体を向けて、疲れたような、呆れたような声で言った。
「でもあんまりにも現実味がなかったのですもの。馬車の着いた音も出迎えの声も聞こえなかったし、あなた外套も帽子もつけたまま寝室にいらっしゃったのよ」
「馬車は屋敷の近くで降りたんだ。玄関に着けさせたらうるさいだろう。それに忘れたのかね、使用人の殆どは新年の暇をやっている」
「あら、まあそうでしたわ。けれどどうしてわざわざ近くからとはいえこの雪を歩いてらしたの」
「君が寝ていたらと。しかし眠っていたとしても、君の顔をすぐにでも見たかったから私は……」
 イザドラは微笑んだ。
「外套も脱がずに寝室に」
「うむ」
 喜色満面の妻から夫は目を逸らした。
「それは分かりましたけれど、夢だと思った理由はそれだけじゃあないわ。あなた妙に軽薄な素振りを見せてわたくしを誘いましたのよ」
「いや、あれは、君の気に中てられたというか……久しぶりに会ったような気がしたから」
「本当に久しぶりだったわ。署に行ったのがもうずっと昔の事のようよ」
 急にあの寂しさを思い出して、イザドラは夫に縋り付いた。
「何を言っているんだね。つい半日前の事じゃないか」
 やれやれ、と夫はイザドラを抱きしめて撫でた。
「そうだったかしら。でも去年の事のようだわ」
「確かに去年の事ではあるな」
 夫の視線を追い、同じようにマントルピースの置時計を見れば時刻はすでに十二時を回って一時に近づいていた。
「まあ、わたくし達お淫らをして年を越しましたのね」
 いい一年になりそう、とイザドラは含み笑いを漏らした。それに気づいたのか、夫は釘を刺すかのように彼女に言った。
「こんなに酷い年越しは初めてだ」
「酷く善かったという事でしょう。なにはともあれわたくし達、二人一緒に新年を迎えられたんですのよ。結婚して初めての新年を。それっていい事だわ」
「それで、結局君が言いたいのは私の態度のせいで夢だと思ったという事かね」
 夫は妻の言葉に同調せず、というより言葉は詰問調を帯びて来ていたが、誰もが震えあがるその顔も声も、イザドラにはまったく何の障害にもならない。彼女は彼が本気で妻に怒りを覚えたりしない事を知っていた。
「それに一番は、何でも思う通りになったから」
 なら夢だと勘違いしても仕方ないでしょう、とイザドラは続けたが、夫の怒声はその声を軽く凌駕していた。
「いつだって君は思い通りにしているだろう! 夢の中でだけではなく! 君は私と淫らな事をしたいと願えば、どれだけ私が言い聞かせようと仕事場に襲撃しさえする」
「でも自分の思う通りに他人は動かないでしょう。だというのに、苛めて欲しいと願ったらあなたわたくしをそうしたわ!」
 イザドラの声だって負けてはいない。常ならばそれに対して更なる大声が飛んでくるのだが、しかし夫の声は地に墜落した。
「それは……表情を見れば分かる。君が大体何を望んでいるかは」
 仕方なくやったかのような自己弁護を声色から感じて、イザドラは少しくさくさして意地悪く言い返した。
「他人の顔を見れば何でも分かりますのね。さすがは伊達に五十年警察やってらっしゃらないわ」
「三十年だ」夫は眉を顰めた。「私はそんなに年寄りじゃない」
「あら、でもブリュノさんいつも自分は歳だとおっしゃるわ。だからわたくしとあまりお淫らしたくないって」
 イザドラは夫の腕の中から抜け出し、寝台に俯せたまま肘をついて顔を上げた。隣で怠惰に横になっている男を睨みつけてやるが、慣れない表情はまったく相手に通じていないようだった。
「それに本当にわたくしの望みが分かるなら、どうしてわたくしの処女を奪わなかったんですの」
 迫力のない顔で睨むよりも、直接的な表現の方が夫を揺さぶるのには効果的だったらしい。
「しょ、処女って、君は少し慎みたまえ。それに、それは……」
 夫のしどろもどろな様子は十分にイザドラの溜飲を下げさせた。けれど駄目押しは必要だろう。
「わたくしまだ処女だってお友達に言ってもいいかしら」
「い、いや駄目だ駄目に決まってるだろう」
「据え膳くわぬは警視総監の恥と言いますのよ」
「言わない!」
「わたくしの国では言うわ」
「私はそんなの国として認めない。よしんば国だとしても悪の枢軸国だそんなのは。法と秩序を乱すこの国の敵」
 イザドラは夫の上に圧し掛かり俯せに押し倒した。夫の顔がかっと赤くなる。
「ではそんな悪の元首と好んで結婚したのはだあれ」
 極悪呼ばわりされては昂らずにはいられない。怒りというよりは淫らな昂りだが。腰の奥に頽廃的な悪徳の火種が灯るのが分かる。心臓は武者震いして、次の開戦のラッパが鳴るのを待っている。
「だから、君はもう少し……」
 淑女らしく慎んだらどうか、と言おうとしたのだろうが、それがボムケッチの出撃の合図になるとでも思ったのか――実際その通りなのだが――夫は寸前で言葉を変えたようだった。
「私に何かいう事はないのかね」
 枕に押し付けられた夫の横顔は努めて厳しくあろうとしているように見えた。そんな努力は無駄だというのに。
「謝れとおっしゃるの。ならやあよ。悪いと思っていないもの、謝らないわ。それに謝って済むなら警察はいらないでしょう」
 イザドラは先の夫の言葉の趣を変えて返してやった。つまり彼が言ったのはそういう事だと道徳観念がいくばくか欠如した彼女は思ったのだ。
「わたくしのような極悪人が跋扈するこの国には警察が必要よ。そしてわたくしにはあなたが必要」
 そんな自分の言葉に自分で高揚してしまう。
 イザドラは夫に軽く口付けた。唇を離すと、彼は悔しそうな表情の中に愛情を滲ませているようだった。
「イザドラ……」
 出撃の合図は誹謗ではなく、ただその名前を夫の低い声で呼ばれるだけで十分なのだ。
 もう一度夫に挑みかかろうとしたイザドラは、しかしその夫の腰に一つの愛の言葉を見出して浮かせた腰の行き場を失った。
 本当に、彼は妻の望みを何でも分かっているようだった。
 でなければ、自らの皮膚を羊皮紙代わりに、妻に一つの愛の言葉を贈ろうなんて思うだろうか。
 思いついた時にはさぞ、なんという名案! と膝を打った事だろう。見たか小娘、私は伊達に警察を三十年やってないのだよ! とさえ。それを思うとイザドラは少し悔しい気持ちになるが、これは確かに名案で、先に贈った愛の言葉の返答に一番相応しい方法であるように思った。
 夫の腰のそれは鏡文字となっているが、鏡がなくたってイザドラには十分判別できる。ラテン語というのがまた実に厭らしい。ここの皮だけ切り取って乾かして額縁に入れて驚異の部屋に飾ってやろうかとさえ思うくらいに。
 だからこちらも精一杯厭らしく返すのだ。
「ブリュノさん、あなたの字、少しばかり躍って個性的ね」
 とはいえ、それは硬い身体を鏡の前で捻りながら書いたにしては随分整ったベネチア風書体の洒落た文字だった。
「今度ゴシック書体を教えてあげます。修道士の文字があなたには似合いますのよ」
 ただ、アクサンが一つ足りない事には言及しないでおいた。
 夫はそんなイザドラの厭味には何も言わず、ただ目を細めて満足げな息を吐いた。
 なんだかいやだわ、と、してやられた気分になりながらイザドラは夫の背の文字をゆっくりとなぞりながら優しく溜息をついた。
「ねえ、わたくしの望みが何でも見透かせるのはよく分かりましたわ。では次にどうしたらいいかもお分かりになるでしょう」
 そう言ってやれば夫は顔を朱に染めながらもゆっくりと膝を立て、腰を掲げた。
 夢ではないのに何でも思う通りになる。これってまるで。
「正夢だわ」
 夢は見るものではない。叶えるものなのだ。
 そしてイザドラは錨を上げた。

正夢の彼女 おわり