at the cafe - 2/2

 淹れたてのコク深い色にまろやかな白が混ざり込む。そしてその上にたっぷりと乗せられるホイップクリーム。
 いつものでいんですよね、と雑に言われて出てくるのがこれだ。
 カウンターに置かれたカップを持ち上げて、狩野はまず薫りを愉しむ。匂いまで悪かったら最悪だ。そしてつるりと滑らかなカップの縁に唇をつける。
「どーっすか」
 と、カウンターの中の店員——斗南みるく——から聞かれ、狩野は忌憚なく答える。
「コーヒーの味がする」
 コーヒーにミルクは合口。どんなにベースの味が劣ろうともそれなりに飲めるようになる。
「やったー」
 斗南は客の言葉を素直に受け取ったようだ。見た目は擦れているのに中身はまるで子供。
 うっすら向こう傷の残る顔に、脱色したツーブロックのベリーショート。言葉遣いも客商売にそぐわしくない時が多々あって、全体的に治安の悪そうな雰囲気だ。レトロな純喫茶向きの人間ではない。
 なにが良くてここのマスターはこんなのを引っ掛けたのか。前から好きだったとは聞いていたが、まずもってその感覚が狩野にはよくわからなかった。好きに前も先もない。ただ求めた瞬間に求めたものがもたらされるか否かだ。それは大抵において性的な充足である。
「あとクリームソーダとミネストローネとエビピラフとタマゴサンドね。全部一緒に出して」
「その注文意地悪すぎる。マスターいないと無理っす」
「みるくちゃんのがんばってるところ、見たいな」
 アイスクリームとミネストローネはマスターが仕込んでおいているだろうし、果物は缶詰、魚介類は冷凍だ。実質彼女がする事といえば、乗せて、温めて、焼いて、炒めて、挟んで、切る程度。
「名前で呼ぶのやめてっていつも言ってんですけど」
 斗南は名前で呼ばれるのを非常に嫌がる。見た目にそぐわしくない名前を恥じているようだ。案外と繊細な面もある。
「あれ、みるくちゃんって呼んでた? ごめんね、みるくちゃん。僕、歳だからすぐ忘れちゃうの」
「絶対わざとじゃん」
「マスターだって君の事たまにみるくさんって呼んでるよ」
「マスターは天然だから仕方ないっす。この前も回転ドアから出れなくてずっとぐるぐるしてたし」
「ドア使えないとか馬鹿じゃないの」
 斗南はそうせせら嗤う狩野を見て鼻の付け根に皺を寄せる。
「バカじゃないし。かわいいし」
「なるほど。使えそうだねえ。僕も今度やってみる」
「真似して天然やってもバレるっしょ」
「そうでもないんだよねえ。これが」
「うそだあ」
 人畜無害のふりは物心ついた時から板についている。何故か斗南には擬装だと見破られたが。野生の勘だろうか。動物には好かれないので、その線はあり得る。
「ところで」冷蔵庫から卵を取り出しながら何気ない風を装って飛んでくる質問。「なんでマスターと兄弟なのに名字違うんすか」
 あ、奴らとうとう一線を越えたな。
 狩野はコーヒーカップで口元を隠して声なく笑う。
 そうでなければ斗南が生身の人間に興味を持つなんてそうそうない。彼女はバイクと、それにまつわる用品と、それらを十分に維持できる小遣いくらいにしか熱意を持てない人物なのだ。最近はそれに少しだけコーヒーの淹れ方や料理の作り方が混じり込んできた程度。それが狩野とその弟である湊の関係について探りを入れてくるまでになるとは、なし崩し的に肉体関係になったか、あの湊に古式ゆかしく告白でもされたか、そのどちらかだ。もしくはその両方。
「え、名字なんて違ったかしらん」隠しきれない笑いが言葉尻に浮かぶ。
「天然のふりしてもったいつけるのやめてもらえますー?」
 悪態つきながらも斗南はボウルに卵を割り入れ、雑に調味料を振りかける。話をしていても手が止まらないのだけは感心する。
「人には色々あるの。ふたりのロッテみたいなものだと思って」
「親が離婚して別々に連れてかれたってこと?」
「よく知ってるね。すごいすごい」
「マスターと図書館に行って、マスターおすすめの本よく借りるんで。それで読んだから」
 いい大人がつまんねーデートしやがってよ。と狩野は腹の中でせせら笑う。
「マスターにすすめられて本読むようになってから、教科書読むのつらくなくなってきたんすよ」
 近頃斗南は湊の勧めで通信高校に籍を置いている。これまで文字すらまともに読んでこなかった者が教科書に向き合って自学するのは苦労する。しかし独立心と反骨心旺盛な斗南はそこまで気にかけて世話してやらなけらばならないような人間ではない。ただ湊は生来の世話好きから、なにくれとなく助けてやっているようである。
 そんな世話好きも、行き過ぎれば何でも自分の問題として抱え込む性質となるわけで、そのせいで湊は前職で超過勤務を連発し、精神の平静を欠いて突然辞職した。
 その後どういう転機があったか知らないが狩野にくっついてスポーツクラブに来るようになったり、何故か日焼けサロンに通い出したりして、結局ここのマスターに収まった。元から料理は得意だったし、人当たりはいいので天職だろう。この仕事を湊に紹介したのは狩野なので、上手い事やれているようで何よりだ。狩野自身もこうして職場近くで昼食を食べる場所を確保できた。
「はいどーぞ」
 思ったよりも早く注文の品々が並べられる。味と見た目はそこそこだが、ランチタイムにこの早さで提供できるのは上々。曲芸だか大道芸だかをやっていただけあって、斗南の運動機能的な筋は悪くない。
 湊が夜営業も始めると言い出した時は、また無理をしてと思ったが、こうしてまあまあ物覚えよく、従順で、湊をほどほどに好いている従業員がいるなら安心できる。
「で、えっちしたの」
「えっ」
「僕の弟と」
「おぁあ、な、なんでそんな事答えないといけない!?」
 斗南は猫のような目をぎょん! と見開く。
「あ、したんだあ。してないならしてないって普通否定するもんねえ」
「はっ、じゃあ、してない!」
「したんだあ」狩野はクリームソーダの上のアイスとサクランボを口に含む。他人を揶揄しながらの食事はこれ以上ないほど美味い。
「マスターに言いつけるから、オーナーにセクハラされたって」
 それは勘弁して欲しかった。湊はあれでいて直情径行で執念深い。
 この前も斗南の帰宅が遅いと泣きそうな声で夜に電話をかけてくるものだから、なら警察に通報すれば、と狩野が冗談で返したところ、恐慌状態の湊は本当にそうした。成人した大人相手に正気ではない。湊は唯一の従業員に関する事柄に関してだけは理性と倫理と道徳の手綱が引けなくなるらしい。
 斗南を雇った時も、絶対神かけて手を出したり色目を使うなと尋常でない狂った目付きで脅された。そういう毅然とした狂気は元の職場で出すべきだったと思う。
「弟に言うのはやめてほしいなあ」狩野は人の良さそうな顔に柔らかな笑顔を被せて首を傾げてみる。「みるくちゃんの為にもならないよ」
「じゃあそっちが先にセクハラやめればいいじゃんか。あと名前で呼ぶのも」が、斗南には狩野の魅了は効果がない。そういう点で湊のお守りには向いている。多少の色気や恫喝では自分の意思を曲げない。オーナー相手でも物怖じしない。悪質で面倒な客は一も二もなく毅然と追い返す。
「弟の面倒一生見てくれるなら、もうこういう事言わない。名前も呼ばない」
 いかな唯我独尊な狩野とはいえ弟の事は多少気にかけている。なんの因果か同じ日に生まれ、血を分けた、この世で一番近しい他人だ。
「面倒見てもらってるの、こっちの方なんですけど。ペットみたいに」
「じゃあ一生面倒みてもらって。それがあれの生き甲斐だから」
「マスターがあたしに愛想尽かすまではいるつもりだよ」
 さあそんな日は果たして来ないだろう。
 一度混ざり合ったコーヒーと生クリームが分離する事があるだろうか。
「ないねえ」
 狩野は厚焼き卵の挟まったサンドイッチを齧り、予想よりも得点の高い味わいに目を細める。
「双子なのに全然似てないと思ってたけど、そーゆー顔はちょっと似てるんすね」
 斗南はうろうろと視線を彷徨わせた後、キッチンに置いてあるザクロジュースを一気に飲み干した。狩野に想い人の影を見て欲情でもしたか。そうだとしたら少しは可愛い所もある。
 弟とは長らく別々に育てられたから、似ているのなんてほんの一瞬の表情くらいなものだ。自分はそこまで愛情深くも偏執的でもない、いい意味でも悪い意味でも、と狩野は乾いた笑みを浮かべた。
「あっ、マスターそういうクソ意地悪そうな顔はしないんで、やめてもらっていっすか。脳内のマスターが穢れるんで」
 少なくともこういう口さがなく失礼な、弟の持ち物には執着しない。
 もし心動かされるものがあったとしたらそれは、サントーレが描く挿絵のような、透き通るように綺麗な、お姫様のような——