青髭公の盾 - 1/6

「次は軽い鈍器」
 どん! という鈍い音と共に薄桃色の肌が震えて凹む。
「あまりよくないわ」
 バランタンもその声に同感だった。だから木製のシャムロックをテーブルに戻し、隣の銀のスプリンクラーメイスを手に取った。安心する重さで手に馴染む。長さも絶妙で取り回しもいい。
「ではこれではどうだ」
 バランタンはそれをテーブルにしどけなく横たわる豚に思い切り叩きつけた。それがもし生きていれば、噴水のように盛大に血が噴き出たことだろう。しかし他の部分につけられた切創と同様に、その裂創は凝った血を浮き出させただけだった。
「それであなたに叩かれる人は可愛そうね。生かさず殺さずというのはもっとも残虐で野蛮だわ」
 残虐で野蛮な青髭公の奥方は、豚の死骸の傷口を優しく癒すように撫でながらそう呟いた。彼女に撫でられれば神の子でなくとも三日目の日曜には蘇りそうに思える。例え城壁に吊られるようなどんな罪人悪人だとて。そして悪鬼と謗られる己でさえ。
 バランタンの背の挫創の一本一本が淫蕩に疼く。きっと自分の背を撫でる時もその手は豚を撫でるように優しいのだろうと思っての事だ。
 どうか今、触れてもらえはしまいだろうか。バランタンの気持ちは一気に目の前の仕事から妻の方へと傾く。
 しかしそんな甘えた考えが奥方に悟られないようにバランタンは無表情を貫いて妻であるクロードに目をやった。クロードは熱っぽく潤んだ目をして豚を見ている。
「私が怖いか。残虐で野蛮な」
「いいえ。残虐で野蛮、つまりそれが一番いいという事です」
 それかそうね、斧もいいかしら。と、クロードの手が大きく深い割創で止まった。
 華奢でカトラリー以外は持った事のなさそうな、文字通りの“細君”ながらよくわかっている。斧がいいだなんて。バランタンはクロードの慧眼に帽子を脱ぎ去りたい気分になる。
「お前に何が分かる。騎士の事も何も知らぬお前に」
 けれど出てきた言葉は妻を否定するもので、口をついてそれが出てしまってからバランタンは慌てて横目で妻を窺った。傷ついた顔でもされていたら厄介だった。自分が悪いような気分になる。事実酷い言葉を投げてしまったが。
 しかしクロードはそんなバランタンの言葉にも豚を見つめたまま鷹揚に微笑んでいて、そしてその笑顔は見る間に艶やかなものに変わった。
 理由はすぐにわかった。
 豚の痛々しい割創の外周に当てられたクロードの人差し指と中指が、その大きく粗野な傷口を割り開いていた。半固形の赤い血肉が溢れてクロードの白い指を汚す。
 バランタンのどっしりとした腰が急激に熱くなった。
 本当はクロードと共に城の地下の武器庫に来るつもりはなかった。妻にこうした所を見せたくはなかったのだ。いくら死んでいるとはいえ豚に武器を振り下ろす所など。失神でもされたら面倒だ。
 だが失神だの何だのそんな事を心配する必要はなかったようだ。クロードはバランタンが思っているよりもずっと野蛮だった。それどころか、奥方の美しさはバランタンが残虐さを揮発させる程にいやましに色づくようだ。武器を振り下ろす度に、真っ赤な唇が妖艶な微笑みに歪んで実に淫らなのだ。
「そうですね、わたくしには何もわかりません」
 クロードはゆっくりと頭をバランタンの方へ巡らせた。端正で柔和な顔はどこか妖しく歪だ。
「けれどあなたの事なら少しは知っているつもりです。試合で斧を使うなんて騎士らしくはないけれど、そういえばあなた騎士ではありませんものね」
「確かに私は騎士ではない」
 バランタンは騎士道精神など持ち合わせてはいなかった。どちらかというと、健全な肉体に邪悪な精神の宿った悪代官なのだ。そう、残忍で冷酷な……。
「ええ、領主様ですもの。自分の領地ではなべてあなたの思う通りになさればいいの。あなたが法であなたが主。好きな得物で、命知らずにも立ち向かってくる騎士達を薙ぎ払って落馬させるのです」
「私は槍試合には出ないがな」
「まあそうですの」
「あんな形式ばった事をして満足するのは鉄頭だけだ」
 バランタンは理想と美徳を追及する騎士ではない。それ故に彼にはそういった類の人間が必要だった。
 だから来週の秋の収穫を祝う祭りと日を同じくして馬上槍試合を催す事に決めたのだ。そうすれば津々浦々から仕える者を持たない騎士が集まる事は必至。そこから手ごろな者を引き抜き雇用しようという算段だった。
 近頃はなかなかアンボワーズの方の雲行きも怪しいようで、こちらまでそれが飛び火してきては敵わない。そうした厄介ごとに備えて、ある程度の玄人を探しているのだ。
 しかし傭兵では分に不足だ。なにせ金だけで動く野蛮な奴等だ。いつ裏切るとも分からないし、城下の治安が悪くなっては元も子もない。そして略奪と色を好む者も多い。そうなると心配なのは自分の妻だ。たおやかで珠のようなこのうら若い妻がどうにかされては困る。
 一方騎士は美徳と騎士道を重んじると言われている。仕えるべき主君に忠誠を誓い、その奥方を崇拝して命に代えても守るものらしい。自身と同じ人間としてそれが事実かどうか疑わしい所ではあるが、けれどそこらの単なる男よりはまだ幾分かよかろうと考えての事だ。
 バランタンは時に思うのだ。もし万が一にも自分が命を落としたならば、誰がこの己に代わってクロードを庇護するのかと。並み居る家臣がいようとも彼らとてやはり大事なのは己の進退で、誰が爵位も領地も継げないただの寡婦を気に掛けるだろうか。
 その懸念は特に、先日大雨に降られたせいで体調を崩して床に臥せっていた時に顕著になった。使用人の誰よりも甲斐甲斐しく夫の看病をするクロードを見るにつけ、彼女の厚意と温情に報いてやりたいと柄にもなく切望してしまう。
 だからバランタンには、というよりかその妻には騎士が必要なのだ。
 幸運な事にクロードには崇拝するのには十分な性質が備わっている。その盾となり力となりたいと思う騎士の一人や二人、どこかそこら辺にいるだろう。
 それでも自分の目が黒いうちに妻に邪な想いを抱けば、騎士といえどその四肢を馬か車輪に結び付けて四方八方に引き延ばしてやろうなどとバランタンは思っていたのであったが。
「あなた今、試合に出るための武器を選んでいらっしゃるのではなくて」
「槍試合に鈍器だの斧だのを担いで出る阿呆がいるか」
 とぼけた事を言うクロードにバランタンは嘆息した。
「ではただ豚肉を処理なさるために鈍器だの斧だのを使っていらっしゃるの」
「鶏肉を捌くのに牛刀を使うわけがない。豚の死体を殴りつけているのは単なる趣味だ。それに長槍相手にこんな短い武器で食ってかかって勝ち目があると思うのか」
「でもあなたなら槍をかいくぐって鎚を相手の脇腹に叩きつけるか、あるいは馬を走らせるまでもなく斧を軽々放り投げて兜を割るでしょう」
 クロードは槍試合の何たるかがわかっていないのか、それとも秩序や規範を公然と無視して喧嘩上等をするのが公爵だとでも思っているのか、実に勝手な事を言う。
「そして、哀れ嘆きの騎士達は、地面と接吻して果てる」
 クロードは吟遊詩人が詠うような口振りでそう言うと、豚の横に置いていた写本を指でなぞった。革で装丁された表紙にクロードの指にまといついた血の汚れがうつった。
 それは騎士とは何かと問うクロードにバランタンが与えた騎士道物語の本であった。お蔭で騎士がなんたるかよくわかったと妻に言われ、最初はあながち的外れでもない贈り物だったとバランタンも胸を撫で下ろしたが、しかしそれから毎日手元から離さず貪るように読み耽られては面白くない。よもや空想の騎士に心奪われているのだろうかと心中穏やかではいられないのだ。クロード自身の手でそれを焚書にしてはくれないかと願いさえした。さもなくば本物の騎士そのものを火炙りにして心の平安とやらを保たなくてはならなくなるかもしれない。火で炙られて熱くなった鎧に閉じ込められた人間の叫びだけがこの嫉妬心を癒せるのだ。
「そこまで言うなら槍を担いで仰々しいなりをして出てやってもいい」
「頭でっかちを地面に叩き落としてくださるのね」
 あるいは騎士を名乗る奴らに敗北の恥辱を味わわせる程度で手打ちにするか。火炙り程の清涼感はないだろうが、自分の腕に討伐の確かな手応えが響くのも悪くはない。優越感もまた、粘ついた嫉妬心を漱ぎ流してくれるだろう。
「幾万の騎士だって私に手向かってくるならば落馬させてやる」
「楽しみです」
「女は普通、地面に無様に這いつくばっている公明正大な騎士とやらの方を心配するものだ」