蔦の絡みついた鉄の門扉を支える石の柱には堂々たる書体の表札がかけられている。
不用心に開け放たれた門扉の奥には青々とよく手入れされた芝生の敷かれた広大な庭。真っ白くつやつやした石畳の先に構えているのはどっしりとした洋館。
「あんたの実家めちゃくちゃ金持ちそう」暗に、お前は何故常に金欠なのだ、仕送りしてもらえ、という意味を含んでいる。
「実家と言っていいものかはわかりませんが、確かに牧島博士はかなりの資産家です」
「悪い事して儲けてるに違いない。暴いて脅して一枚噛ませてもらおう」
「自分が容易に手に入れられない物を持っている人間は悪事によってそれを手に入れたと思う性質なのですね、あなたは」
「いちいちあたしを分析するな」
石畳の果て、洋館の入り口ではちょっと高級そうな服に着替えた牧島が待っていた。先程までヘルメットに押し込まれていたのであろうふんわりした豊かな白髪は丁寧にセットされている。
「仕切り直ししよう。内藤マナさん、遠路はるばるようこそね。どうぞ入って。靴は履いたままで結構」
土足で上がった館内は天井も高く、壁はミルクチョコレートのような艶やかで高級感ある色。暗色の壁ではあるが、吹き抜けから降り注ぐ陽光のお陰で室内は穏やかに明るい。マナの予期していた、じめっとした陰鬱で何か事件の起こりそうな洋館とはまったく趣の違うものだった。
「二号、客間に案内してさしあげて。その後早速、修理といこうか」
「はい。ではマナさん」マナは差し出された機械の手にごく自然に自分の手を乗せるが、すぐに引っ込める。客の様子を見ていた牧島が一つ大袈裟に感嘆の息を吐いたためだ。俗悪な好奇心からくるものではないとは分かるのだが、それでも一挙手一投足に勝手に何か深い意味を見出されるのは好きではない。
不思議そうに首を傾げるT4-2に「一人で歩ける」と短く言い放ってからマナは、厚意と好意を自分に向けてくれていて、しかも具合の優れない相手に悪い事をしたとちょっとだけ思ったが、T4-2も「そうでしたね」とだけ言って先に階段を上って行ったので気にしていないのだろうと思う事にして後を追った。
「どうぞ、こちらの部屋をご自由にお使いください」
二階の一番奥、開け放たれた扉から見えるのは、暗い地色に絡み合った植物と鳥の図案の壁紙。それを覆い隠さんばかりに聳え立つ書棚、クローゼット。
部屋の隅々まで見回して、ふぅん、とマナは乾いた息を吐く。
「ここ絶対あんたの部屋でしょ」
「ご明察の通りです」
T4-2は何故か嬉しそうに頷く。
「牧島博士は客間に案内しろって言ってたけど」本当に他人の話を聞かない奴、とマナは横目で汎用亜人型自律特殊人形を睥睨する。
「私の部屋の方が日当たりと風通しの点で優れております」
確かにそのようだ。T4-2が窓を開け放つと心地よい風がマナの首筋を撫でる。爽やかな日の光が室内をきらきら照らして、まるで宝箱のようにも見えた。
「なによりあなたが私の寝台で私の寝具に包まれて眠るなんて浪漫がありますでしょう」
考えただけで興奮してしまいますネ! と身悶える精密機械。
「その上等な頭をそんな低俗な考えに使うのやめなさいよ」マナは悪くないなと一瞬でも思った事を後悔した。「ほんとにそういうとこ治してもらうから」
「調整については博士とよくご相談なさってください。きっと望み通りの仕上がりにしてくださいますよ。ですから、私とあなたが話すのはこれで最後かもしれません」
「どういう事」
「人格とは連続性なので、メンテナンスで私の回路に変化が生じてそれが途切れれば、私は消滅したも同然」
まったく意味が分からず考え込むマナの頭の働きを遮るようにT4-2が言葉を続ける。
「姿形は同じでも、人格の異なった私は果たして今のこの私と同一個体と言えるのでしょうか」
「あたしにそういう難しい事聞かないでくれる。あんたが昨日言ったみたいにあたしは単純なんだから」
「これは失礼」単純と言った事に対してか、単純な人物に難解な話題を振った事に対してか。
「さて、メンテナンスの前には浴室で軀を洗うべきです」
「それはそうかもね」
今日はすでに大騒ぎをしたから随分汚れている事だろうな、とマナは汎用亜人型自律特殊人形の軀を上から下まで眺める。服は少々汚れてはいるが、乱れを正したお陰で軀の汚れはどうだか分からない。
「行きましょう、マナさん」
マナは差し出されたT4-2の手と彼自身を交互に見る。
「なんであたしも」
「私の軀を洗ってくださるのでしょう」
「なんであたしが」
「それは、内藤マナさん、あなたは私をよく汚しますから」丁寧に洗ってくださいね、とT4-2は大きな掌を軀に這わせて婀娜に品をつくる。
「吐瀉物とか、あとは……」
「やめて黙って」
マナはT4-2の勾玉模様のネクタイを力任せに引っ張り恫喝する。
「嗚呼、気に入っているネクタイなのでやめて下さい」
などと言葉の上では嫌がりながらも、T4-2はマナの手を引き彼の目的地へ誘う。
振り払う事もできるだろうし、やめろ風呂くらい一人で入れ、と叱責すればT4-2は諦めるだろうが、マナに罪悪感を抱かせる余計な一言か表情仕草がついてくるに違いない。
それを考えると、しょーがないな、と諦めるのはマナの方。大人しくT4-2に引かれるままについて行く。
「いい機会です。あなたの家では二人で入浴するには困難を伴います」
「風呂場狭いもんね」
自宅の浴槽はマナ一人でも脚を伸ばして入れないくらいの狭さ。洗い場など言わずもがな。そこにこの巨大な鉄塊がいては、洗ってやるどころの話ではない。
「そうではなく、この家に比べるとあなたのお宅はささやかな広さなので、私とあなたが破廉恥な行いをしていると他のご家族にすぐに露呈してしまいます」それはお嫌でしょう、と気を遣っている風の声色を出すT4-2。
「露呈も何も、風呂場でそんなやらしい事」するわけないんだから、と続けようとしたマナは、首を傾げて肩を竦めるT4-2を見て自分の青い考えを改める。「するんだ」
その通り! とT4-2はお決まりの仕草。両の人差し指を怪電波でも送信するかのように真っ直ぐ立てる。浴室で淫らな事をするなんて浪漫がありますねェ〜、と嬉々とした様子。
「しないからね。あたしは服着たままあんたを洗うから。車みたいに。なんなら庭で洗うよ。ホースで水かけて、タワシで擦る」
「私は屋外で裸体を晒す趣味はありませんし、束子を用いるなんて嘆かわしいですね」
T4-2のボディは鎧的で服を纏わなくとも運用できる設計意図があるのだろうが、いつも服をかっちり着込んでいるが故に脱げば裸体の概念が付き纏う。
「人間社会で人間と共に用いるならば、人間らしい生活をさせるべきです」
優雅かつ上品な所作で開けられた扉の先には瀟酒な化粧室。その奥の開け放たれた磨りガラスの向こうにはなかなか広そうな浴室。
しげしげと内装を見回すマナの背にT4-2の声がかけられる。
「マナさん」振り向けばT4-2は靴を脱いで両腕を地面と水平にぱかっと広げている。「脱がせてください」
服すら一人で脱げないのかい、と悪態つきながらもマナはT4-2の目の前に立って身包み剥いでゆく。ベストを剥がし、ネクタイとベルトを引き抜き、シャツも、スラックスも色気なく脱がせる。みかんの皮を剥くようなものだ。しかし中身は瑞々しい橙色でなく、青みがかった鈍色。白い筋の代わりに黒いガーター。マナはあまりそれを見ないようにしながら毟る。
「あまり雰囲気がありませんね。いつもは情緒について口煩く仰るのに」
靴下ばかりは自分で脱ぎながら不満そうな様子を示すT4-2。
「幼児さん脱がせるのに何の雰囲気が必要なわけ」力任せに毟り取ってボロ布にしなかっただけ感謝して欲しいものである。
マナはスカートだけ脱ぎ捨てて、邪魔なブラウスの裾は捲り上げて鳩尾の辺りできつく結ぶ。男の視線が脚や身体の膨らみやくびれた部分に絡みついてくるが、気づいていないふりでやり過ごす。犯すような、もしくは崇拝するかのような不思議な眼光は、どうしてか悪い気はしないが。
草花模様の浴室のタイルは陽光を反射して艶々輝き、足を踏み入れればひんやり冷たい。
壁に引っ掛かっているシャワーは洋風だが、脚のない大きな浴槽と洗い場がある点は和風の佇まい。
「素敵でしょう。擬洋風建築の面目躍如ですね」
T4-2に教えられた通りにシャワー栓をひねると細かな粒がタイルを穿ち、マナの素足に跳ね返る。マナは温水に変わる前の冷たい水を容赦なくT4-2の膚に向ける。彼は、あん、だか、おん、だかいう喘ぎ声をあげ、身悶える。
「変な声出すな」
「あなたがいきなり冷水をかけるからです」
「身体熱いんだから冷たいくらいでいいでしょうが」
雫がくまなくT4-2の彫像のような軀を舐める。雄々しく張り出した部分はゆっくりと、優雅にくびれた部分は急峻に、細い水の流れが排水溝へと散ってゆく。
シャワーを止めるとワックス塗りたての車のようにT4-2の軀はたちどころに水を弾く。水の粒が艶やかにきらめいてマナの目が眩む。上等というか、高級というか、本当にいい造りだった。
「洗剤どこ」
「ボディソープがあります」
T4-2は作り付けの棚から花柄と流麗な書体のアルファベットが描かれているボトルを手に取る。
「牧島博士は大変いい香りだと言っていました。あなたにも気に入っていただけるといいのですが」
ボトルに顔を近づけてみると、ほのかに甘く、そして清廉な匂いがした。
「まあ、そうね、いいんじゃない」
とはいえ、一番好きな香りは石鹸や洗濯洗剤の香りだ。マナ自身も気づいてはいないが、それはT4-2がいつも纏っている匂いなのだった。
「スポンジも使ってください。柔らかくて気持ちがいいですよ」
T4-2は同じく棚に置かれた黄色くて丸いものを取り出すが、軽石のようで柔らかそうには見えない。しかしそれを洗面器に溜まった水に浸すと、たちどころにふんわりと広がる。
T4-2はまるで赤ん坊か小動物を抱くようにスポンジを優しく取り出してマナに手渡す。
「ほんとだ、柔らかいね」
マナはスポンジを力の限り握り潰し、その柔らかさを堪能する。指の間から体液のように噴き出す水分。
「私もあなたに片手で捻り潰される海面動物になりたいものです」
「気持ち悪い」
「海綿動物は美しいですよ」
「あんたを、気持ち悪いって言ったの」
スポンジにボディソープを染み渡らせて、ゆるく揉み込めばきめの細かい泡がたつ。
マナは洋菓子のような泡に包まれたスポンジをT4-2の軀に滑らせる。
「人間用のボディソープ使う意味あるの。あんたの場合洗剤の方が絶対綺麗になるでしょ」
首の蛇腹状の隙間の一つ一つにもスポンジを捩じ込んで泡を塗り込める。T4-2は心地よさげに咽喉を晒す。
「ボディソープの方が気持ちがいいです。あなたは味わい、香りを堪能します。私は触感を」
「そうか、あんた、匂いはわかんないのか」
「化学的に理解する事はできますが、ただそれだけです」
「それ以外は人並み以上なんだから、十分だよ」
マナは泡でT4-2の軀を磨く。力加減はいかがですか、などとは聞かない。あらゆる節に、あらゆる隙間に、真剣にスポンジを滑らせる。そこに淫らな行為に向かう気配はない。
「洗い方が手慣れていますね。想定した快感とは違いますが、心地よいです」
「給油所で洗車の仕事してたから。パンツ見えるか見えないかの短いスカート履いて、オレンジのシャツの胸元開けて、こうやってお腹出して」大行列だよ、と言ってみる。
「なるほど、あなたならではの付加価値をつけたというわけですね。さすがお金に真摯なだけあります。尊敬する以外にありません」
「あんた実はあたしを馬鹿にしてるよね」
マナは苛立ちまぎれにT4-2の目をスポンジで雑にごしごし擦る。T4-2は快か不快かよくわからない呻き声をあげる。たぶん雑に扱われる快感の方。
「とんでもない、私は大抵の場合において言葉通りの事しか意図しません」
本当かよ、と凄むマナに降参するように掌を向け、どうも分が悪いようなので、話題を戻します、とT4-2。
「他にはどんなお仕事を」
「下着みたいな服でベッドに横たわってるだけの簡単なお仕事」わざと勘違いしそうな言い方をしたが、実際のところは寝具店の客寄せのマネキンである。
T4-2は激しく目を瞬いて、しばし沈黙した後「確かに、あなたの寝姿を観察するのは興味深くはあります」と頷く。
「あたしじゃなくて、別に誰でもいいんだよ。見てくれが女なら。それにあんたのは観察じゃなくて監視でしょ」
マナは全身泡まみれにした鉄塊に遠慮なくシャワーを浴びせかける。水気を含んだ泡はするすると隕鉄混じりの肌を伝って流れ落ちる。
「はい、おしまい」
T4-2は水の滴る己の軀を姿見で確認して一言。
「私もあなたにお代を支払わなければいけませんね」
「それをやると途端にいかがわしい雰囲気になるよね。それにどうせその金あたしが昨日あんたにやった金でしょ」
「何故私の軀を洗って金銭の授受を行うのがいかがわしい意味を持つのですか。無償ならばいかがわしくないというのなら」T4-2はやにわに振り向き、濡れた腕でマナの腰を抱いて引き寄せる。「私との夜毎の性的な接触はいかがわしく感じてはいただけていなかったのでしょうか」
十分に感じていたし、今もいかがわしさを鋭敏に感じている。そう思っているのが相手にばれないように、マナは顰めつらしい顔を貫く。
邪な手がマナの首筋を伝い、きっちり上まで留められているブラウスのボタンを一つ一つと外してゆく。露わになる首元と、それを彩る色濃い痣。血流を追うように金属の口唇がマナの肌を辿り、痣の上で止まる。マナの身体が幽かに震える。快感の悲鳴だけはすんでの所で抑え込んだ。
「ほっそりして、滑らかで、とてもお綺麗です」
「そういう事言っていいの。外見の事」先程駄目だと牧島に厳命していたはずだ。自分の事はまったく棚の一番上に上げている。
「こういう雰囲気の時には構いませんでしょう。あなたも私を褒めて下さってもよいのですよ」
への字に結ばれたマナの唇の端に接吻が落とされる。どうか機嫌を和らげてと言うかのように。
「実家でも気にせずやらしい事するんだ」
マナは口付けされた側だけ口角を上げて嫌味な笑みを浮かべる。
「しばらくできませんからね」
二晩ほどは、と立てた二本の指がマナに向けられる。
「その間、欲望の解消のために私以外の誰かと情を交わされてはかないません」
こんな変態行為、他の誰とするというのか。自分を行きずりの他人と易々と肌を重ねる人間だと思うなんて、最低最悪な男である。
「それはお世話様。あんたあたしの事好き好き言う割に信用してないよね」
「好きだが信用はしない、というのは十分成立します」ピンと立てた指がマナの目の前でうるさく振り回される。「お忘れのようですが、故あるとはいえ、あなたはそもそも隕鉄泥棒で、そしてどこか危うい所がある」
忘れかけていた事をよくも掘り返してくれたものである。泥棒などと。
「じゃあどうしたら信用してくれるわけ」
信用というよりは、マナが案外潔癖であるとわかってくれさえすればいいのだが。見ず知らずの他人に触れて、接吻したり粘膜を擦り合わせたりする事への忌避感は甚だしい。