The Pilot - 3/6

 それが遡る事五日前の厄介な出来事。
 そんな中でも良かった事を挙げるとすれば、T4-2と兄に半ば無理矢理救急車に押し込まれたため、その場で警察に持ち物を検められずに済んだ事くらいだろう。
 その時に知ったのが、マナの兄はT4-2の相棒だという事。数分の間に垣間見た兄の態度から、“お硬い”新人をよろしく思っていない事がありありと感じられた。機能的に人より優れている事を認めれば自分の存在意義が揺らぐし、認めなければただの使えない鉄屑が同僚という、なんとも難儀な状況なのだろう。
 粗雑機械のT4-2はそんな相棒の態度など気にもしていない様子だが、そういう険のある雰囲気はマナにとってはひどく不快だ。
 自分を収容した救急車が走り出す前に、マナは兄に一言だけ伝えた。
「良い人だから」
 隕鉄の方は結局壊しそびれて、家に持ち帰り居間の神棚に安置したままにしてあった。隕鉄を壊すのも、かなり気力と体力を消耗するのだ。
 置菱製作所墨田工場はあえなく操業停止になった。しかし折よく広小路工場に異動できて、食い扶持に困る心配はない。自宅から近く、通勤も便利になった。
 盗難が発覚する事もなく、新しい職場にも慣れて、万事順調……かと思いきや。
 最近尾けられている気がする。いや、確実に尾けられている。磁力の網がびんびん張る。厄介な出来事は終わってはいなかった。
 肌寒い春の夕暮れ、いつもの仕事の帰り道、野犬の遠吠え、人気のない路地裏。
 色褪せたホーロー看板が風に揺れ、打ち捨てられた小屋の涙板がガタガタ鳴り、錆びた鉄パイプが転がる。
 マナはぴたりと歩を止める。そろそろ引導を渡してやろう。終業後に気を張って歩くのも、あまりに不自由。
 くるりと振り返り、叫ぶ。
「尾行が下手くそ。それでも警察か、この変質者」
 路地の入り口から差し込む、燃えるような斜陽を背に、大柄な男が半分壊れかけたバラック小屋の影から鷹揚に現れた。
 鍔付きの帽子に、襟を立てたベルト付きの長い外套。白い首巻きは夕暮れに鮮やか。スラックスはアイロンが効いて、革靴は磨きたてのように光る。お上品に腹の辺りで組み合わされた手には抜けるように白い革手袋。
 機械だてらに、また随分仕立ての良さそうで、皺一つない新品の物を纏っているものだ、とマナはT4-2を見て思う。そして、暮れかけの炎のように燃える陽がよく似合う。
「変質者という自覚はありませんでしたが、そう思わせてしまったのなら申し訳ありません。怖がらせてしまったでしょうか」
 尾行対象に見つかったというのに、穏やかで落ち着いた声。
 マナは相手の堂々とも、鷹揚ともとれる様子に少々出鼻を挫かれていた。
「毎晩毎晩あたしを付け回して何が楽しいの」
「興味深く感じる事はありますが、誓って楽しみのためではありません。また正確に言うとこれは毎晩ではなく、毎日の私の退庁時刻から、あなたが翌朝職場に到着するまでの間の行動です」
「やだうそっ、朝まで」こいつやべえヤツだ。マナはやり込めるつもりで声をかけた事をかなり大いに非常に後悔した。
「私は嘘はつきません。特定の状況下以外では」
 そして、輝く双眸がマナを射抜く。
「内藤マナさん、あなたは悪い人ですね」
 やはりあの日、工場から隕鉄を盗んだ事がばれていたのだろうか。
「良い人ですけど」
 対するマナはそう嘯く。
「ではそれでいいですよ」
「含みがあるように聞こえる。嫌味だわ」
 T4-2の穏やかな微笑みと声色は常に一定のものであるが、だからこそマナには嫌味にも聞こえる。
「私は嫌味を言えるほど器用ではありません」
 だろうな、とは思う。
「あたしみたいな一般市民のどこが悪人」
「悪人ではなく、悪い人と言ったのですよ」
 同じでは? と、マナは眉を顰めた。
「あなたはご自身をあえて敵の前に晒して私を戦わせましたね。あなた自身の秘密を守るために。あなたは……」T4-2の揃えられた五本の指先がマナを向く。
 分かっているのなら、みなまで聞かず言ってやろう。マナは警官の言葉に被せて言い放つ。
「隕鉄を盗んだ」
「超能力者ですね」T4-2は同時に発せられたマナの言葉に笑顔を傾ける。「それは初耳です」
 そっちかよ、とマナは舌打ちする。語るに落ちるとすら言えないほどお粗末な振る舞い。
「そうだよ、あたしは超能力者」
 取り敢えず盗みの事はうやむやにして、マナは能力を用いて地面に落ちている鉄パイプをT4-2の胸に向けて投げ槍のように放った。
 空気を裂いて飛んでくるそれをT4-2は造作なく片手で掴んで受け止める。
「胸を狙っても無意味です。私には人間でいう所の心臓はありませんから」白い手がT4-2の胸の中心に置かれる。「そもそもその辺の廃材では私に傷をつける事は不可能でしょう。あなたはその力を私の軀そのものに向けるべきです。それとも、それは何か事情があって難しい事なのでしょうか」
 挑発されたように感じたマナは俄に殺気立つ。
「で、この事どうやって知ったの、お大尽さんビッグスペンダー」錆びた金貸しのホーロー看板に回転をつけて飛ばす。「心が読めるとか?」
「憶測です」T4-2は僅かに軀を傾けただけで看板を避け、後方に飛び去ったそれが近所の窓を割る前にケーブルで引き寄せ優雅に指で挟む。そして看板を見ると一言、お大尽ではないのですがね、と呟いて続ける。「あの事件の日に、あなたに引き寄せられる力を何度も感じました。私の磁性はかなりのものなのです。ところで、読心術の使い手もいるのですか?」
「知るか。あたしを尾行していた理由は」
 答えによっては死ぬ気で抹殺しなければならない。家族に累が及ぶ前に。
 T4-2を挟むように建つ涙板の壁がミチミチと音を立てて剥がれだす。鉄屑サンドイッチを作る下拵えだ。
 サンドイッチの具材は慌てたように半歩踏み出し両の掌をマナに向ける。そんな事をされてもやめる気はないが。
「穏やかではありませんね。どうか落ち着いてください。出血しています。どうやら過度の能力の使用は身体を蝕むようですね」
 首まで伝い落ちる液体の感触に気づきマナが顎を触ると、手にはべったりと血。
 マナは鼻の下を手の甲で拭う。血を見てかなり気分が萎えた。自分は弱く不自由で無様だ。
 血気盛んに逸っていた涙板はその動きを止めた。
「尾行してた理由は。教えてくれない?」
 さっきよりは落ち着いた状態で再び問う。
「あなたがどのような方なのか知りたかったのです。そして今、私の真に求める方だと確信いたしました」
 そしてT4-2の機械仕掛けの両腕が恭しく開かれる。常に芝居がかった仕草はわざとなのか、そういう仕様なのか。あるいはその両方。
 日は沈み、空は紫。T4-2の真上で街灯がちらつきながら灯りまるでスポットライト。
「平和と自由のためにあなたの……」
 どこかの家の窓が乱暴に開く音と怒声が響く。「うるせーぞ!」
「申し訳ありません」
 くるっと向きを変えてどこかへ向けて大声で謝る変質者に、さっさと着いて来い、と仕草で示すとマナは足速に歩き出した。
 幸か不幸か、家族は皆、墨田署刑事課主催の花見で出払っている。察しの良いようで悪いロボット警官とは自宅で話をつける事にする。
「最初の盗みで目をつけられるなんて……」
「初めてというものは、大抵酷いものですよ」
 T4-2がマナに親しげに馴れ馴れしく並び立ち、そう言った。

 

 マナは冷蔵庫を開け瓶ビールを一本取り出すと、慣れた手つき磁力で、星の意匠が描かれた王冠を飛ばし瓶に直接口をつけて喉を潤す。
 花見に差し入れるはずの酒だったが、一本くらい構わないだろう。それくらいは内藤家の、マナの取り分だ。
「私はお茶は結構ですよ。飲食は不可能です」
 居間の方からひょっこり鈍色の顔を出したT4-2が声をかけてくる。彼は濃紺のブレザーの前ボタンを寛げ、座布団の上に行儀よく正座してマナを待っていた。新品の外套と首巻きはその横に几帳面に畳んで置いてあった。帽子もその上に上品に載っている。
「そもそもあんたの分はなんにも用意してないからご安心なさってください」マナはおざなりに語尾だけT4-2を真似て揶揄する。
「それはよかった。私には勿体ないですからね」
 マナはビール瓶片手に居間に戻り、座卓を挟んでT4-2の向かいに座った。スカートの裾が乱れるのも気にせず、脚をだらしなく崩して。
「それであたしに何だって」
 再び待っていましたと言わんばかりに、機械の両腕が開かれる。安っぽい電球の下、くたびれた小さな座布団に窮屈そうに座っているので、あまり格好はついていない。
「平和と自由のために、あなたの悪徳をお借りしたい」
「今なんて」
「平和と自由のために、あなたの悪徳をお借りしたい」一度目とまったく同じ調子で答えるT4-2。
「今なんて、っていうのは“聞こえなかったから同じこともう一回言え”って意味じゃないって覚えといて」
「勉強不足で申し訳ありません。あなたの言い回しは少々迂遠ですね。しかし趣があります」
 マナはビールを一口舐め、沈黙で先を促す。何と言ったらいいかわからなかったのもある。
「先日の有事に私はT1-0……あの巨大な機械で出撃しましたが、防戦一方を強いられ周辺の被害も甚大だった事はご存じの通りかと思います」
 戦いの後の工場周辺の有様はまるで災害の後のようだった。地面の舗装は亀裂で隆起あるいは陥没しパトカーはボコボコ。置菱の車も……いや、それは難を逃れていた。
「それは私の判断が美徳回路に支配されているからです。どうにもこの身は生き物やその営みを守る方に拘泥してしまうようです。当世、またいつ同じような脅威が現れるかわかりません。敵の迅速な確保と短期決戦のためには、あなたのような行動原理の方が必要なのです」
 T4-2の手袋に包まれた白い五本の指先がマナに向けられる。
「私に破壊を行わせるためなら、大勢の敵の前に非武装で飛び出す事も厭わないような」
「根に持ってる?」
 座卓に頬杖をつき口角だけ上げて笑うマナ。もしそうなのだとしたら、なかなか面倒くさくて面白いロボットではないか。
「とんでもない。感心しているのですが、どうにも上手く伝わりませんね」あなたのお兄様にも、人の気持ちを害する廉でよく叱られます、とT4-2。
「なので有事の際には共にT1-0に搭乗して戦っていただけないでしょうか」
 何が“なので”なのかわからない。
 マナは頭の高い位置で括っていた髪を乱暴に解き、肩甲骨まである黒髪をくしゃくしゃと乱して一呼吸置く。
 やっぱりわからない。
「あたし何か聞き漏らした? 乗れないよ」
「ご心配なく。T1-0は複座式です」
 すごくいいでしょう? とでも言いたげにT4-2が胸の前で指を組み、小首を傾げてマナを見る。大男がやる所作ではない。
「いやそうじゃなくて。あんたの計画は上手くいかないよ」
「何故そう思われるのか教えていただけますか」
 T4-2がマナの隣に移動して跪き問う。跪いていてもかなり大きいし、重たそうだし、かなりの圧迫感だ。まるで冷蔵庫に迫られているようだ。しかしマナは気圧される事もなく答える。
「あたしは他人の言う事は絶対聞かないから」致命的な欠陥では? マナは口の端を上げて冷笑した。
「その点については既に考慮済みです。私無しでは生きては行かれない……」そこまで言ってT4-2は一旦言葉を切って、一時停止! のような感じでマナに掌を向ける。「いえ、これではいささか言い方が悪いですね。まるで悪党です」
「あたし悪党は好きだけど」
「いいえ、言い直します」
 上着を脱ぎながらマナの方へ前のめりに傾いてくる巨躯。畳が不穏に軋む。
「あなたに、私を必要不可欠と思っていただけるよう努めます。どうやら、あなたは情の深そうな方のようですから」
 そのままT4-2はマナの背に優しく腕を回し押し倒した。マナのゆるくうねる髪が畳に散らばる。
「どうするつもり」
 マナは天井からぶら下がる安物の電灯よりも真っ直ぐ純粋に光る機械の目を睨んだ。見下ろしてくる微笑は真剣で、決意を纏って精悍でもある。血の通わぬ機械だというのに、触れた腕から情熱のようなものが伝わってくる。
「つまり……」そこまで言ってT4-2は思案でもしているかのように首を傾げた。「平和と自由のためにあなたを籠絡します。肉体的に」
「やり口は悪党そのものじゃないの」
「そうかもしれません。しかし悪党はお好きなのでしょう。ならば良い事ではないですか」
 マナは片眉を上げて切れ長の目を細めた。出来るものならやってみたらいいという、挑発的な顔だった。
 T4-2は無駄のない所作で真っ白な手袋を外す。金属製の甲殻類を思わせる手は無骨な見た目ではあるが動きは妙に肉感的で色気が漂う。
 晒された金属の手は彼女のブラウスの裾をスカートから引き出し、ボタンを上から順番に存外繊細な手つきで一つ一つゆっくり丁寧に外して……。
「破れよ!」マナはまだるっこしくなって叫んだ。
「それは重大な倫理規定違反に当たります」両の掌をこちらに向けて首を横に振る大男。
 平和と自由の名の下に人を押し倒すのはよくて、服を破るのは違反となる倫理規定とはなんなのか。致命的な矛盾と欠陥を孕んでいるのでは。もしや脱がせた後の服は丁寧に畳むつもりだったとか?
「やる気あんのか!?」
 マナは自分のブラウスと下着に一緒くたに手をかけ、自身で思い切り引き裂いた。弾け飛ぶボタン、下着の金具、形の良い胸。そして晒される首元の大ぶりな痣。
「なんて事を。あなたは……」
 金属の手が吸い付くようにマナの手首を床に縫い止め、鋼鉄の男が初めて狼狽えた様子を示す。よく動く発声器官が刹那機能停止し、マナは大分溜飲を下げる。
「……悪い人です」
 困惑に瞬いていた目がマナの首筋を辿り、首元の濃い大ぶりの奇妙な痣に注がれているのが分かる。
「あんたの計画がうまくいかない理由、その二」
 T4-2が首を傾げる。
「何の事でしょう」
「これ」マナは解放された手で痣をさする。
「痣ですね」その言葉からは単なる事実以上の含みは汲み取れない。
「やる気なくしたでしょ」
「いいえ、寧ろいやましにあなたを探究したいという気にすらなりました。その肉体、精神、隅々まで」
「うそでしょ」
 私は嘘はつきません、と返すT4-2。
 T4-2が痣に置かれたマナの手を取り、這わせる。自分の指だが、自分の意思で動かぬそれにマナは妙な気分になる。自分自身でこんな風に労わるように、愛おしむように触れた事はない。
 羞恥と幽かな快感にマナはT4-2から目を逸らす。
「この手で、直接触れてもよろしいですか」
「何を今更」この期に及んで、というやつだ。
「それは、いいという意味ですか。それとも……」
「本当に面倒くさい奴だな」
 マナはT4-2の手を掴んで首筋に放った。
 硬く大きな手が恐る恐るといった様子でマナの小麦色の肌に焼き付いた痣に触れる。冷たい金属の手は人肌に吸い付くように感じられて、大変癪だが心地よい。心身の古傷が癒やされていくようでもある。
「柔らかくて温かくて吸い付くような肌ですね。とても善いものです」
 触れ方は表面上どこまでも優しくもどかしい。それが気遣いなのか、力の加減がよくわからないのか、あるいは官能を煽るためなのかはわからないが。もしかするとそのすべてかも。
 首筋に注がれる視線は細められて、薄暗く赫く。なんだか妙な色を含んでいるように感じる。猛禽が天高くから獲物を睥睨して狙うが如くというか、精緻に編まれた巣に張り付いた獲物に這い寄る蜘蛛が如くというか。期待に満ちた捕食者の喜悦の色香が滲んでいた。
 マナの後頭部が持ち上げられ、首筋に纏いつく髪が丁寧に掻き上げられる。
 首元のぐるりを拘束する痣は晒された項にも勿論刻みつけられている。マナは項に熱い視線を向けられ、焼け焦げるような錯覚を抱く。前照灯のような目で照らされ見られていると思うだけで身体が火照る。
 項の刻印を検めるように指先でなぞられる。指はそのまま痣を辿って前に回り、鎖骨を横断し、二つの鎖骨の間の窪みを辿る。そしてまたもう片方の鎖骨へ。冷たい指はマナの熱っぽくなった首筋を一周し、その枷を征圧した。
 最初は遠慮深い触れ方だったというのに、途中からはなんだか執拗な触れ方に感じられた。
「あ……ん」震えるような愉悦の吐息が漏れる。勿論マナの口から。女々しい声が漏れた事に自分でも驚く。
「大変お綺麗な首筋ですよ」
 機械の溜息が長く細く吐き出されて、その手が離れた。
「服にしか興味ないのかと思った」
 背筋に悪寒のような快感をたたえながらマナは悪態をつく。他人にここまで曝け出して触れられるのは初めての事で、否が応にも鋭敏になる。
「何故そのように思われたのです。あなたが気怠げに流し台に寄りかかってアルコールを呷っていた姿は実に淫らでした。反った細い喉が微かに律動して……私はこの身を内から壊さんばかりの情欲が湧き立つのを感じました」
 T4-2がマナの首筋に顔を埋めて囁く。その声はどことなく切なげで甘美だ。機械のくせにそんな声を出すのはやめて欲しい。耳の奥、頭の中まで弄り回されているように感じでしまう。
 下腹部に鈍痛にも似た快感が溜まっていく。マナの目に愉悦とあり得ない感情の熱い涙が溜まり、吐息と共に勝手にこぼれ落ちる。
「私があの時言うべきだった事は、お茶は結構、などではなかったのでしょうね。しかし本当に、私には勿体無くて。お茶も……あなたも」
 その涙を指先や唇で掬いながらT4-2は静かにそう言った。
「機械が欲情するなんて」
 しかも初手が首筋とはなかなか業の深い仕上がりの人工物だ。それも、痣だらけの。
「自分で言うのもなんですが私には高度かつ繊細な感情が植え付けられていますから発達の過程でこうなる事は自明の理です」汎用亜人型自律特殊人形の言葉はまるで彼自身を納得させようとしているかのようでもあった。
「路地裏であなたの首筋に赤い血の筋が這っているのを見た時には、その場であなたを縛り付けて連れ去り、誰の目にも触れない場所に閉じ込めて、あなたが私に対する嫌悪に泣き叫び謗るのも構わず、欲望を乱暴にぶつけながら、あなたの肢体を永遠に思う様貪りたいという衝動を抑えるのが大変なほどでした」
 そんな願望お首にも出さず慇懃に振る舞っていたとは、末恐ろしい機械。
 自分に対する暗い欲望を誰かに吐露された事など未だかつてなく、マナは過ぎたる負荷に身震いする。それはまさしく求められる悦楽であった。
「このような性愛を覚えるのは初めてです。初めてというものは大抵愚劣で唾棄すべき酷いものですがこれは」機械は詰められていた息を、はあ、と吐く。「実に甘美でした」
 それほどまでに己を渇望される事への暗い悦び。マナの息が官能的な成熟した吐息へと乱れる。
「今もあなたの柔らかな肌に身体を重ねた証を刻みつけたいと熱望してさえいます。しかし私は己の欲望のままに人間を傷つけることはできません」
 明かりを絞った目で変わらぬ微笑を浮かべた顔には狂気と偏執が滲んでいるようにも見える。酷く不埒な二面性だ。これをロボットなどと呼んでいいのだろうか。悪魔の化身かなにかでは?
 本当に平和だとか、自由だとかのためにマナを求めていたのか、それとも。いや、そうでなかったとして、なんだと言うのか。嬉しいとでも?
「私に出来る事といったら」男はマナの首筋や胸、身体の線を撫でるように手を這わせる。「あなたを手に取って崇める事くらいです。どうか私を気に入って、生活必需の道具と思っていただけますよう」
「うっ、んんっ」
 マナの甲高い声があがる。機械の手が彼女の性感を穏やかに乱暴に煽る。男の低く切望するような声には堪えられないものがある。暗い欲望に塗れた声を即刻やめてくれないと、数分と保たずみっともなく絶頂してしまいそうだった。
「あなたも欲情しているように見受けられます」
「してないけど」
 嘘をつく時は間髪入れずに答える。マナの分かりやすい癖だった。
「体表面温度も心拍も高い。これが性的興奮でないと言うのなら何らかの病気」「それだと思う」「という事に」「病気」「なりますが、私の所見では」「黒死病とか」「違いますよ」
 T4-2は、仕方のない人だ、とうっとりとした調子で呟きながら、床に広がったマナの髪を指で掬う。
「緑の黒髪とは、きっとあなたの髪の事ですね」
 指にした髪の一束の先端から根元までを接吻するかのように動かぬ唇が滑る。
「あなたはご自身がすべての瞬間において本当に美しい事を知らないのでしょうね。あなたは魅力的ですが、その事に無自覚です。しかしそれ故にあなたは完全無欠の被造物と言えます」
 涼しい顔でひどく気障ったらしい事を言う機械だ。
「意味わからないし、どうせ誰にでも言うんでしょう、そういう事」
「いいえ、あなたにだけです」
「言葉ならどうとでも言えるからね」
 そうは言うが、この機械の放つ言葉も声もマナには危険すぎた。危険で魅力的。まるで隕鉄のよう。
「ではあなたに対しては今後は行動で示しましょう」
 欲情した機械の手が段々と下へ降りてゆく。薄く引き締まった腹の中心を指でなぞり、スカートで覆われた腰骨の形を確かめるように撫でる。くすぐったさと快感の境を行ったり来たりする触れ方がマナの下腹のあれやこれやを蝕む。
 T4-2はそのままマナの深刻になっている局所に触れるかと思われたが、武骨な手は彼女の中心を避けて通り過ぎてしまう。
 マナの片脚が持ち上げられT4-2の肩にかけられる。勝手に捲れ上がっていくスカート。しどけない女の姿。
 しかしT4-2はその双眸の輝きをマナのあられもなく晒された部分ではなくて、その目に注ぐ。それはそれで反応を観察されているようで羞恥心が沸く。
「僭越ながら進言いたしますが、ご家族以外の前であのように脚を崩して座るのはあまりよろしくないかと。私のように理性の働く者ばかりではありませんからね」
 マナの太腿の内側が指でつーっとなぞられる。抑えきれないマナの快感の息が喉の奥から情けない音になって漏れる。
「くっ……うぅ、ふうぅ……」
 これが理性の上での行為だというならこの機械は直ちに廃棄処分にした方が世のため人のためマナのためなのではないだろうか。
「あなたの奔放な振る舞い、姿形は歪で邪な願望を起こさせるには充分過ぎるように思われますから」勿論、この私にもです、とT4-2は付け加えた。
 そして機械の目はマナの剥き出しの上半身を視姦するようにねっとり通り過ぎて下腹部へ。ゆるゆると脚を撫でていた手が止まる。
「驚いた?」マナは口の端を上げて笑う。
 ゆったりとした下着越しでも分かる、大層な屹立。不覚にもT4-2のお陰で随分出来上がってしまった、男の性質のそれ。
「それはあなたが両性具有という事に対してでしょうか」
「女だと思ってあたしに手をつけたでしょ。残念でした。あんたの計画が上手くいかない理由その三」
 マナの容姿のみを見て“歪で邪な願望”を抱く並の人間なら、彼女が紛れもなく立派な逸物を持っていると知った時点で撤退ものだろう。
 ただ現在マナを“籠絡”しようとしている“それ”は残念ながら並でも人間でもなかったようだ。
 それは至って当然といった風に平坦な声で宣う。
「いいえ、既に存じ上げておりましたから」
「なんでっ!?」
「あなたが夜毎就寝前に男性器を用いて自涜に耽っている所を拝見しておりましたから」
「家に忍び込んでたってこと!? この変態! 犯罪者! 警察呼ぶ!」
 マナは目を見開いて叫ぶ。性感は吹っ飛び、股間の熱も冷める。変態犯罪者の肩にかけた脚を下ろそうとするが、がっちりと磁力が働いているかのように押さえられていて自由が利かない。せめてとスカートを引き伸ばして下着は隠そうとするが大した効果はなく、安っぽい繊維の何本かが千切れていく音がするだけだ。
「変態という事については否定しませんが、犯罪者ではありません。敷地に入ってはいませんから。外から赤外線視覚を用いて観察していただけです。あと、私が警察なので御用があるならどうぞ」
 御用? それって一体どの意味の御用なわけ?
 マナが絶句していると汎用亜人型自律特殊人形は自分の説明が足りなかったとでも思ったのか、彼女の返しを待たずに続ける。
「赤外線視覚とは、簡単に言えば物体の発する熱が見えるという事です。温度差で物の形や動きを捉えられます。特にそういう事をすると体温が高くなりますから、いわば丸見えです」
「人を傷つける事はできないはずじゃないのッ!?」
 マナは慟哭した。こいつといると情緒が滅茶苦茶に蹂躙される。自分の人権とは? プライベートとは? ブリキ野郎にここまでされる謂れは? なくない?? ないよ!
「はい、その通りですが何かご不明な点でもございますか」
 よく訓練された高級店の店員のような完璧に慇懃な笑顔と声色。こちらに落ち度はないのだからとっとと引き下がってくれと言わんばかりのもののようにマナには感じられた。
 そしてこの機械野郎の反応でよくわかった。つまり、人の肉体を害する事はできないが、人の気を害する事については何の制約も設けられていないという事だろう。
「人でなし!」
「はい、その通りです」人間ではなく、機械である。
「鉄屑にしてやる!」
「それは骨が折れますよ」慣用句なのか、物理的になのか。
 T4-2はベストを脱ぐ。まだシャツは機械仕掛の軀を覆っているが、それでもその男性型の分厚い体躯の頑健さは窺える。がっしりした肩に、各種武装が格納された頼もしいまでに太い腕、張り出した厚い胸元、引き締まった腹部。まったく上等な彫像である。
「上等な冷蔵庫ね。あたしを脅してんの」
 心外とばかりに笑顔のそれが肩を竦める。
「滅相もない。それはあなたが人を脅すような性格か、脅された経験があるから、私の事もそうなのだとお感じになるだけです。私は、トロイリ四型汎用亜人型自律特殊人形をスクラップにするのは物理的に困難だという事実をお伝えしたまでです」
 マナの怒りが膨れ上がり、そして飛び散った。